イエスは全くユダヤ教の世界で、ユダヤ人だけを相手に活動していました。ですから、イエス自身には異教徒伝道どころか、独自の教会組織を作って教えを歴史的に伝えていくなどという考えも、まるでなかったことは確実です。なぜなら「終末は今まさに来たらん」としているという意識の下に「今、悔い改める」ことが問われたからで、そしてそれを要求したのは、自分の回りにいるユダヤ人に対してだったのです。この限りでは、イエスはこれまでのユダヤ教の「預言者」と全く変わりがないのであり、ましてや「一つの宗教の創始者」とか「教祖」だとかにされるとは、予想もしていなかったでしょう。
それが「拡大解釈」されて、一つの教団が作られたのは、イエス昇天後の弟子達によってとなります。そして、それが小アジアのギリシャ人に伝えられたところで、彼らはキリスト者と呼ばれた(「キリスト」というのは、救世主を意味するメシアのギリシャ語訳)、という記述になっているのです。
つまり「キリスト教」というのは、ギリシャ人に伝えられ彼らがイエスに従ったところで出てきた命名なのであり、ですから「キリスト者」というのは当時にあっては、明確な言い方をしてみると「(ギリシャ伝来のオリュンポス信仰を捨てて)イエスに従ったギリシャ人」に対するものだった、とすらいってもかまわないような状況だと言えます(「使徒言行録」11.26)。とすると、キリスト教というのは初めから「ギリシャ人」のところにおいて形成されていったものだった、と言えます。このことはキリスト教理解の上で、大事なポイントになります。
何故なら、ここで「中東生まれの神が、異郷の西洋へと渡って行った」からです。こうなれば当然、その神は西洋化せざるをえません。厳密な言い方をすれば「ギリシャ化」です。ですから、キリスト教文書というのは『聖書』を始めとして、殆どがギリシャ語で書かれていくことになったのでした。従って、これまでは故郷中東の言語で語られていたに違いないイエスの言葉は、すべてギリシャ語に翻訳されて伝わることになったのでした。私達の知っている『聖書』でのイエスの言葉も、実はイエスの使っていた言語ではなくギリシャ語の翻訳なのです。
そうした方向を作っていったのが伝道者パウロだったのですが、そのパウロによる異教徒たるギリシャ人への伝道というのは簡単なものではなかったのであり、ユダヤ人キリスト者に大反対されていたことが「使徒言行録」などに読み取れます(使徒言行録の15章全体他)。
すなわち、イエスの教えは「ユダヤ人、アブラハムの子孫」に対してのものだと信じられ、それは割礼によって証しされるとされていました。異教徒であるギリシャ人が、そんな割礼などしているわけはありませんから、彼らは対象にならないと主張されたのです。この壁を打ち破るのに、大変な努力をしなければならなかったことは、パウロの「ガラテア書簡」などにも読めます。ギリシャ人伝道というのは、そうまでして行われたのであり、パウロはそれがキリスト教の生き残る道であると信じたからでしょう。そして、それは正しかったことを歴史は証したのでした。
そうして後、イエスはユダヤ人だけではなく「人類の救世主(キリスト)」と理解されていったのです。この場面で「福音書」を含め、後に『聖書』とされる文書は、すべてイエスを「神の子、人類の(ユダヤ人、ではなく)救い主キリスト」とする教義を根底に置いて、その上で「教え」や「教会組織」についての教義が語られていくということになったのでした。
ここで興味深いことに、イエスが語っていた本体である筈の神は姿を遠くに隠されて、「神の子とされたイエス」だけが突出して、人々の前に姿を現すということになりました。そういう意味で福音書やキリスト教文書というのは、弟子たち及びその後継者によって書かれた「(神そのものではなく)イエス・キリストとキリスト教会の意味づけのための文書」、という性格を持つことになったのでした。こうしたものとして、キリスト教は異教徒、つまり当時の支配勢力であったローマ帝国へと入っていくことになるのでした。
「キリスト教」の拡大
キリスト教の拡大は、今指摘したように第一段階目として、パウロによってギリシャ人対象とされたところから始まります。これによって、キリスト教は「ユダヤ人だけのもの」という限界を超えて「人類すべてのもの」として確立し、拡大していく基盤が得られました。
第二段階はキリスト教がローマ帝国で拡大し、やがて紀元後392年に国教とされたことでした。これはとても重要なことであり、本来イエスにおける「虐げられた者、下層階級の者に対する救いの教え」が「皇帝・貴族・上流市民」のものにされてしまったのですから、大変な変質があったということになるからです。
これ以降、教会は皇帝と肩を並べる権威的存在になってしまい、指導者も初期の時代の下層の人々から、上流階級の男性・インテリに奪われていきました。もっとも、下層階級の虐げられた人々は、依然としてこのキリスト教にイエスを求めて、また一般市民の中でもイエスの教えを大事に引き継ぎ、愛と平和へと向かうキリスト者もたくさんおりましたし、初期段階では教会自身も「人が神に生かされていることへの感謝」「悔い改め」を言いましたので、その限りではイエスの精神も保たれてはいました。
第三段階目は、紀元後476年にローマ帝国の西域がゲルマン人によって占拠されて滅亡し、その中にあったローマ教会が西欧ゲルマン人勢力と結合して「カトリック」を形成したことです。実質的に800年には完全な分派・独立の動きがあり、正式には1054年に独立となります。このカトリックは、ゲルマン諸侯と手を結んだところから興隆して、西欧を完全に支配する勢力となりました。ここに「キリスト教の権力化」が、完璧に実現していきました。
しかし、それに伴い歴史的に有名な「異端裁判・魔女狩り・免罪符」事件といった、人類史上でも稀な神の名による大犯罪が生じて、イエスの精神は殆ど殺されました。
第四段階として、カトリック世界に「プロテスタント」が生じて、またそれに呼応してカトリックも反省してキリスト教の再生が図られ、近代キリスト教となります。しかし、資本主義の勃興に伴い西欧はお金に身を売ることになって、この再生もはかばかしくはありません。
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