神代三之巻【大八嶋成出の段】本居宣長訳(一部、編集)
○熊曾國(くまそのくに)は曾の國である。曾というのは、書紀の神代巻に日向の襲(そ)とあるところで、和名抄に「大隅国囎唹(そお)郡」とあるのがそうである。【「唹」は「そ」の音を添えて二字に書いたものである。木の国を「紀伊」と書くのと同じ。この例は、他にもたくさんある。民部式に、「諸国の郡、里などの名はすべて二文字とし、必ず嘉名を用いて表せ」とあるように、それ以前からこの制度があったようである。筑前、肥後などの風土記にも、球磨囎唹と書いてある。】
○熊曾國(くまそのくに)は曾の國である。曾というのは、書紀の神代巻に日向の襲(そ)とあるところで、和名抄に「大隅国囎唹(そお)郡」とあるのがそうである。【「唹」は「そ」の音を添えて二字に書いたものである。木の国を「紀伊」と書くのと同じ。この例は、他にもたくさんある。民部式に、「諸国の郡、里などの名はすべて二文字とし、必ず嘉名を用いて表せ」とあるように、それ以前からこの制度があったようである。筑前、肥後などの風土記にも、球磨囎唹と書いてある。】
これが国の名になっていたことは、書紀の景行十二年十二月、
口語訳:熊襲を討とうと相談した。天皇は群臣に『私が聞いたところでは、襲の国には厚鹿文およびサ鹿文という者がいて、熊襲の首領だ。その手下たちは非常に多数だそうだ。これを熊襲の八十梟帥といって、強敵だというぞ。』と話した。」、また十三年に「悉く襲の国を平らげぬ」などがある。これで「襲の国」はすなわち「熊襲の国」であったことが分かる。【肥後国球麻郡というのは別である。混同しないように。また文徳実録九巻に、肥後国曾男(そお)の神というのがある。これも別だろうか。あるいは囎唹が肥後の境にも近いため、そこも肥後と言ったのだろうか。そういう例も、古代には多かった。ただこれらは地形を調べてみないと何とも言えない。】
その梟帥(たける)たちがたいへん建けかった(強かった)ので、熊曾と言ったわけである。熊鰐、熊鷲、熊鷹など、すべて猛々しいことを言う語である。【熊は獣類のうちでも猛々しいものであり、それに準えて猛々しいものをそう呼んだのか、または元々「くま」という語に猛々しいという意味があって、それを獣の名としたのか、その本来の経緯は知らない。】
ところで「曾」という名の意味は、古語拾遺に「天鈿女(あめのうずめ)命は、古くは『おずめ』と言った、その神は強悍で猛固なので名とした。今、世間で強い女を『おずし』と言うのも、これが語源である。」とある。源氏物語の帚木の巻に「かくおぞましきは、いみじき契り深くとも、絶て又見じ」とあり、俗にも「おぞい(おぞましい)」、「おそろしい」などと言う。すると「曾」は「おぞ」が縮まった語で、これも猛々しいという意味であろう。書紀で「襲(おそう)」という字を用いているのも、本来「おそ」だったからではないだろうか。【釈日本紀に「山が襲い重なる意」とあるが、これは高千穂の峯のことを思い、この「襲」も文字の意味によって解釈した誤りである。襲は借字で「おそう」という意味はない。】
あるいは「曾」は「勇男(いさお)」の縮まった形だろうか。「さお」を縮めれば「そ」となり、頭の「い」を省くのはよくあることだ。書紀には渠帥も「いさお」とある。また「功(いさお)」もしばしば「いそ」と言うのを考えて見よ。【書紀の仲哀の巻にある神功皇后神懸かりの言葉で、熊襲の国を「ソ(旅の下に肉)之空國(ソジシのムナクニ)」と呼んでいる。これからそこの名にもなったようで、書紀の神代巻でも「ソ(旅の下に肉)之空國自2頓丘1(ソジシのムナクニをヒタオより)云々」とある。この「ソ」から出たかとも考えたが、景行の御代にすでに熊曾建の名があるので、そうではないことになる。】
ところで、筑紫の島の国が四つとして、その一つが熊曾の国というのは、後の日向の南半分と、大隅、薩摩を引っくるめて言い、上代の大国であった。【先に引いた景行紀に「襲の国」とあるのもこれである。ただし続日本紀に「和銅六年四月乙未、日向の国の肝杯(きもつき)、贈於(そお)、大隅、姶羅(正字は示+羅)を分けて、はじめて大隅国を置いた」とあり、書紀には「日向の襲」ともあるので、大隅の地は昔は日向の国に属していて、曾も日向だったのに、それと別に熊曾を一国とするのはどうかと思う人もありそうだが、それはまだ考えが足りない。というのは、日向という名は前述のように景行天皇十七年に始まったのであって、そのときまだ肥の国に属していたらしく、大きな一つの国だったとは思えない。
「襲の国」とか「熊襲」という名は景行十二年の條に既に出ているから、上代からある名であって、今の日向の南半分と大隅、薩摩を合わせた大国だったが、少し後にその名は使われなくなり、隣国の日向の名前が、そのあたりまでの大きな範囲を示すようになった。そのため、元の「曾」という名前は日向の中の一郡になってわずかに残っていただけだったが、和銅六年に、その付近の四郡を併せて新たに一国として立て、大隅の国も元は熊襲の国のうちに入っていたのが、中古の頃、日向に含められるようになったのだ。薩摩は、元は「隼人(はやびと)の国」と言った。そのことは伝十六の四十一葉に言う。しかし、ここにはその名が挙がっていないので、これも上代には熊曾に入っていて、少し後に日向に含めるようになったのだ。
続日本紀の大宝二年條に「筑紫七国」とあるが、その頃は日向のうちに大隅と薩摩も入っていたからである。また書紀に瓊瓊杵尊の陵墓を「日向の可愛(え)の山」としているが、これは和名抄の「薩摩国、穎娃郡穎娃郷」というのがそうだ。そのわけは伝十七の八十六葉にもう少し詳しく述べる。つまり、これらの事実からすると、古くは日向という名は薩摩までを含めて呼んでいたのが、それより前の、まだ日向という名がなかった頃には、熊曾という名で薩摩まで含めていたわけである。】
○建日別。これも「猛々しい」意味の「たけ」である。
○建日別。これも「猛々しい」意味の「たけ」である。
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