「尊」または「命」と称される「みこと」の語源は「御言」と見るべきである。
「言葉」は、元々は「言」と言った。
漢文学者の白川静によれば「言」は「辛」と「口」から成る。
「辛」は刺青の針の象形で「鋭い」(先の尖った鋭利な物)という意味がある。
「辛」(刃物、針)+「口」。
刃物で切り開いてはっきりという、または「口」は神器を表わすため「誓いを破れば針で罰を受けると神に誓うこと」を意味する。
「言葉」は「言(こと)」と「端(は)」の複合語である。
古く、言語を表す語は「言(こと)」が一般的で「ことば」という語は少なかった。
「言」には「事」と同じ意味があり「言」は「事実にもなり得る重い意味」を持つようになった。
そこから「言」に事実を伴わない口先だけの軽い意味を持たせようとし「端(は)」を加えて「ことば」になった、と考えられる。
奈良時代の『万葉集』では「言葉」、「言羽」、「辞」の三種類の文字が使われ「言羽」も軽い物言いを表現しているといえる。
これとは別に「木の葉のように、無数の種類が存在することを意味する」とする解釈もある。
「御」は、名詞に付いて尊敬の意を表す。
これを要するに「神のような貴い方の発する言」が「御言(みこと)」となる。
後代になって、天皇の発するお声を「御言葉」というのも、ここから来ているとみてよい。
神代では「葉」はなく「御言」、すなわち「みこと」となる。
古代では、命令のことを「御事(みこと)」と言った。
いわゆる「神のお告げ」(神勅)である。
「神からの命令(御事)は、命を賭けても果たすべきもの」である故に「命」の字を当てたと思われる。
「命」の字は「令」と「口」から成る。
「令」は儀礼用の深い帽子を被り、跪いて神のお告げを受ける人の形を表したもの。
「口」は、神への祈りの文である祝詞をいれる「サイ」を表す。
神に祝詞を唱え、お告げとして与えらえたものを「命」といい「神のお告げ、おおせ、いいつけ」の意味となる。
生命のように「いのち」の意味で用いるのは、人の命は天から与えられたもの、神のおおせであると考えられたからだ。
金文甲骨文では「令」を「命」の意味として使っていて、令が命の元の字である。
別の解釈では「命」の上の部分は冠を表す。
先に記載した通り「口」は神への祈りの文である祝詞を入れる「サイ」を表し、右側は「跪く」人の姿である。
「冠」は神の象形だから、まさに「跪いて神のいいつけ(ご神勅)を賜る姿」である。
そして命を懸けて、それを実行に移すことから「xxx命」となる。
一方の「尊」は上部は酒樽を表し、下の「寸」は両手で捧げ持っている象形と言われる。
両手で酒樽を頭の上に捧げ尊ぶ姿である。
大雑把に分類すると、古事記では「命」、日本書紀では「尊」が使われる。
大和言葉の古事記は日本人が記し、漢文の日本書紀は主に雇われC国人が記したものと言われる。
古事記が日本人向けに日本人が書いた内輪の書物であったのに対し、日本書紀は主にC国などの外国向けに「日本にもこういう立派な史書があるんだぞ」ということで、日本=先進国家というアピールを諸外国に示したいがために作られた書物だった。
が、当時の日本人には、C国人が読んでも違和感のないレベルの漢文を書ける人材は、まだ少なかった。
そこで高い給料を払い、C国から一流の学者を呼んで日本書紀を書かせた。
日本書紀が「命」ではなく「尊」を使用したのは、おそらくC国人からみると「xxx命」では、先に記したような意味がわからなかったからである。
だからC国人でも、すぐにその人物の身分の高さがわかるように「命」を「尊」という文字に置き換えて記述したと思われる
それが後に単純化され、命令をする方の(より尊い)神が「尊」、命令を受けて命を懸けて実行に移す神が「命」というような区分となっていった。
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