2013/11/25

大阪

大坂」という地名は、元々は現在の大阪市域のうちの大和川と淀川(現在の大川)の間に南北に横たわる上町台地の北端辺りを指し、古くは摂津国東成郡に属した。この漢字の地名に関する最古の記録は、1496年、浄土真宗中興の祖である蓮如によって書かれた御文の中に見られる「摂州東成郡生玉乃庄内大坂」との記載である。 

 

元々、蓮如が大坂と呼んだ一帯は、古くは難波(浪華・浪花・浪速)などが地域の名称として用いられていたが、蓮如が現在の大阪城域に大坂御坊(いわゆる石山本願寺)を建立し、その勢力を周辺に伸ばすに及んで大坂という呼称が定着した。その語源は、大きな坂があったために大坂という字が当てられたという説があるが、蓮如以前の大坂は「オホサカ」ではなく「ヲサカ」と発音されており、諸資料にも「小坂(おさか)」と表記された例が見られる(日本書紀には烏瑳箇とある) このため、この説は信憑性に乏しい。

 

蓮如以後、大坂は「おおざか」と読んだとされる。江戸時代、商人・伝兵衛が海難事故でロシア帝国に漂流した時、ロシア人には「ウザカ」と聞こえたと伝わっている。しかし、従来「おさか」と読んでいたのを大阪駅の駅員が「おーさか」と延ばして言うようになったのが広まり「おおさか」と呼ばれる様になった、という説もある。漢字の表記は当初「大坂」が一般的であったが、大坂の「」の字を分解すると「土に返る」と読めてしまい縁起が悪いということから、江戸時代のころから「大阪」とも書くようになり、明治時代には大阪の字が定着する。

 

一説に「坂」から「阪」への変更は、明治新政府が「坂」が「士が反する」、すなわち武士が叛くと読めることから「坂」の字を嫌ったとも、単に役人の書き間違えの言い訳から定着したともいう。

 

現在の大阪市の直接の前身である大坂の町は、古代の日本最初の本格的な首都である大化改新の時の難波長柄豊埼宮(なにわのながらのとよさきのみや)や、住吉津(すみのえのつ)難波津(なにわのつ。なにわづ)を起源に持つ、歴史的な国際的港湾都市であった。また江戸時代には、既に現在の大阪市の中央部を広く町域とする日本屈指の大都市であり、日本経済の中心だった。

 

後の「大坂」が位置した上町台地は、古代には「難波潟」と呼ばれる湿地に突き出した半島状の陸地で「難波(なにわ)」、「浪華(なにわ)」、「浪花(なにわ)」、「浪速(なにわ、なみはや)」などと称されてきた。この地には、古代大和朝廷が外国への使節の送り出しや、迎接に利用する瀬戸内海東部の重要な国際港であった「住吉津」や「難波津」が置かれ、古代の仁徳天皇の難波高津宮を始め、大化の改新時の難波長柄豊崎宮や聖武天皇の難波京(難波宮)などが営まれ、朝廷の首都あるいは副都として利用された。また律令制の下では、首都に置かれる京職に準じる特別の官署、摂津職によって管理された。

 

難波が古代国家によって重要視されたのは、大阪湾は西日本の交通の要である瀬戸内海の東端にあたり、かつ当時の中央政府があった内陸の飛鳥地方・平城京から見て最も近い港湾であることによる。住吉津を管理する住吉大社は、大和朝廷直属の社として重要視されていた。難波津は土砂の堆積により港としての機能を衰えさせ、奈良時代の末には放棄され、代わって神崎川河口の河尻泊(現在の兵庫県尼崎市)などに繁栄を譲る。しかし平安時代には、淀川水系を利用して営まれた平安京が恒久的な都となったことから、瀬戸内海から淀川を通じて京都に通じる水運の要衝、また北から淀川を渡り、南の四天王寺や住吉大社、熊野へと続く陸上交通の要衝として栄えた。当時、のちの天満橋から天神橋までの淀川河口一帯にあった渡辺津は、嵯峨源氏の一族渡辺氏の名字の地としても有名である。

 

15世紀に「大坂」の地名を持って呼ばれるようになった上町台地の先端部は、1496年に蓮如がこの地に建立した浄土真宗の石山道場に1532年、証如が山科本願寺から移り石山本願寺となったことから寺内町として発展した。織田信長と本願寺の間に戦われた石山戦争で1580年に顕如が退去した後の1583年には、石山本願寺の跡地に豊臣秀吉が大坂城を築き、城下に配下の大名の屋敷や堺などの周辺の町々の町人を集めて、上町台地から大阪平野に広がる大坂の町を築いて政治・経済の中心都市とした。このため、安土桃山時代のうちの豊臣政権期を指して「大坂時代」と呼ぶ人もいる。

 

豊臣氏が滅んだ大坂の役で大坂の町は一時的に荒廃したが、江戸幕府は大坂を直轄地(天領)とし大坂城を再建する一方、河川の改修や堀の開削を行い、諸藩も蔵屋敷を置いた。蔵屋敷へは水路で年貢米が運ばれたため、八百八橋と言われるほど橋と水路の多い町となった。こうして水の都として復興した大坂は、日本全国の物流が集中する経済・商業の中心地となり「天下の台所」と呼ばれて繁栄した。また、こうした経済的な発展に伴って、いわゆる「元禄文化」が大坂を中心に花開いた。堂島の米市場では、世界で最初の先物取引が行われた。

 

近世大坂の町は江戸幕府の派遣した大坂町奉行支配のもとに北組、南組、天満組の三組に分かれ、総称して大坂三郷と呼ばれた。北組・南組は、現在の中央区の本町通を境とする南北にあたり、天満組は北区の大阪天満宮を中心とする一帯である。 大阪の旧市街地は沽券地として、江戸幕府から町人間で譲渡が許されていた。

 

近世に現在の大阪市中心部は、その姿を整えたと言ってよい。現在も続く近世以来の大坂の町は、天満、上町、堂島、中之島、船場(北浜)、阿波座、堀江、島之内、江ノ子島などが知られている。

出典Wikipedia

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