2021/07/24

古墳時代(1)

古墳時代は、日本の歴史の時代区分の一つである。古墳、特に前方後円墳が盛んに造られた時代を意味する。縄文時代、弥生時代に次ぐ考古学上の時期区分である。ほぼ同時代を表している「大和時代」は日本書紀や古事記による文献上の時代区分である。現在は研究が進んだこともあって、この時代の呼び方は「古墳時代」がより一般的となっている。

 

古墳時代の時期区分は、古墳の成り立ちとその衰滅をいかに捉えるかによって、僅かな差異が生じる。例えば、前方後円墳が造営され始めた年代に関しても、議論が大きく揺れ動いてきた。現在のところ一般的に、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い。中でも3世紀半ば過ぎから6世紀末までは、前方後円墳が北は東北地方南部から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の時代と呼ばれることもある。

 

前方後円墳が造られなくなった7世紀に入っても、方墳・円墳、八角墳などが造り続けられるが、この時期を古墳時代終末期と呼ぶこともある。

 

西暦266年から413年にかけて、中国の歴史文献における倭国の記述がなく詳細を把握できないため、この間は「空白の4世紀」とも呼ばれる。日本国家の成立を考察すれば仁徳天皇は難波(なにわ:現在の大阪市)に都を定め、宮居を難波高津宮 (なにわのたかつのみや) とし、国内流通の中心である住吉津や難波津といった港湾設備も建設され、倭国のヤマト王権が拡大し王権が強化統一されていった時代と考えられる。その後、都を飛鳥に定め、飛鳥時代に入り後に7世紀半ばに孝徳天皇の難波宮で行われた大化の改新により、倭から日本という国号と共に元号の使用が始まった。

 

概要

この時代にヤマト政権が倭の統一政権として確立し、前方後円墳はヤマト王権が倭の統一政権として確立してゆく中で、各地の豪族に許可した形式であると考えられている。3世紀半ば過ぎには出現期古墳が現れると見る説が通説とされるが、年輪年代測定や放射性炭素年代測定は実際には確立した技術と呼べる段階に至っておらず、その精度や測定方法の欠点・問題点などが多くの研究者からも指摘されているため、現在でも古墳時代の3世紀開始説に対する根強い反対も存在する。

 

3世紀の後半または4世紀前期には、奈良盆地に王墓と見られる前代より格段に規模を増した前方後円墳が現れ、4世紀中頃から末までの半世紀の間に奈良盆地の北部佐紀(ソフ(層富)とも)の地に4基の大王墓クラスの前方後円墳が築かれ、4世紀の後葉に大阪平野に巨大古墳が約1世紀の間築造され、この世紀の終わり頃には畿内の一部に先進的な群集墳が現れる。

 

続く5世紀の半ばには、各地に巨大古墳が築造されるようになる。それが6世紀の終わりには日本各地で、ほぼ時を同じくして前方後円墳が築造されなくなった。これは、ヤマト王権の確立後、中央・地方の統治組織が出来上がり、より強力な政権へ成長したことの現れだと解されている。この後しばらくの間、方墳や円墳が造り続けられる。大王の墓は、特別に八角墳として築造された。

 

対外関係としては、4世紀以降朝鮮半島に進出。新羅や百済を臣従させ、高句麗と激しく戦ったとも解釈される広開土王碑文などから知られる(高句麗と倭の戦争、倭・倭人関連の朝鮮文献)

 

5世紀には、倭の五王が中国に使者を遣わした。倭が朝鮮半島で得た鉄は、甲冑、武器、農具に用いられた。大陸から、文字(漢字)と仏教・儒教がもたらされた。この時代の人々は、土師器と須恵器を用いた。また、『隋書』によると、新羅や百済は、倭国は珍物が多い大国であると尊び、倭へ使い通わしているとの記述が存在する。

 

水稲耕作については、弥生時代以来の「小区画水田」が作られ続けているが、この時代の小区画水田は、静岡県静岡市の曲金北遺跡や、群馬県高崎市の御布呂遺跡・芦田貝戸遺跡などのように、小区画が数百~数千の単位で集合して数万平方メートルの水田面を形成する例が全国的に見られるようになる。

 

また、東西・南北を軸線にして長方形の大型水田が、一部の地域に出現するようになる。例えば、5世紀末から6世紀初めの岡山県岡山市の中溝遺跡例などがあり、水田の一筆の広さが150200平方メートルを測る。新たな水田造成技術の導入もみられ、新田開発が行われたと推定されている。屯倉の設定には、こうした新水田造成技術を導入して行われたとする見解がある。

 

古墳時代になると、王族や貴族の大型古墳、地方豪族の古墳、横穴墓などの集合墓、あるいは円筒埴輪棺など死者を埋葬する墓における階層化が目を見張るようになり、それに伴い被葬者の間で身体特徴の違いが見られるようになる。一番わかりやすい身長で比較すると、大型古墳の被葬者は一般に高身長でときに170センチ近くにも及ぶ被葬者がいた。各地豪族墓の男性被葬者の平均は160センチぐらいであり、横穴墓に埋葬された者はそれを下回り、158センチほどである。

 

古墳時代の人骨の一番の特徴は、縄文人や弥生人の骨格で見られた骨太さ・頑丈さが目立たなくなったことである。この傾向は、大型古墳の被葬者などで非常に顕著であり、横穴墓や円筒埴輪棺などの常民墓の埋葬者ではさほどでもなく、縄文人、弥生人と大型古墳の被葬者との中間である。顔立ちについては、縄文人で一般的であった鉗子状咬合は全体の70%ほどで見られるが、大型古墳の被葬者では、のちの日本人で一般的な鋏状咬合が多くなる。また、下顎のエラの部分の前ほどにある凹み(角前切痕)が多くみられるようになる。

 

さらに、顎の先が細く尖り気味の下顎骨を持つ者や、第3臼歯が萌出しない者の割合が多くなる。これらの下顎骨の骨細化や退縮減少に伴う顔面骨の変化は、生活様式の変化、特に食物の硬さが減じたことに起因する。また階層により生活レベルの違いが大きくなり、階層性が目立つようになったと考えられる。

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