2015/11/26

古事記の国産み

次に伊豫(いよ)の二名嶋(伊豫は四国のことで、二名(ふたな)とは「伊豫・讃岐」で一つ、「阿波・土佐」で一つと数えているらしい)をお生みになられた。この嶋は、身は一つで、面(おも=顔)が四つあり、顔ごとに名前がある。それは伊豫國を愛比賣(えひめ)と云い、讃岐國を飯依比古(いひよりひこ)と云い、 粟國を大宜都比賣(おほげつひめ)と云い、土左國を建依別(たけよりわけ)と云う。

次に隠伎の三子嶋(隠岐島は、知夫里島・中ノ島・西ノ島・島後島が主な島で、当時の知識では「3つの島」で十分に納得できる)をお生みになられた。またの名は天之忍許呂別(あめのおしころわけ)と云う。

次に筑紫嶋(つくしのしま)をお生みになられた。この嶋も身一つで顔が四つあり、顔ごとに名前がある。それは、筑紫國を白日別(しらひわけ)と云い、豐國(とよくに)を豐日別(とよひわけ)と云い、肥國(ひのくに)を建日向日豐久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)と云い、熊曾國(くまそのくに)を建日別(たけひわけ)と云う。

次に伊伎嶋(いきのしま)をお生みになられた。またの名を天比登都柱(あめひとるばしら)と云う。

次に津嶋(つしま)をお生みになられた。また名を天之狹手依比賣(あめのさでよりひめ)と云う。

次に佐度嶋(さどのしま)をお生みになられた。

次に大倭豐秋津嶋(おほやまととよあきづしま)をお生みになられた。またの名を天御虚空豐秋津根別(あまつみそらとよあきづねわけ)と云う。

この八つの嶋を先に生まれたので、大八嶋國(おほやしまのくに)と云う。

その後、天上にお帰りになられる時に、吉備兒嶋(きびのこじま)をお生みになられた。またの名を建日方別(たけひかたわけ)と云う。

次に、小豆嶋(あづきしま)をお生みになられた。またの名を大野手比賣(おほのてひめ)と云う。

次に大嶋をお生みになられた。またの名を大多麻流別(おほたまるわけ)と云う。

次に女嶋(ひめじま)をお生みになられた。またの名を天一根(あめひとつね)と云う。

次に知訶嶋(ちかのしま)をお生みになられた。またの名を天之忍男(あめのおしを)と云う。

次に兩兒嶋(ふたごのしま)をお生みになられた。またの名を天兩屋(あめふたや)と云う。吉備兒嶋より天兩屋嶋まで、併せて六嶋である。


●日本書紀の国産み 

『日本書紀』の記述は、基本的に、伊奘諾(イザナギ)・伊奘冉(イザナミ)が自発的に国産みを進める(巻一第四段)。また、伊奘諾・伊奘冉のことをそれぞれ陽神・陰神と呼ぶなど、陰陽思想の強い影響がみられる。

本書によれば『古事記』と同様に、伊奘諾・伊奘冉は天浮橋(あめのうきはし)に立ち天之瓊矛(天沼矛)で渾沌とした大地をかき混ぜる。このとき、矛から滴り落ちたものが積もって島となった。ただし、このとき、他の天つ神は登場しない。
出典Wikipedia

2015/11/24

和食の栄養(農林水産庁Web)

和食の基本的な献立を一汁三菜として先に述べたところであるが、さらにその調理と技術について簡単にふれておこう。

 

まず水の問題は、注意する必要があろう。日本の調理が水を豊富に使うことで食材がよく洗われ、衛生が管理されるばかりか、食材の雑味をとり、食べ易くなることが指摘されている。また、主食である米の水炊には水のよしあしが決定的な意味を持つし、また豆腐のような食材や麺類でも水は重要な要素である。また水は、まな板と調理道具とも関連があろう。

 

まな板は、単に食材を切ったり潰したりする場であるだけでなく、洗い下ごしらえをする場でもあって、ここで水をふんだんに使うことで、安全が保たれている。さらに、まな板はできた料理を取り合わせ盛りつける場ともなるように、その機能は日本独特の先の細いまな箸とともに、和食には必須の道具である。また調理道具の中で日本独自の片刃の庖丁も、刺身を中心とする微妙な日本料理の風味を生かすために必須の道具である。

 

こうした料理が目指すものは何か。端的にいえば旨味であり、それを抽出するだしである。料理にだしを用いてうま味成分を生かそうという発想は、今から約800年前の鎌倉時代に始まると思われる。「厨事類記」という鎌倉時代の書物に、調味料の一つに「たし」という文字が見える。その後、300年ほど経過すると、昆布や鰹節を用いただしが成立する。17世紀初頭に出版された「料理物語」には数十回もだしが登場し、殆どの煮物や汁のベースにだしが用いられている。

 

さらに江戸時代の料理書には色々なだしの取り方が見え、徹底的にうま味を抽出させるためか、昆布でも鰹節でも長時間煮出し、沸騰させて煮詰めるようにだしを作っている例も少なくない。昆布についても煮出すことが多かったが、なかには水出し法として水につけてだしを取った例も見える。日本人が数百年の間、だしとそこから引き出される旨味に拘り続けた結果、近代となって池田菊苗博士によるところのうま味成分の発見という、世界的な食文化の快挙がもたらされたのである。味の素の発明は、旨味を追求してきた和食文化の歴史から生まれた、とも言えよう。

 

以前に紹介した和食文化の四面体でいえば、料理の方向の中で一汁三菜の様式と、旨味を中核とした日本人の嗜好が、今や逸脱しつつあることが示されている。


 海外で日本料理ブームがひき起こされた要因は「日本食は健康に良い」という一点であった。その背景には日本人の長寿化と、1970年代の日本の高度経済成長という経済的成果が結びついていた。その秘密は日本の食にあるとアメリカ人が考えるようになって、日本食ブームが起こるのは1980年代以降であった。しかしその以前に、アメリカは食と健康の点で危機感をもっていた。その結果、アメリカ人の食生活に警鐘を鳴らしたのが、1977年のアメリカ上院に提出された「マクガバン報告」である。

 

このレポートには日本について何も書かれていないが、当時アメリカ人が直面していた食と健康の問題点から見て、日本の食文化がアメリカより遥かに優れていると考えたのが、日本の食生活研究者たちであった。それまでの欧米追随型の食生活改善運動から180度転換して、アメリカを反面教師として伝統的な日本食文化に根ざした「日本型食生活」を宣言し、そのもとに食生活指針をまとめたのが1980年のことであった。

 

こうして注目された日本型食生活における栄養面は、いわゆるPFCバランス(タンパク質・脂肪・炭水化物)の摂取エネルギー比率が、それぞれ13.0%・25.5%・61.5% と、ほぼ理想的であった。まさに、これは和食の奨めに他ならない。しかし現在の日本人の食生活の動向は、これに一致しない。

 

ここでも和食文化の四面体は崩れつつある。平均化された数値だけを見ていると、まだ日本の食生活は極端に悪化しているとはいえないが、実態は両極分解しているのではないか。比較的上質な食生活を送る人びとや高齢化の状況も手伝って、総体としてはカロリーの摂取量は減少傾向にあり、脂肪の摂取量もさほど増加していないが、若年層や都市のある階層の中では極端に片寄った食生活が営まれている。今、食生活を通して健康を求める欲求は一段と強まっているのだから、さらに栄養面から和食に回帰する契機として、ユネスコの無形文化遺産に和食が登録されることが望まれる。

 

和食文化の四面体の中で、もてなしと栄養の稜線に「心地良さ」という言葉を置いた。おいしく楽しく食べることで、栄養の摂取はより効率化されよう。時間の余裕も生まれ、家族や友人と共食することが、単なる食欲を満たすためだけの食事と異なり、家族やコミュニティーの結束を強め、豊かな対話の場となるであろう。さらに、ゆっくり食事を楽しむことが栄養摂取、カロリー摂取の上でしかるべき抑制を生むと思われる。それを「心地よさ」と表現したのである。

2015/11/22

タコオヤジの弁明(続ストーカーpart7)


 ラッキーボーイの見立てでは、あのタコオヤジは「」に違いなかった。

 これは、単なる推測の域を超えていた。

 これまでに再三、ご紹介してきたように、なにせこちらは「ラッキーボーイ」であり、常に周囲に人々が寄ってくる「集客体質」なのは明らかだった。

 これが(絶世の美男子で)女性ばかりがわんさと寄って来るのなら、まったく言うことはないが、現実はどちらかというとオバサンやオトコが多いのである。

 実のところ、若いころはオバサンは言うに及ばず「」と見られるオッサンに迫られたことも、一度や二度ではなかった

 こっちは、そのような趣味はないから、そのような「身の危険」を感じた時には、空手のキックや少林寺のデモンストレーションで追っ払って来ていたが、そうしたこともあって「系オヤジの体臭」には(マイナスの意味で)敏感になっていた。

 勉強嫌いのグウタラといえど、ダテにユングやフロイトを読破してきたわけではないから、相手の表情や振る舞いから大凡の見当を付ける自信は、若いころから持っていた。

 まずは、そのような「先入観」があっただけに、タコオヤジの「弁明」にまともに取り合うハズはない。

 とはいえ、そこは「二枚腰」でもあるから、しばらくはタコオヤジの与太に付き合ってやる肚は決めていた。

 「それで・・・?」

 「その彼女とは・・・同じ駅から乗っていた・・・で、彼女は必ず、さりげない風を装いながら、アンタの傍に擦り寄って行った・・・」

 「・・・」

 「どんな愚鈍なヤツだろうと・・・いや、オレみたいな底辺高卒の愚か者にだって、彼女がアンタに惹かれていることは明らかだった・・・」

 (まったく、オマエは愚鈍なヤローだよ・・・)

 と、肚の中でせせら笑いながら

 「愚鈍なヤツ」にしては、空想を逞しくしたもんだな・・・で、与太の続きは?」
 と促すと
 「あんたは、オレと違って賢いようだから、もうオレの言わんとするところはわかってるんだろう・・・オレのお目当ては・・・」

 「つまりオレではなく、彼女だったと言いたいんだな・・・」

 「つまり・・・そういうことだ・・・」
 「それで・・・その女がオレの背後霊のようにくっ付いていたから、アンタは彼女を目当てにストーキングを続けていたが・・・結果的に、オレのストーキングとなっていた・・・と?」

 「さすがに、察しがいいな・・・」

 「こう見えても・・・」

 とLARKを口に咥えたラッキーボーイは

 「美人には、嗅覚が鋭い方なんだがな・・・そんな綺麗な女が傍に来れば、気付かんハズはないと思うが・・・」

 「まあ『美女』の定義や好みは、人によって全く違うからな・・・それに・・・」

  「・・・」 「アンタはオレにストーキングされているという「被害妄想の塊」だったから、オレにばかり気を取られて背後の彼女に意識が行かなかったんだろうな・・・」

2015/11/21

美斗能麻具波比『古事記傳』

神代二之巻【美斗能麻具波比の段】 本居宣長訳(一部、編集)
因女先言而不良(おみなおことさきだちしによりてふさわず)。前に伊邪那岐命が「女人先言不良」と言ったのは、女の発言が先立ったこと自体を不良としたのだが、ここでは生まれた御子が不良だったことの原因について言っているので【「因りて」とあるのを考えよ。】
同じ語でも、その指す事実は違っている。混同してはならない。【書紀の、この記に似た一書(第一)には、前記の伊邪那岐命の言葉がなく、この場面で初めて「天神云々、乃教曰、婦人之辭其已先揚乎、宜更還去(オミナおことサキダツべしや、かえりてアラタメいえ)」とある。

改言は「あらためいえ」と読む。【俗に言う「言い直せ」ということだ。】不祥の御子を生んだのは、あの時の唱和の順序が乱れていたためなので、言葉の罪であった。それで、こう教えたのである。「言え」とあるのに注意せよ。上の「また」は、また再びということで「言え」にかかる。

○この段のあらましに関してもう少し言うと、まず初めに二柱の神が天の御柱を廻った時、女神の言葉が先立ったのは女男(めお)の理に反していたので、男神はそれを「不良」と言った。女男の理というのは、そのかみ宇比遲邇、須比遲邇両神から始まって、女男の神が並んで生まれた時、常に男神が先に生まれて、続いて女神が生まれていた。このことは天地の始めから、女は男に後れ従うのが道理だったからで、現在まで当然その理は続いている。それには極めて深い理由があるようだが、人知の測り知るところではない。とにかく、そのように女男の理に反しているのを、男神は「不良」と思いながらも、その結果悪い御子が生まれるとまでは思わず、そのまま交合したので水蛭子と淡嶋を生んだ。これらの御子は気に入らなかったので、やはり不良と言った。【前の「不良」は女神の言葉が先立ったことを言い、後の「不良」は御子が不出来だったことを言うのであって、言は同じでも違ったことを言っている。混同してはならない。】

しかし、それは初め女神の言葉が先立ったためとまでは思わず、何が原因かと悩んで天神の元へ参上して状況を詳しく報告し「良くない子ができたのはなぜか、どうしたらよいか」と教えを請うたところ、天神たちも自分の考えだけで言わないで、太占によってそれが原因だと突きとめた。【そもそも神々の行われることは、何であれ漢籍などに出ている仏、聖人のたぐいとは大きく違っているのに、この世の漢意に囚われたさかしら人どもは「女の言が先立ったことは陰陽の理に反するので、不良の子が生まれたんだ」と、こともなげに言うが、その「陰陽の理」などというものは、とうてい信じられないことは一之巻の「書紀の論」で述べた通りである。それほど簡単に判断できるものなら、どうしてこれらの大神が悟らなかったのであろうか。

書紀の一書に「陰神乃先唱曰云々、陽神後和之曰云々、遂爲2夫婦1先生2蛭兒1」とあるのは、この唱和が女男の理に違背することに気付かなかったからである。その結果、不良の御子が生まれたわけだが、その原因は天神たちですら、たやすく見つけられなかったからこそ占いを行ったのである。原因が判明した後で、初めて女が先に物を言ったことが不良だったことと、御子が不良だったこととが連結して考えられるのだ。まだそういう関係が分からなかった時は、あのことはあのこと、このことはこのことで独立した二つのことであり、あのことは不良だったと知っていながらも、生まれる御子が不良であるとまでは思いもかけず交合したのである。すべての経緯、結果を知った上で、あるいはその原因も判明した後で、その吉凶について「初めから分かっていた」などと論じるのは漢人の癖であって、極めて不謹慎である。後付けの理屈であれば、どんな風にでも言えるだろう。

ある人の説に「不良の子が生まれたのは、女神が先に物を言ったためだということは、二柱の神もよく分かっていたのだが、それでも天神の大命を受けるために参上したのだ」と言うが、これも儒者心の曲説である。それが不良と知っていたのであれば、初めから理に違背すると知りながら交合したのはなぜなのか。その時、すぐに唱和をやり直すのが当然だ。また悪いことを改めるのは善であるのに、それさえ謹んで天神に伺うほどなら、初めの唱和で不良と知りながら、すぐに交合に及んだのはなぜか。重く謹むべきことを謹まず、さして重要でない(むしろ良い)ことを謹むなど、ありそうにないことだ。およそ謹みということは、その行いの重要さによるもので、最近の「神道者」などと大げさに名乗って、何でもかんでもやたらに「敬(つつし)みこそ道の旨」などと言いふらしている連中の言うことは、例の儒者どもにへつらう私説にすぎない。また他の人の説で「不良と知りながら交合したのは過ちだ。だが、それをすぐに改めたのこそ大神の行動だ」と言うのも、やはり儒者の説に惑わされている。】

2015/11/09

布斗麻爾『古事記傳』

神代二之巻【美斗能麻具波比の段】
本居宣長訳(一部、編集)
口語訳:そこで、二神は相談して言った。
「今私たちが生んだ子は良くなかった。この上は、天つ神たちに相談してみよう」
そこで二神ともに天に昇り、天つ神のお言葉を請いねがった。 天つ神は太占(ふとまに)で占った結果
「女の言葉が男に先だって発せられたために良くなかったのである。もう一度帰って、言い直しなさい」
と詔した。天神(あまつかみ)は前段で「天神諸」とあったのと同じで、初めの五柱の天神である。

御所は「みもと」と読む。
○白は、いずれも「もうす≪旧仮名:まをす≫」と読む。高津の宮(仁徳天皇)の段の歌に「母能麻袁須(ものもうす)」、朝倉の宮(雄略天皇)の段の歌に「意富麻幣爾麻袁須(おおまえにもうす)」など、他に万葉などにもたくさんある。【万葉に「麻宇須(まうす)」ともあるが「乎」を「宇」と写し違えたのである。何にせよ「う」と言うのは、音便によって崩れた言い方である。】

参上は「まいのぼりて」とよむ。一般に古代は参を「まい」と言った。参入を「まいる」、【「まいいる」の縮まった形である。後世、仮名で「まゐる≪旧仮名≫」でなく「まいる」と書くのは誤りである。】
参出を「まいで」、参来を「まいく」と言うたぐいである。【この「まい」を、後代は「まう」と言うことが多くなった。「参出(まいで)」を「詣(もうで)」と言い、参上も「もうのぼる」と言うたぐいである。例の音便で崩れた言い方である。

請天神之命(あまつかみのみことをこいたまういき)とは、上の件の状況を天神に報告し【書紀に「具奏2其状1(ツブサにソノさまをモウス)」とある。】「これはどうしたわけでしょうか、どうしたらいいでしょうか」と伺い大命を請うたのである。そもそも万事、自分の狭い考えだけでなく、天神の命令に従って行うことこそ道の大義だ。この二柱の大神ですら、そのようにしたのに、まして後世の凡人が賢しらに自分勝手な判断で事を行うことがあってはならないのである。

天神之命以(あまつかみのみこともちて)は、前段に「天神諸命以」とあったのと同じ言葉で「仰せによって」といった意味である。

布斗麻爾(ふとまに)は、玉垣の宮(垂仁天皇)の段に「布斗麻爾爾占相而(フトマニにウラエテ)」とある。書紀には「太占此云2布刀麻尓(底本正字はやねに小)1」、また「天兒屋命主2神事之宗源1者也、故俾B以2太占之卜事1而奉仕A焉(アメのコヤネのミコトは、カムゴトをツカサどるモトなり。かれ、フトマニのウラゴトをモチテ、つかえマツラシム。)」などの例がある。「布斗」は「布刀詔戸(ふとノリト)」、「布刀玉(ふとダマ)」の「布刀(太)」で、讃える言葉である。「麻爾(まに)」がどういう意味なのか、よく分からない。【書紀の「占」の字は、ただ当てただけの字であって「まに」の意味が「占」だというわけではない。一般に書紀の文字は全く同じ意味でなくても、大体似た意味の字を当てていることが多い。また漢籍では「卜」と「占」では意味が違うのだが、わが国では同じように使う。それを文字によって意味が異なるように言い立てるのは、大きな間違いである。】
そもそも「ふとまに」は、上代の一種の「卜」であって、各種の占術のうちでも特に重要視された占いだと言う。この言葉の下の「爾」は「てにをは」である。

2015/11/02

淡島『古事記傳』

神代二之巻【美斗能麻具波比の段】 本居宣長訳(一部、編集)
葦船は「あしぶね」と読む。【一般に「~船」というのは、このように読む。「の」を入れて「あしのふね」と読んではいけない。】
この船を書紀の纂疏は「以2葦一葉1爲レ船也(葦の葉一枚で船としたのである)」としている。さもありなん。また葦をたくさん集めて、編んだ船かも知れない。あの「無間堅間之小船(まなしカタマのオブネ)」を想起せよ。書紀の本文には「載2之於天磐クス(木+豫)樟船1而順レ風放棄(アマのイワクスブネにノセテ、カゼのマニマニはなちスツ)≪天のイワクス船に載せて海に流した。≫」とある。和名抄に「舟も船も和名『ふね』」とある。この御子をこのように捨てられたのは、ただ水蛭子であったがゆえに嫌い捨てたのである。

淡嶋は、前にも引いた高津の宮(仁徳天皇)の段の歌に「阿波志摩(あわしま)」とある島である。また万葉巻三(358)に「武庫浦乎、榜轉小舟、粟嶋矣、背尓(底本正字はやねに小)見乍、乏小舟(ムコのウラを、コギたむオブネ、アワシマを、ソガイにミツツ、ともしきオブネ)」、また巻四【十六丁、丹比笠麻呂筑紫の國へ下るときの長歌】(509)に、「淡路乎過、粟嶋乎、背爾見管(アワジをスギテ、アワシマを、ソガイにミツツ)云々」、巻七【十九丁】(1207)に「粟嶋爾、許枳将渡等、思鞆、赤石門浪、未佐和来(アワシマに、コギわたらんと、オモエども、アカシのトナミ、いまだサワゲリ)」などとある。【巻十二にも例がある。】

これらによると、淡路の西北の方にある小島のようである。仙覺抄(万葉の註釈本)に「讃岐國屋嶋北去百歩許有レ嶋、名曰2阿波嶋1(サヌキのクニ、ヤシマのキタ、サルコトひゃっぽバカリにコジマあり。なづけてアワシマという)≪讃岐国の屋島の北、百歩ほどのところに小島があり、阿波嶋という≫」とあって、なお検討を要する。巻九【十三丁】(1711)に「粟の小嶋」と歌っているのもこれだろう。【巻十五(3631、3633)に「安波之麻(あわしま)」と詠んだ歌が二首あるが、それは別のことで、周防の海にあるように思われる。

また書紀にある「少名毘古那神が淡嶋に到って、粟茎(あわがら)に弾かれて常世の国に行ってしまった」という淡嶋は、風土記によると伯耆の国の相見郡にあるそうだ。出雲国風土記によれば、意宇郡にも粟嶋がある。この淡嶋について志摩の国、紀伊の国、あるいは安房の国などと諸説あるが、それはみな誤っている。また「アワのシマ」と読むのも誤りだ。前記の仁徳天皇の歌、万葉の歌で「あわしま」と読むことが明らかだ。】

ところで、この島は「今吾所生之子不良(いまアがウメリシみこフサワズ)」、【次の段にある。】と言ったことからして、源氏物語の帚木の巻に『爪弾きをして「云はむ方なし」と、式部を阿波米(あはめ)悪みて「少し宜しからむことを申せ」と責め賜へど≪この文旧仮名遣い表記≫云々』【「あはめ」という語は、他にも明石の巻、處女(少女?)の巻、総角の巻、宿木の巻、また紫式部日記などにも見える。「あはむ」、「あはむる」と活用する。】

この「あわめにくみ」を河海抄で「淡悪(あわめにくむ)」と解釈した【後の本には「拒む」意とか、「あばめ」と濁って読むなどは誤り。】その意味であって、御親神が淡め悪んだために「淡嶋」と名付けられたのである。書紀に「先以2淡路洲1爲レ胞、意所不快故、名=之=曰2淡路洲1(まずアワジシマをエとナス、フサワズおもおしけるユエニ、アワジシマとナヅケキ)」とあるのは、この淡嶋と淡路島の名が似ていることから、伝承が紛れたのであろう。【旧事紀でこれを「吾耻(あはじ)」の意とするのは似たようなことだが、古語の意味合いにはならない。淡路という名の意味は、次の巻で述べる。】

○是亦不入子之例(こもこのかずにいれず)。【不入は「いらず」とも「いれず」とも読める。】かの水蛭子は流して捨ててしまったので、始めから数に入っていなかったことが、この文で分かる。それで淡嶋について是亦(こも)という。「これも」を「こも」というのは古言である。「例」の字は「かず」と読む。書紀に「此亦不3以充2兒數1(こもまたミコのカズにはイレズ)」とあるのによる。【この「例」の字を師は「列」の誤りではないかと云った。それも、ありそうなことだ。欽明紀に「入2榮班貴盛之例1(さかえタノシキつらにクワワレリ)≪富み栄えている連中に加わった≫」というのも「列」の誤りのように見える。だが雄略紀に「莫レ預2群臣之例1(まえつキミたちのツラにナあずからしめソ)≪群臣と同じに扱ってはならない≫」、天武紀に「入2不レ赦之例1(ユルサざるカギリニいれん)≪(今後犯した罪は)特赦の対象としない≫」、また「入2官治之例1(ツカサおさむるカギリニいる)≪国が管理する(神社の)うちに入れる≫」などの「例」は誤りではないので、ここも誤りでないとしておく。】これらを御子の数に入れないのは「不良」として「淡め悪」まれたからである。