伊勢神宮の門前町として発達した都市で「神都」の異名を持つ。旧国名であって、現在の三重県の一部。
「伊勢国」という国名の由来は『伊勢国風土記』によれば、以下のようである。
〈それ伊勢の国は、天の御中主の尊の十二世の孫、天の日別の命の平治けし所なり。 天の日別の命、勅を奉りて東に入ること数百里なりき。その邑に神あり、名を伊勢津彦といへり。天の日別の命、兵を発してその神を戮さむとしき。伊勢津彦の神は近く信濃の国に住ましむ。天の日別の命、この国を懐け柔して、天皇に復命しき。天皇、大く歓びて詔り給いしく「国は国つ神の名を取りて伊勢と号くべし」と詔り給ひて・・・〉
伊勢の国名は、土着の神である伊勢津彦に由来していることになっている。そして、桑名・員弁・朝明・三重・河曲・鈴鹿・奄芸・安濃・壱志・飯高・飯野・多会・度会の13郡よりなっている。内宮周辺の宇治と外宮周辺の山田を合併した「宇治山田市」が1955年、伊勢神宮の鳥居前町として発展したことから伊勢市と改称。
「伊勢」は、三重県の大部分の旧国名。「伊斉」とも書く。「イセ」は川の瀬が多いところ「五十瀬(いせ)」とする説、神聖なところから「斎瀬(いせ)」とする説、「磯(いそ)」からとする説、「大和の背の国」とする説ほか諸説ある。また、神武天皇が伊勢津彦命(伊勢を追われた風水の神)の名から命名したという説話もある。なお、東征に従軍して紀伊で没したといわれる神武天皇の兄は「五瀬命(いつせのみこと)」。「五瀬」は「厳稲」の意で、穀物の神という。
他にも古くから和歌に詠われた「五十鈴川(いすずがわ)」には、倭姫命の伝説など多くの伝承が残る地。伊勢(いせ)国は東海道15国の一つで、天武天皇9(680)年ごろ、伊勢・伊賀・志摩の三国に分かれた。国名の由来は『伊勢国風土記』逸文に、伊勢津彦が国土を献じ風を起こし波に乗って東方へ去ったので、神武天皇の命により国神の名を取って命名したという説話がある。
さらに
(1) 大和国の背の国
(2) 山を背にしている国(以上『古事類苑』)
(3) 五十鈴川にちなむ地名で、「五十瀬(いせ)」から(谷川士清『和訓栞』ほか)
(4) 度会郡伊蘇(いそ)郷にちなむ「磯(いそ)」の転(松岡静雄ほか)
とする説など。
海に面した膨大な伊勢平野は、奈良や伊賀盆地から見た時に「うぃーせ(広くてより良い所の意)」であったことが語源ではないかと言われる。この「うぃーせ」が伊勢へと発展した、と考えられている。
古典からみた伊勢
伊勢国風土記
神武天皇が大和へ入った時、天日別名に命じて数百里東の巴の神を平定させたが、その名を伊勢津彦と言った。この神は国を献上して海を渡って東に去り、天皇はこの国つ神の名を取って国号としたという。
古事記
応神天皇条には海部・山部・山守部とともに伊勢部を定むとあるが、他に伊勢部の名はなく他方磯部の氏名・地名があり、これらから伊勢は磯の転訛で、海辺の国の意から来たものとも考えられる。
和名抄
伊勢を以世と訓じ
皇太神宮儀式帳
伊勢の名義思ひ得がたし、伊鈴川など名たたる川あれば瀬の国なるを伊の発語を冠らせ伊勢といふよしへど、体語に発語あつ事なし、又磐余彦天皇の御兄五瀬命坐せる国なれば伊勢といふよしいへどよくもあらず、その名義尚考索すべきなり
勢陽五鈴遺響
伊勢ノ名義ハ区々タル俗説ハ容難シ、其地形ノ山岳ヲ背ニ帯ブニ拠テ勢ノ国ト称スベシ、伊ノ助辞ニシテ紀伊ノ例ニ相同ト云ハ、今古ノ確論ナリ
三国地誌
或ハイセハ妹背ノ中略ト云ヒ、又歌ニ五十瀬渡ルト読ル如ク五十瀬ニシテ猿田彦命ヨリハジマリ、則五十瀬ノ略語土金自然ノ国号ナリトモ云ヒ、イヅレカ是ナルヲシラズ
ポリネシア語による解釈
この「いせ」は、マオリ語の「イ・テ」、I-TE(i=beside;te=emit a
sharp explosive sound)、「(荒波が打ち寄せる)大きな音がとどろく場所のそば」の転訛と解します。これは『日本書紀』垂仁紀25年3月の条に「神風の伊勢国は、常世の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり」とあることに符合します。
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