文殊菩薩の由来(過去世の物語)
文殊菩薩は、なぜ智慧のすぐれた菩薩になられたのでしょうか。
お釈迦さまは『大宝積経』五十九巻に、このように教えられています。
遠い遠い昔、東のほうに無生という国があり、普覆(ふぶ)という名前の王がありました。
普覆王は、その国に現れた雷音如来(らいおんにょらい)という仏を心から敬い、大いなる布施をし続けていました。
そんなある日、普覆王は今まで自分が積み重ねてきた功徳として、何を望むべきかに悩みました。
「帝釈天や梵天のような神として天上界に生まれるべきか、世界を支配する転輪王になるべきか、仏道を求める声聞しょうもんか縁覚えんがくになるべきか」
とつぶやくと、天から声が聞こえました。
「そんな小さな考えを起こさずともよい。そなたの今まで積んだ功徳は甚だ多い。最高の悟りである仏のさとりを求めるべきである」
それを聞いて、仏を目指すことを決意した普覆王は、雷音如来のもとへ行き
「どうすれば最高の悟りを得ることができるでしょうか」 とお尋ねしました。
すると雷音如来は
「大王よ、よく聞くがよい。私は遠い昔、もろもろの衆生のために幸せを施すことを誓い、そのように努力することで悟りを得たいという誓願を起こしたのだ。そして、その誓願の通り仏のさとりを開くことができた。
大王よ、そなたも誓願を立てて修行をすれば無上のさとりを得られるであろう」
といわれます。
喜んだ普覆王は、大勢の人の前で誓いました。
「私は今から、すべての生きとし生けるものの苦しみを救おう。数え切れない生まれ変わりの中で、どの生でも菩薩の行を修めよう。欲や怒りの心は起こさない」
「そして私はこれから仏の教えを学び、戒律を守る。急いで悟りを得ることは願わない。むしろ尽未来際仏にならず、生きとし生けるものを救うために菩薩として生きよう。そのためにあらゆる悪を遠ざけ、善に向かおう」
お釈迦さまは続けます。これが、文殊菩薩の過去世の姿です。
こうして限りない時を菩薩として修行に励み続け、生きとし生けるものを救い続けたのですが、誓願の通り一度も仏になろうという気持ちを起こしたことはないのです。
普覆王が誓いを立てた時、その場にいたたくさんの人が感動して一緒に雷音如来のもとで出家し、修行を始めました。今では、その人たちは全員仏になっています。
ですが、一人、文殊菩薩だけは、今でも菩薩としてその仏たちに布施をして、教えを守り続けているのです。
(出典:『大宝積経』)
文殊菩薩は、過去世にこのような願いを起こし、このような修行をして、今では非常に智慧のすぐれた偉大な菩薩になったのでした。
文殊菩薩と維摩居士の問答
『維摩経』では、文殊菩薩と維摩居士(ゆいまこじ)の問答が記されています。
維摩居士は、毘舎離(びしゃり)の町に住む富豪でした。商売をしたり、博打をしたり、遊女と付き合ったりして、出家はしていません。ですが、過去世から善を行っていた功徳によって真理を見通す智慧を持ち、人々を仏の道に入らせたいと願っていました。
ある時、維摩が病気になったので、お釈迦さまが誰か見舞いに行くように言われました。
ところが誰も行きたがりません。
そこで舎利弗(しゃりほつ)に見舞いに行くように言われると、舎利弗は維摩にはかつてこのようにやり込められたことがあるので、見舞いに行く資格がありませんと辞退します。
目連(もくれん)に見舞いに行くように言われると、同じように目連も辞退します。
大迦葉(だいかしょう)に言われても同じです。
お釈迦さまは、須菩提(しゅぼだい)、富楼那(ふるな)、迦旃延(かせんねん)、阿那律(あなりつ)、優波離(うぱり)、羅睺羅(らごら)、阿難(あなん)と、十大弟子に順番に声をかけていかれますが、全員辞退します。
次に弥勒菩薩(みろくぼさつ)にも声をかけられましたが、同じでした。
他の菩薩も辞退します。
祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)を建立した給孤独長者(きっこどくちょうじゃ)も声をかけられますが、辞退します。
やがて、お釈迦さまが文殊菩薩に声をかけられると、文殊菩薩も自分にはとても応対できるものではないと言いつつも、見舞いに行くことにします。すると舎利弗や大迦葉など、他のお弟子たちも、文殊菩薩と維摩居士の対談が聞けると思い、ついてきたのでした。
維摩の家に到着した文殊菩薩が、維摩の病を見舞い
「あなたの病気の原因は何ですか?」
と尋ねると、維摩はこう答えます。
「私の病の原因は、人々が病んでいるからです。人々の病が治れば、私の病も治るでしょう。子供が病に苦しめば、親が病気になってしまうようなものです。衆生病むが故に、菩薩また病むのです」
こうして文殊菩薩は、菩薩はどうあるべきか様々なことを維摩に尋ね、維摩は次々とそれに答えていきます。
最後に維摩が、悟りの世界とはどんなものかと菩薩たちに尋ねます。
すると菩薩たちが一人一人
「生ずることも滅することもないものです」
「自分という実体はないと知ることです」
「汚れたとか清らかという分別のなくなることです」
「善と悪は異なるものではないと知ることです」
「在家と出家の区別のない世界です」
「輪廻と涅槃は異なるものではないと知ることです」
このようにたくさんに菩薩がそれぞれ答えを述べると、最後に文殊菩薩はこう言いました。
「皆さんが言われたことは、それぞれもっともなことです。ですが、言葉に表した時点で、それはもう悟りから離れてしまいます。本当の悟りというのは、言葉を離れた説くことのできないものだからです」
そして維摩に対して
「私たちは、それぞれ自分の意見を言いました。ぜひ、あなたのお考えを教えてください」
と言いました。
その時、維摩は、かたく口を閉じて沈黙したまま一言も言葉を発しませんでした。
それに対して文殊菩薩は
「すばらしい。悟りというのは言葉を離れた世界ですから、あなたの答えこそもっとも正しい」
と称讃しました。
これを「維摩の一黙、雷のごとし」といわれます。
このように文殊菩薩は、そのすぐれた智慧によって、言葉を離れた悟りの世界を教え、苦しみ悩む人々を、その世界へ導こうとされている菩薩なのです。
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