神代三之巻【大八嶋成出の段】本居宣長訳(一部、編集)
○肥國(ひのくに)。書紀の景行の巻十八年のところに≪口語訳:五月、葦北から船で火の国に到った。火が暮れて真っ暗になり、岸が見えなかった。ところが遙か遠くに明かりが見え、天皇は船頭に『あの明かりを指して行け』と言った。そこで明かりを指して進むと、岸にたどり着くことができた。天皇は『あの火が見えたのは、何という村か』と尋ねた。すると土地の人は『八代県の豊村』と答えた。また『あの火の主は誰か』と調べてみたが、そんな者はいなかった。それで人の火ではないことが分かった。そのため火国という。≫」とある。
○肥國(ひのくに)。書紀の景行の巻十八年のところに≪口語訳:五月、葦北から船で火の国に到った。火が暮れて真っ暗になり、岸が見えなかった。ところが遙か遠くに明かりが見え、天皇は船頭に『あの明かりを指して行け』と言った。そこで明かりを指して進むと、岸にたどり着くことができた。天皇は『あの火が見えたのは、何という村か』と尋ねた。すると土地の人は『八代県の豊村』と答えた。また『あの火の主は誰か』と調べてみたが、そんな者はいなかった。それで人の火ではないことが分かった。そのため火国という。≫」とある。
【この火のことは、国人の説によると肥後の国の海の松ばせの沖というところに、龍燈といって今もある。毎年七月末頃から八月頃まで見えるが、八月朔日の夜は殊に多い。宇土付近の山からよく見える。世に言う挑燈(ちょうちん)ほどの大きさに見え、初めは一つ二つ見えるだけだが、だんだん分かれて数が多くなり、最も盛んなときは幾千万とも知れない。およそ海上縦横三、四里ほどの範囲がみな火になる。風が強ければ少なく、天の夜は出ない。その火が出ている時、海を行き来する船を遠くから見ると、火の中を進んで行くように見えるが、その船の方では火が見えず、全く何事もないそうである。】
また肥後国風土記には「肥後の国は、元は肥前の国と一つであった。崇神天皇の御世に、益城郡朝来という山に土蜘蛛がいた。名を打猨(うちさる)、頸猨(うなさる)という。この二人は、仲間百八十人余りを引き連れて山頂に隠れ住み、常に天皇の命に背いて帰順しなかった。天皇は肥の君たちの先祖、健緒組(たけおくみ)に命じて賊を討たせた。健緒組は勅命を奉じてこの賊どもを平らげ、更に国内を巡察して回った。八代郡の白髪山に到った時、日が暮れたのでそこで泊まることにした。ところがその夜、空に火があって誰も燃やしているわけではないのに燃えていた。それが少しずつ下がってきて、この山に火が着いた。健緒組は、これを見て非常に驚いた。各地の賊を討ち果たしてから天皇の元に参上し、そのことを報告したところ、天皇は「賊を討ち果たしてくれたので、西の方の患いがなくなった。この功績は並ぶものがない。また空から火が降ってきて山を焼いたというのは、たいへん奇怪である。火が降った国だから、国の名を火国としよう」と言った、とあり、その後に例の景行天皇の故事(不知火の件)を載せている。
その記事は、書紀と同じだ。ただし、国人が景行天皇に答えた言葉は「ここは火国の八代縣、火邑(ひのむら)ですが、火の由来は知りません」と言い、天皇は群臣に「あの燃えている火(不知火)は、世の常の火ではあるまい。火の国という理由は、これであると分かった」と言った、とある。【火邑は和名抄にある肥後の国八代郡肥伊のことであろう。】
これらを考え合わせると「火」という名は国にせよ村にせよ、崇神天皇の御世にはもうあった名前だろう。これも二つの国に分かれている。和名抄に肥前【ヒのミチのクチ】、肥後【ヒのミチのシリ】とある。分かれたのが、いつかは分からない。書紀の神功の巻に「火前国」が見える。たぶん、後に「火」というのを嫌って「肥」という字にしたのだろう。【和銅六年五月の詔に「もろもろの国、郡、郷の名は好字を付けよ」とある。この時に改めたのだろうか。しかし、この記にはすでに「肥」の字を書いてあるので、それより前のことだろうか。としても、中巻には「火の君」とあるので、本来はここにも「火」と書いてあったのを、後人が「肥」に書き改めたのだろうか。こうした例は他にもある。
○この前に「有2面四1」とあって、肥国を一つとしている。ところが地形を考えると、肥前と肥後は間に海があって、地が続いていないから正に二つの国であり、面一つには解しがたい。しかし考えてみると、上記の書紀や風土記に出る「火の国」の故事は、地名からして全て肥後の出来事である。すると肥国というのは、始めは肥後のことだけを言って、現在の肥前は元は筑紫に含まれていたのが、後代に肥後の方に属するようになったのではないだろうか。肥前は筑前筑後と地が接していて、この三国は面一つに取ることもできる地形だし、肥後とは離れているからである。しかしこれは上代のことであり、確かなことは言えない。ただ試みに注意を促しておくだけである。】
○この前に「有2面四1」とあって、肥国を一つとしている。ところが地形を考えると、肥前と肥後は間に海があって、地が続いていないから正に二つの国であり、面一つには解しがたい。しかし考えてみると、上記の書紀や風土記に出る「火の国」の故事は、地名からして全て肥後の出来事である。すると肥国というのは、始めは肥後のことだけを言って、現在の肥前は元は筑紫に含まれていたのが、後代に肥後の方に属するようになったのではないだろうか。肥前は筑前筑後と地が接していて、この三国は面一つに取ることもできる地形だし、肥後とは離れているからである。しかしこれは上代のことであり、確かなことは言えない。ただ試みに注意を促しておくだけである。】
さて、日向も北半分はもと肥後に含まれていたのが【肥後と日向は、面一つに取れる地形である。】後に分かれて一国になった。【その事は次に言う。】
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