東ゴート王国
東ゴート族は、アッティラによる圧迫から逃れる形でバルカン半島北部へと移住を開始し、傭兵として東ローマ帝国内に居住するようになっていた。東ローマ帝国で軍司令官と執政官を歴任した東ゴート王テオドリックは、東ローマ皇帝ゼノンの命令でイタリアに侵攻し、ゼノンと対立していたイタリア領主のオドアケルを討伐した。その功績として、テオドリックには493年にローマ皇帝アナスタシウス1世よりイタリア王位が認められ、イタリアの地に東ゴート族の王国(東ゴート王国)が誕生した。しかし、後に東ゴート王国は東ローマ帝国と対立し、皇帝ユスティニアヌス1世の派遣した軍団によって滅ぼされた。
東ゴート族
東ゴート族(Ostrogoths)は、ゲルマン人の一派。
歴史
東ゴート族は、150年ごろから黒海北岸に定住していたゴート族の一派である。220年ごろ、2つに分かれて活動し始める[要出典]。ドニエプル川の東側に住んだグループが、砂の多い平野に住んだことから、グルトゥンギ・アウストロゴティ (Grutungi Austrogoti)と呼ばれるようになったが、やがて「グルトゥンギ」の部分が無くなり、「Austrogoti」が「Ostgote」すなわち「東ゴート」に変化して、東ゴート族と呼ばれるようになった。なお、もう一方のグループはドナウ川中流域に定住し、西ゴート族と呼ばれるようになった[要出典]。
360年、西へ移動するフン族と接触し始める[要出典]。372年、そのフン族により、攻撃を受け[要出典]、375年にフン族によって征服される。生き残りの一部は、フン族とともに行動した。また一部はヴァンダル族とともにローマ帝国に保護を求め、パンノニアに移住したが、このときローマ人から屈辱を受ける[要出典]。5世紀末にフン族の衰退により、東ゴート族の王テオドリックが部族を率いてイタリアに入り、493年に東ゴート王国を建国した。
後に東ローマ帝国と対立し、一時はローマを占領するなどイタリアの大半を制圧するが[要出典]、皇帝ユスティニアヌス1世の派遣した将軍ベリサリウスに敗れ、その更迭後に東ローマ軍を率いた宰相ナルセスによって滅ぼされた。
フランク王国とブルグント王国、ランゴバルド王国
フランク人の名前は、3世紀半ばに初めて史料に登場する。その勇猛が買われ、当初は西ローマ帝国の傭兵として活躍していたが、4世紀にはメロバウドゥスやフラウィウス・バウトらのように西ローマ帝国において執政官に就任する者も現れ、次第に東西両帝国の政界において強い影響力を持つようになった。
5世紀にはガリアにおいてブルグント王国、ランゴバルド王国を滅ぼして勢力を広げた。508年にはフランク王クロヴィス1世がローマ皇帝アナスタシウス1世より西ローマ帝国の名誉執政官に任命され、800年にはフランク王カールがローマ教皇レオ3世からローマ皇帝としての帝冠を授けられた。
フランク王国(ラテン語: Regnum Francorum, ドイツ語: Fränkisches Reich,フランス語: Royaumes francs)は、5世紀後半にゲルマン人の部族、フランク人によって建てられた王国。カール1世(カール大帝・シャルルマーニュとも)の時代(8世紀後半から9世紀前半)には、現在のフランス・ドイツ・イタリア北部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイス・オーストリアおよびスロベニアに相当する地域を支配し、イベリア半島とイタリア半島南部、ブリテン諸島を除く西ヨーロッパのほぼ全域に勢力を及ぼした。カール1世以降のフランク王国は、しばしば「フランク帝国」、「カロリング帝国」などとも呼ばれる。
この王国はキリスト教を受容し、その国家運営は教会の聖職者たちが多くを担った。また、歴代の王はローマ・カトリック教会と密接な関係を構築し、即位の際には教皇によって聖別された。これらのことから、西ヨーロッパにおけるキリスト教の普及とキリスト教文化の発展に重要な役割を果たした。
フランク王国は、メロヴィング朝とカロリング朝という2つの王朝によって統治された。その領土は、成立時より王族による分割相続が行われていたため、国内は恒常的に複数の地域(分王国)に分裂しており、統一されている期間はむしろ例外であった。ルートヴィヒ1世(敬虔王、ルイ1世とも)の死後の843年に結ばれたヴェルダン条約による分割が最後の分割となり、フランク王国は東・中・西の3王国に分割された。その後、西フランクはフランス王国、東フランクは神聖ローマ帝国の母体となり、中フランクはイタリア王国を形成した。
このようにフランク王国は政治的枠組み、宗教など多くの面において中世ヨーロッパ社会の原型を構築した。
ブルグント王国は、ローヌ川流域を領土として存在した王国。現在のフランス、スイスにまたがっており、ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏、オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏、及びスイスのフランス語圏とおおよそ一致する。9世紀末からは プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュールも領域に含んだ。
名称
「ブルグント」はフランス語では「ブルゴーニュ」であり、ブルグント王国が滅亡した後も、ブルグント王国があった地はブルゴーニュと呼ばれ続けた。ブルゴーニュ公やブルゴーニュ伯、ポルトガル王国のブルゴーニュ朝やカスティーリャ王国のブルゴーニュ朝はブルグント王国とは別のものであるが、地名としてのブルゴーニュに由来している。
歴史
411年、ブルグント族の王グンダハールはローマ帝国のガリアに侵入した。ブルグント族は、西ローマ皇帝ホノリウスに休戦協定の一部としてローヌ川流域の土地を与えられ、フォエデラティ(foederati、ローマ帝国の同盟者)の地位を得た。しかしブルグント王国はフォエデラティであるにも構わず、ローマ帝国領のガリア・ベルギカ北部地域を襲撃した。反撃を受けたブルグント王国は、ローマ帝国の将軍アエティウス(Aëtius)が呼び入れたフン族の傭兵によって437年に一旦滅ぼされた。
443年、ブルグント族は西ローマ皇帝により、再びフォエデラティの地位を与えられた。451年、ブルグント族はカタラウヌムの戦い(別名:タルーニャ平原の戦い)でローマ帝国と共にフン族と闘った。また西ローマ皇帝グリケリウスを擁立するなどして、ローマ帝国の政治に介入した。ローマ帝国との繋がりを深めていったブルグント王国であったが、五世紀末に西ローマ皇帝位は廃絶した。ガリア北部に残っていたローマ帝国領ソワソン管区も486年にはメロヴィング朝フランク王国に滅ぼされ、534年にブルグント王国もまた北から攻めてきたフランク王国によって滅ぼされた。
ランゴバルド王国(羅: Regnum
Langobardorum、伊: Regno longobardo、独: Langbardland、英: Kingdom of the Lombards)は、中世イタリアに568年あるいは569年に建国されたゲルマン系のランゴバルド族による王国である。イタリア語からの音訳でロンゴバルド王国ともいう。首都はパヴィアに置かれ、774年にカール大帝によって実質的に滅ぼされた。
王国は2つの主要な部分からなっており、イタリア半島の北部から中部に存在したより重要な北部(その西側をネウストリア、東側をアウストラシアという)と、イタリア南部のベネヴェント・スポレート両公国によって形成されていた。王国の2世紀にわたる歴史において、両地域は安定して統治されたわけではない。王国を形成していた諸公の権力は強く、王権が強大なときも勢力を蓄え、諸公の力を抑制する努力は全く実らなかった。
ランゴバルド的な個性は徐々に消えていき、イタリア王国へと発展した。ランゴバルド人は徐々にローマ帝国の役職名や固有人名、伝統を受け入れていき、7世紀には一部がキリスト教に改宗したが、宗教的民族的対立は解消されずに長く続いた。パウルス・ディアコヌスが著述活動をしていた8世紀までには、ランゴバルド族の言葉は失われ、固有の装束様式や髪型は消滅していた。ランゴバルド族の文化水準は低く、影響は文化的には大したことはなかったが、政治的には以後長く続くイタリアの分裂の端緒となった。
王国の支配領域であるポー川流域一帯はランゴバルド人の土地と言う意味で、現在のロンバルディア州の語源になった。ランゴバルドとは「長い髭」 (longa barba) を意味しているとの説がある。
出典 Wikipedia
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