2016/01/24

伊岐嶋、津嶋、佐度嶋『古事記傳』

神代三之巻【大八嶋成出の段】本居宣長訳(一部、編集)
伊岐嶋(いきのしま)は、万葉巻十五【二十五丁、二十六丁】(3694、3696)に「由吉能之麻(ユキのシマ)」とあり、和名抄にも「壹岐の嶋は由岐」とあるので「ゆき」が古い呼び名だと思う人があるが、書紀の継体の巻の歌では「以祇(いき)」とあり、この記にも「伊」と書き「壹」という字も「ゆ」とは読まないので、本来「いき」であることは明らかだ。だが懐風藻には「伊支連(イキのムラジ)」という姓を、目録で「雪連(ユキのムラジ)」と書いており、前掲の万葉に「由吉」とあることを考えると「ゆき」と通じる理由があったのだと考えられる。【「行く」という字も「ゆく」とも「いく」とも読む。】

そこで調べると書紀の天武の巻に「齋忌此云2踰既1(齋忌はユキと読む)」とあり、「齋忌」はいむ・いわう・ゆまわる・ゆゆし・ゆず・いず、などと様々に読んでいて「い」と「ゆ」は通っている。そうであれば「齋忌(ゆき)」も古くは「いき」とも言っただろう。とすれば【あるいは息長帯比賣命(おきながたらしひめ:神功皇后)の三韓征伐の際などにも】

この島に神が宿るとして「齋忌」のことが行われたための名かもしれない。【「齋忌」は、古くは大嘗祭だけのものではなかった。】または韓半島へ渡る途中、ここで一旦船を止めて息(やす)むことから、息(いこ)い(憩い)の島であったか。【しかし国や所の名は、すべて昔、なにがしかの理由があって付けたのであって、後世の人の空想は筋が通っていたからといって、実際そうだったかどうか判定することはできない。だからといって「とにかく分からん」で済ますわけにもいかないので、私も含めて人はあれこれ推量するのである。】

天比登都柱(あめのひとつばしら)とは、海中に一つ離れてある島だからである。万葉巻三(388)に「淡路嶋中爾立置而(あわじしまナカにタチおきて)」とあるのも「柱」と言いたい趣だ。書紀の神代巻にも「以2オ(石+殷)馭慮嶋1爲2國中之柱1(おのごろシマをモチてクニナカのミハシラとす)」とある。

○註に「訓レ天如レ天」とあるのは「アメの~」、「アマの~」と「の」を入れず直接「アメ~」と続けるように読むことを言っている。下巻の檜クマ(土+えんがまえに口)の宮(宣化天皇)の段に「訓レ石如レ石」という註の例もある。

津嶋(つしま)。名の意味は万葉巻十五【二十六丁】(3697)に「毛母布禰乃波都流對馬(モモふねのハツルつしま)」とあるように、韓国への往還の船が停泊する津のある島ということである。【魏志という漢の書に、この島を「対馬国」とある。これは我が国で昔からこう書いていたのを書き取ったのかというと、そうではない。魏志ができたのは晋の世である。その頃、御国にはそういう仮名の使い方はなかった。ただ津嶋と言っていたのを、あの国では聞き誤って伝え、そういう風に書いたのである。ところが書紀では、すぐにその字を仮名に使って「對馬嶋」などと書いている。津嶋に対馬と書くのはその例もあるから、それでもいいが、嶋の字を添えたのは納得できない。嶋嶋と重ねて言う名などあるものか。淡海の海などとは訳が違う。敏達の巻には「津嶋」と書いてあって、これが古来の書き方である。】

天之狹手依比賣(あめのさでよりひめ)。名の意味はわからない。「狹手彦」などの人名もあり、何か意味のある言葉であろう。【和名抄の魚取具にサデ(叉手・小網:正字は表示不可)というものがある。万葉の歌(38)にもある。】

○伊岐、津嶋の二島は、書紀では大八洲のうちに入れていない。「これは潮の泡が凝固してできたものだ」と書いてある。ただし一書の中には、大八洲に入れるものもある。

佐度嶋(さどのしま)。名前の意味は「狭門」だろうか。この島へ入る水門(みなと)が狭いのだろうか。【海に関しては、島門(しまど)、水門(みなと)、迫門(せと)など言うことが多い。】さらに地形を調べて考える必要がある。この国は、天平十五年十二月には越後国に併合され、天平勝宝四年十一月には、また一国とされた。続日本紀にある。

ところで、この島だけはまたの名がないが、古くから落ちているようである。【口决や元々集に建日別と書いてあるが、これは旧事紀に「熊襲国を建日別と言う。あるいは佐渡島と言う」とあるのを採用したもので、間違っている。旧事紀は、この記に佐度嶋のまたの名がなく、熊曾國は後の九国に入っていないので、これが佐渡のことかとでも思って、こじつけて「あるいは佐渡島と言う」と書いたのであるから、例の妄言である。また口决の一本には「達日別」とあるのは、後人が写し誤ったのである。】なお書紀では、「雙=生3億岐洲與2佐度洲1(隠岐島と佐渡島を双子に生んだ)」と書いてある。

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