元は「シナヌ」であったとされ、後に「科野」の字が当てられた。
「古事記」中巻には「神八井耳命者科野国造等之祖也」と記され、大国主命の子健御名方命が諏訪に入国する際にも「科野国之洲羽海」に至ると記される。
「科野」の語源については諸説あるが、江戸時代の国学者である谷川士清は「日本書紀通證」に「科の木この国に出ず」と記し、賀茂真淵の「冠辞考」にも 「(一説では)ここ科野という国の名も、この木より出たるなり」と記しており「科の木」に由来する説が古くから有力とされている。
また、賀茂真淵は「名義は山国にて級坂(しなさか)のある故の名なり」とも記しており、山国の地形から「段差」を意味する古語である「科」や「級」に由来する説を残している。他に「シナとは鉄に関連する言葉」とする説もある。
「科野」は和銅6年(713年)の「風土記」を境に「信野」を経て「信濃」へと移り変わっていく。長野県で最も古い「信濃国」の文字は、平成6年(1994年)に千曲市屋代遺跡群から発見され、現在は長野県立歴史館に所蔵されている8世紀前半(715~740年)の木簡となる。
出典Wikipedia
出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
長野県は、古くは信濃国でした。信濃国は本州のほぼ中央部にあり、北から東は越後国、東は上野国、武蔵国、甲斐国、駿河国、南は遠江国、三河国、西は美濃国、飛騨国、越中国の10国に接します(県歌「信濃の国」は「信濃国は十州に境つらぬる国にして」と歌います)
東山道に属し、初め科野国と記され和銅6(713)年の好字令により信濃国となりました(『古事記』は総て科野国、『日本書紀』は総て信濃国と記します)
科野国の起こりは千曲川流域付近で、弥生時代後期には天竜川流域と対比される独自の文化圏を形成していた、と考えられています。古代豪族は東信濃に国造科野氏から多氏、諏訪に神(みわ)氏、安曇に安曇氏などが割拠し、5世紀ごろから渡来人の定着がみられます。
ポリネシア語による解釈
律令制の下で信濃国には伊那、諏訪、筑摩、安曇、更級、水内、高井、小県、佐久の10郡が置かれました。養老5(721)年、国を分けて諏方国(その区域は不詳で、諏方・伊那の2郡から筑摩・小県・佐久を含めた5郡とする説があります)が置かれましたが、天平3(731)年に旧に復しています。国府は当初小県郡(現上田市)に置かれましたが、平安初期に筑摩郡(現松本市)に移っています。
木曾地方は近世初頭に美濃国恵那郡から分かれて筑摩郡に編入されましたが、ここでは筑摩郡の部で解説します。
『和名抄』は、「之奈乃(しなの)」と訓じます。国名は「階坂(しなさか。段丘地)」から(賀茂真淵)、「シナ(栲の別称)」から(本居宣長)、「科(しな)の木」から、信濃にかかる枕詞「みすずかる」の「篠野」の転、「砂野」の転、「撓う」から「浅い皿状の小盆地」の意などの説があります。
この「しなの」は
(1)「チ・ナナウ」、TI-NANAU(ti=throw,cast,overcome;nanau=angry(whakananau=be
angry;(Hawaii)nanau=unfriendly,bitter,crabbed))、「友好的でない態度を・示す(国。または暴れる川が流れ出る国)」(「ナナウ」のAU音がO音に変化して「ナノ」となった)
(2)または「チナ・ノホ」、TINA-NOHO(tina=fixed,firm.satisfied,overcome;noho=sit,stay,settle)、「(移住者が)満足して・定着した(国。その国から流れ出る川)」(「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となった)
(3)または「チ(ン)ガ・ノフ」、TINGA-NOHU(tinga=likely;nohu=a fish with poisonous spines like a
porcupine fish)、「ハリセンボン(魚)に・似ている(周囲に険しい山々を巡らし、他からの侵入・容喙をかたくなに拒絶する。国。その国から流れ出る川)」(「チ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「チナ」から「シナ」と、「ノフ」のH音が脱落して「ノウ」から「ノ」となった)の転訛と解します。
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