2009/08/09

原爆の悪夢

最近、遠く離れた地域の戦争がテレビで中継されると、ステレオタイプに「ゲーム感覚」とか皮相な論評をするバカ評論家や大学教授が多いのは、実に嘆かわしい。が、恐らく戦争当事者の感覚として、最も「ゲーム感覚」に相応しかったのは広島、長崎の原爆投下ではないのかと思う。

 

広島と長崎で、それぞれウランとプルトニウムという別種の新兵器を使い分けた、同じ白人種のドイツには投下しなかった、先のイラク攻撃でも使用しなかった(そもそも、イラク攻撃自体が(イスラムの歴史のある国に)「民主主義を根付かせる」というトンチンカンなものだったが)、といった事柄から見ても、極めて「実験的要素」の色濃いものだった。

 

恐らく、アメリカの感覚では「生意気で目障りなサル山を殲滅してしまえ」くらいなものだったのだろう。

 

この無辜の民、というよりは明確に「女子供たちを標的とした数十万単位の大虐殺(60年以上たった今も、深刻な後遺症が続いている事を考えれば被害は優に数百万を数え、今後もまだ増加していく)という意味では、ドイツ・ナチ政権のホロコースト(計画的・組織的な大量殺戮)に匹敵するか、それ以上の「人類史上に例を見ない最大の極悪犯罪」であることは、一点の疑いもない。

 

ところが、アメリカはあの犯罪を正当化するため「原爆投下が戦争終結を早めた」という牽強付会な論理を振り翳して、自己正当化をしただけではまだ枕を高くして寝られなかったか、次には文化大革命その他で「同胞を億単位で虐殺してきた」歴史上にも例のない鬼畜のような某国と共謀して「南京大虐殺30万人」という荒唐無稽な与太話を創作したのである(実際の創作者は「天下の朝日新聞」だが、その後「南京大虐殺30万人のインチキ」のカラクリは証明された)

 

このような国際情勢にもかかわらず、平和ボケした戦後日本の政治家らは、冷戦時代に「米ソのニ強が核で睨み合っていたから、どうにかハルマゲドンが起こらずに済んだのだ」という厳然たる事実すら直視せず「平和」のお題目を唱えながら、現実世界から目を反らし続けてきた。

 

その隙に乗じて狂った王朝国家は核を振り翳し、他国の主権を侵すという犯罪行為をヌケヌケと行っているにもかかわらず、「大型花火」打ち上げ程度の認識しか持たないままに、なす術もなく痴呆のように頭上を通過するミサイルを眺めているのが関の山という、ナントも救いがたい顛末に至ったのである。

 

この間、国際社会とはおよそ懸け離れたところで、どうでもいいような「消費税」のアホ騒ぎにウツツを抜かす大バカ政党の煽動に踊らされ、天下国家を「台所感覚」で論ぜよといったド素人議員が粗製濫造されてしまうという終末を迎えた結果、国家と国民の安全と生存を与るべきはずの国会議員にして

 

「(日本の)核武装については議論すら許されないという、デモクラシーにあるまじき反核ファッショの言論統制」

 

が公然と罷り通っている現状である。

 

そうしたノータリンな愚か者のヒステリーこそが、狡猾な狂犬王朝を益々つけ上がらせているのだ、という自己認識すら皆無と来ている。

 

勿論、世界中から綺麗サッパリと核兵器がなくなるならば、それ以上に喜ばしいことはないに決まっているが、そうは問屋が卸さないのがリアル世界なのだ。その証拠にいかに奇麗事を並べようとも、アメリカなどが「あの救いがたいゴロツキ」と同じテーブルで交渉しなければならないのは、一にかかって「相手が核を持っているから仕方なく」というのが真相なのであり、そうでなければあのようなゴロツキが国際社会から相手にされるはずがないのである。

 

さらに言うなら、あのゴロツキが日本の上空にミサイルを飛ばすという、フザケタ暴挙を平然と繰り返せるのも「核を持たない日本など恐れるに足りず」と見下されているのが現実なのである。先の原爆投下にしても、あの時点で日本が核を持っていたらアメリカは報復を恐れて核攻撃は行わなかった。

 

上記の現実を踏まえ、国家の生存を真面目に考えるなら「日本の核武装については議論すら許されない」などという戯けたことを言っていて良いはずはない。

0 件のコメント:

コメントを投稿