2015/05/21

寝屋川と鉢かづき姫

「ねやがわ(寝屋川)」は「御伽草子」の「鉢かつぎ姫」に由来するとのことだが、大阪人にはよく知られる地名である。

 

大阪東部を流れる淀川の支流の一つの名であると同時に、京阪電車沿線の市名ともなっているこの地名は、寝屋川市史などによると市内を流れている「寝屋川」に由来するとされるが、その元になった「寝屋(ねや)」は「御伽草子」の中の「鉢かづき姫」の話にまつわっているらしい。

 

「鉢かづき姫」の主人公は初瀬姫で、父親は貴族藤原実高。その別邸が、いま寝屋川と呼ばれている川の源流地近く、すなわち枚方の南部にあたる生駒山の北端あたりで、すぐそばを高野街道が通っていた辺りだった。

 

実高は信心深く親切な人で、高野山にお参りする人たちにこの邸を一夜の宿として提供していたことから、人々がいつしかその別邸を「寝屋(ねや)」と呼ぶようになり、それにまつわって近くを流れる川が「寝屋川」と呼ばれるようになった。さらに、この辺りの町村が合併して新たな市が誕生した時に、市名に借用されるようになったとのこと。いかにも納得させられる地名伝説だが、本当のところを知るためには地名学の基本に立ち返ったほうが良い。

 

地名語源辞典などによれば「ね」とは「おね(尾根・御根)」、「みね(嶺・峰・御根)」の「ね」で「山頂」を意味するとともに「根っこ」の「根」でもある。御伽草子に登場する藤原実高の別邸があったらしいとされる場所は、生駒山の北端の崖にあたる辺りであり、川が流れ出ているところから「谷(たに、や)」すじである。こういう地理的条件を考えると「ね」は「山の麓」、「や」は「谷」を意味しているものと考えられる。

 

「御伽草子」は、昔からの言い伝えを説話にした伝説である。「御伽草子」が成立する以前から、地元の人たちは、この辺りを「ねや」と呼んでいて、それに「御伽草子」の伝説が加わって「寝屋」という漢字を当てたのではないか、とも推測される。「ねや(寝屋)」という地名は大阪以外にも存在するが、いずれも山の麓で土地が湿って粘っこいところを意味するらしく、やはり大阪の寝屋川市と同じような地勢環境と考えられる。

 

鉢かづき(はちかづき)は、古典の「お伽草子」の話の一つ。鉢かづき姫、鉢かつぎ姫とも呼ばれる。

 

「かづき」は「頭にかぶる」という意味の古語「かづく」(被く)の活用形であり、現代語にもある「かつぐ」(担ぐ)の活用形ではない。

 

場合によっては「かづき」の表現を現代語に訳して鉢かぶり姫ということもある。

 

内容

『三草紙絵巻』より「鉢かづき」。家を追い出されてさまよう鉢かづき姫。

昔、河内国交野郡に寝屋備中守藤原実高という長者が住んでいた。長谷観音に祈願し、望み通りに女の子が生まれ、やがて美しい娘に成長した。しかし母親が亡くなる直前、長谷観音のお告げに従い娘の頭に大きな鉢をかぶせたところ、鉢がどうしてもとれなくなってしまった。

 

母親の死後この娘(鉢かづき姫)は、継母にいじめられ家を追い出された。世をはかなんで入水をしたが、鉢のおかげで溺れることなく浮き上がり、「山蔭三位中将」という公家に助けられて、風呂焚きとして働くことになった。中将の四男の「宰相殿御曹司」に求婚されるが、宰相の母はみすぼらしい下女との結婚に反対し、宰相の兄たちの嫁との「嫁くらべ」を行って断念させようとする。

 

ところが嫁くらべが翌日に迫った夜、鉢かづき姫の頭の鉢がはずれ、姫の美しい顔があらわになった。しかも歌を詠むのも優れ、学識も豊かで非の打ち所が無い。嫁くらべのあと、鉢かづき姫は宰相と結婚して3人の子どもに恵まれ、長谷観音に感謝しながら幸せな生活を送った。

 

なお、藤原実高が住んでいたのは、現在の寝屋川市のあたりとされており、寝屋川の民話として紹介されていることがある。また、寝屋川市のマスコットキャラクターである「はちかづきちゃんは鉢かづき姫が元となっている。

 

姫の名は初瀬山の長谷観音にちなんで付けられた「初瀬姫」と伝えられている。

 

その後の話

若君の兄嫁たちと美貌や宝物や才覚を競う話がつづき、継母と不仲になって屋敷を出た父君との再会が果たされる。

出典Wikipedia

 

ポリネシア語による解釈

寝屋川は生駒山地北部の清滝丘陵に源を発し、寝屋川市南部、大東市住道を流れ、大阪城北の京橋付近で淀川に合流します。この「ねや」は、マオリ語の「ネヘ・イア」、NEHE-IA(nehe=rafter of a house;ia=indeed,each,very)、「実に家の垂木(たるき)のような地形の場所(清滝丘陵の波状の尾根が連なる地域から流れ出す川)」の転訛と解します。

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