出典http://ozawa-katsuhiko.work/
黒不浄と赤不浄
一方、生命に関わる「不浄」の最大のものとして「死」を意味する「黒不浄」と「女性の月経、出産の血」を意味する「赤不浄」というものがいわれています。
「黒不浄」は分かるとして、何故「赤不浄」が不浄とされたのか、よく分かりません。女性に月経や出産はつきものですから、結局女性そのものが不浄なるものとされてしまいますが、これは日本だけの現象ではないので、何か理由があるのでしょうがはっきりしません。とりあえず「血」は生命に関わりますから、これが「体外に出る」ということに恐れを抱いたというのは分かりますが、それだけではないような気がします。恐らくは「女性が子供を産む」という神秘的な力に、むしろ恐れを抱いたのかも知れません。
ですから当初、女性は「神的」なものと思われたようです。その痕跡は、たくさん見出だせます。しかし、それが逆転してしまうのです。つまり、社会が進展して、戦争などが集団の存続に関わり、男社会になった時、男達は女性を「恐れ」、それを疎外する方向に行ってしまったのではないか、と考えられるのです。男性がどうも無意識的に心の底で女性を恐れているのではないかというのは、ヨーロッパ中世での「魔女狩り」などにもみることができます。
ともあれ、こうして身内のものが「死んだ」時には、その汚れは一族に及んでいるものとして皆「家」に引きこもり、人々との付き合いを絶って、汚れが薄くなくなるまでじっとしていることになりました。今日の「忌中」という奴です。女性の方も「月経時」は「汚れて」いるものとして引きこもっていなければならず、出産時には「家」に汚れが及ばないよう「別に出産小屋」を建てて、そこで出産するのが習わしとなりました。
日常的な汚れとしての災いと人間的我欲、我執、怨念
以上のような明確な不浄の他にも、病気や怪我などさまざまの不浄があり、それは日々人間の身に降り懸かってきます。また、自然的災害もあります。そしてもう一つ「罪」とされたのが「反集団性」であったわけですが、これも多くははっきりした形ででることはなく、日々の生活の中で蓄積されてくるものです。
こうして、人はさまざまに「汚れて行く」わけですが、その内面の身の汚れは「我欲とか我執、怨念」などによるものとされます。人間ですから、誰だってこういうものを持つわけです。これが、もちろん「目に見える」形で表れたら「罰せられて」しまいますが、そうでなくても日々心の中に持つのが普通です。このままでは、やはり人はドンドン汚れていってしまいます。そこで人々は、これを「払い除けて」きれいになろうとしました。その時、行われたのが「禊・祓い」なのです。
「禊」というのは、古事記にあるように「具体的な穢れを洗い流す」ものでしたが、特別取り立てた汚れがあるわけではない場合でも「日常的に身についた」汚れを落とすために行われることがあり「水をかぶったり」、「火の粉をかぶったり」するものです。
「祓い」の方はむしろ具体的汚れや、あるいは予期されるものに対して、それを「祓い落とす」ためのもので、現代でも「車」を買った時、神社で「お祓い」をやってもらうというのがれになります。ただし、今日その区別は殆ど意識されないどころか、悪い事をして辞めた代議士が「選挙」で再び選ばれて「禊は済んだ」などという始末で、いいように利用されています。
しかし、日本人に「人間に本来的な罪」というのはなく、汚れは外からくるもので、それを祓い落とせばきれいになるという思想があるのは、現代でも生きているような気がします。そして「祭り」には、こうした「禊」タイプのものもたくさんあり、さまざまの地方でみられる「火祭り」とか「海、川などに入るような祭り」などが、こうしたものと言えます。神社にいった時「手や口をそそぐ」のも同じ思想からです。
祖霊
「祖霊」というのは、柳田国男が言い出したものとして有名になっているものですが、これは字の通り「祖先の霊」ということで、日本における「神」の実体とはこれだ、という主張でした。一般には、日本の神とは世界中の民族特有の宗教に共通する「自然力」、「生産力」として説明されますが、日本の場合には「先祖」信仰が元だと言うわけです。確かに日本における「神」の位置付けを観察する時、この「祖先信仰」でうまく説明できるものがたくさんあります。
つまり「氏神=祖霊」というわけです。先祖は死んで、どこか遠いところに行ってしまったわけではなく、その霊はしかるべき年数を経て、子孫の法要によって汚れた霊(死霊)から浄化されて「祖霊」になると言われます。そして最終的に「氏族の神=氏神」となるというわけです。
この祖霊は、しょっちゅう「この世」に出てきては家を守り「子孫を保護する」とされます。お盆というのは本来、この「祖霊」の祭りなのであって「仏教」の行事ではありません。何故なら、仏教では死者の霊は仏の世界に行っている筈で、この世に舞い戻ってきたりする訳はありませんから。
「祖先崇拝」とは、本来的に「日本の伝統信仰」なのです。こんなわけで、柳田はさらに田の神、山の神まで祖霊であったと主張してくるわけですが、これは世界中に分布している「民族宗教」の「生産力」という性格を少々、見落している感じがします。
一方、それともう一つ大事なことですが、私たちは「祖霊」というと、何となく「私たちのご先祖」と思ってしまう傾向がありますが、これも違います。古代にあっては、日本人は「個々人」として捕らえられることはなく「家・集団のメンバー」としか認識されません。この「家・集団」は大きくなり、当然「首長」を持ちます。ところが、この首長が死んだ時、そのメンバーは核を失った思いで、その首長の「力」が存続してメンバーを見守っていることを期待します。
こうして、その「力」は「首長」にあったところから、それは「首長の霊」とされ「その霊」が「祖霊」として、若き新首長である子孫の中に現れ、メンバーを以前のように指導し守ってくれることを期待したのです。これが「氏神」と同じであることは、いうまでもありません。
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