2016/01/11

日向『古事記傳』

神代三之巻【大八嶋成出の段】本居宣長訳(一部、編集)
建日向日豊久士比泥別(たけひむかいとよくじひねわけ)。「日向日」とは【下の「日」は向かい、向かうの活用の「い」である。】
書紀の景行の巻に、十七年三月≪口語訳:子湯の縣に到って、丹裳の小野で遊んだ(狩猟?)時、遥か東の方を望んで『この国は日の昇る方角に、まっすぐに向き合っているんだなあ』と左右の伴の者に言った。そこで、その国を『日向』と名付けた。≫」とあり、この意から讃えて名としたのだろう。【これは日向国の元の名だが、子湯の縣はその北の方にあるので、上代にはそこも肥国に含まれていたわけである。】

万葉巻十三【七丁】(3242)に「日向爾(ひむかいに)云々」、龍田風神祭の祝詞に、「朝日の日向う處(ひむかうところ)」などの例がある。また垂仁紀で、人名にも「倭日向武日向彦」とある。「久士比(くじひ)」は奇霊(くしび)である。【比は霊であることは、産巣日神のところで述べた。】

また「」は「ふる」と活用する言葉でもあるだろう。書紀に「日向の高千穂の触之峯(くじふるノたけ)」、また「日向の槵日の高千穂の峯」ともあるからだ。【ところで、ここのまたの名も、この峯の名から来たのかも知れない。しかしこの峯はどこにあるのか、いろいろな議論があって、決められない。そのことは伝十五の四十一葉にある。考慮を要す。】

ところで「士比」の清濁についてだが「しび」と読むべき語を「じひ」と書いているのは【「士」は濁音、「比」は清音の仮名である。】「槵触之峯」も、この記には「久士布流多氣」と書いてあることを思い合わせると「奇(くし)」を「久志備(くしび)」とか「久志夫流(くしぶる)」と言うときは、いにしえには音便で清濁が入れ替わり「久士比(くじひ)」、「久士布流(くじふる)」と言ったのであろう。こうした例は他にもある。朝倉の宮(雄略天皇)の段の歌に、日陰る(ひかげる)というのが「比賀氣流(ひがける)」とあり、万葉巻十九(4146)に、夜降(ヨくだち:夜ふけて)を「夜具多知(よぐたち)」、馬たぎ行きて(馬を操って行く)を(4154)「馬太伎由吉弖(ウマだきユキテ)」【太は濁音で「だ」。】などがその例だ。後世の考えで、むやみに疑ってはならない。

ところで「肥國」以降の十三字は、真福寺本および一本に依拠している。旧印本や延佳本、その他一本は「肥國謂2速日別1、日向國謂2豊久士比泥別1(ヒのクニをハヤヒワケとイイ、ヒムカのクニをトヨクジヒネワケとイウ。)」と書いている。しかし、それでは「有2面四1」に合わない。【日向の国を数えるなら、国が五つあることになる。この記には、神々の総数を挙げる時などに、数が違っているような例は幾つかあるが、ここは指折り数えるほどの数でもない。五つになることは間違えようもないので、このように数が違うことはあり得ない。また、この記は元々稗田阿禮が暗誦したものを書いたのだから、物の数などは細かく空に思い浮かべられず誤った可能性もあり、太安萬侶はただ阿禮の口から出る言葉を重んじて、あえて正さずに書いたとも考えられるけれども、そうであればそのことを註にでも書くべきなのに、そうしていない。また後に写し間違えたとも思えない。(諸本みな面四であるから)古い本のままと思われる。】

日向国のない方が古い本に違いない。それなのに、上記のように日向国を加えた本は、旧事紀によって後代の人が賢しらに改めたものと思われる。【旧事紀には、前記のように書いてある。それは、この記を使って記す時、日向国がないのを疑わしく思い、またの名のなかの「日向日」をそれだと勘違いして、下の「日」を「国」に改め、その下に「謂」を補って「豊久士比泥別」を日向国のまたの名とした。ところが、それでは肥国のまたの名が「建」一字になってしまうので、次の熊襲国のまたの名に倣って「日別」を補い、それでは熊襲と全く同じ名になるので「建」の字を「速」に書き変えたのである。あの本は、こうしたさかしらの細工が多い。しかし上に「有2面四1」とあるのに気付かないで、それを改めなかったので、偽りが露見したのこそおかしい。それなのに後世の人は、この旧事紀のさかしらなことを知らず、日向国のある方をもっともだと考えて、ついにはこの記の方を改めるに至って、そう書いた本が世に流布しているのである。
ただし「速」の字は、旧事紀の旧印本には「建」を書いてあり、元はこの記の古い本のままに書いてあったのを、あるいはそれでは熊襲の国と全く同じになるので、後人が書き改めたのであろうか。書紀の口决や元々集などには「晝日別」とあるのも「晝」は「建」と字形が似ているので間違えたものと思われる。
あるいは、この記は古い本に元々「速」とあったのを後代「建」に誤写したのだろうか。それなら「速日向」とは、早い朝日に向かう意味である。日向の国には、速日峯というのもあるという。】

日向がここに出てこないことは、上代には日向の領域は肥の国および熊襲の国に含まれていて、まだ別に一国として立てられていなかったという伝えがあるので明白である。

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