昭和49年竣工の「東京港改訂第二次13号埋立地」に開いた町に、幕末当時押し寄せる欧米列強を撃退する目的で、江戸湾に並べた砲台島を「品川台場」また「御台場」と呼んだため、その名を拝借した。平成7年、新住居表示を実施して1~2丁目に分け、現行の「台場」とした。レインボー・ブリッジを一般道で越えたところで、フジテレビが河田町を捨てて移っていった町だ。
13号埋立地は、その帰属において品川区・江東区と争い、自治紛争調停で三分割して決定を見た。品川区東八潮・江東区青海がその結果だが、江東区が多分に有利だ。 お台場海浜公園に、第三台場が陸続きで開放されている。
嘉永六年(1853)、ペリー来航に肝を潰した幕府は、伊豆韮山代官の江川太郎左衛門英龍を急遽召し出し、勘定吟味役に任じ邀撃計画を立案させた。英龍の意見具申は
「富津岬と三浦半島観音崎にまず砲台を据え、浅海面にも要塞島を構築、それから横浜本牧、羽田、品川沖に砲台を築く」
という広大な構想だったが、財政難の幕府はとてもそんな予算はなく、品川沖に要塞島を並べることにした。江戸湾の奥に、そんなものを作っても無意味だと英龍は説得したが、役人根性はいつの時代も同じで受け入れられず、そこで11基をジグザグに並べて迎撃・横撃・追撃の3機能を持たせることにした。
設計は、オランダのエンゲルツの築城書をヒントに書き上げたが、英龍の技術思想が高すぎて当時の職人レベルでは理解できなかったようだ。海中に方形もしくは五角形に築地して、第一~第七台場まで着工し、完成したのは第一・第二・第三・第五・第六の5基、第四・第七は未完成で終わった。代わりに、御殿山下に台場が作られた。
品川台場そのものは意味を持たなかったが、要塞島としての出来栄えは素晴らしいもので、英龍の当初の計画は明治維新後、日本海軍によって完成した。英龍の面目躍如というところ、しかし鬼才江川太郎左衛門英龍は明治維新を待たず、安政二年(1855)の正月に亡くなった。
現在、第一と第五は品川埠頭(港南5丁目)の内に、第四は天王洲(東品川2丁目)の東海運輸の辺りに埋没、第二と築地中の第七は航路の障害として撤去された。 現存するのは、第三台場(公園)と第六台場(未公開)で、御殿山下台場は現在も五角形の敷地のまま、御殿山小学校となっている。
高輪で振りさけ見れば遥かなる 品川沖にできし島かも(狂歌)
天の原振りさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも(仲麻呂)
台場が正式地名で、お台場は通称だ。幕末には「御台場」といったが、明治になって新政府が幕府に関するもので〝御〟の字のつくものは全て削除するように命令を出したため、御台場も台場となった。ただし「御徒町」と「御殿山」だけは、お目こぼしされた。
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