出典http://ozawa-katsuhiko.work/
神仏習合理論として体系だったものは鎌倉時代の、真言宗による「両部神道」、天台宗による「山王神道」などが知られていますが、すでに平安時代には「本地垂迹説(仏が「仮に神の姿」となって日本に現れてきたもの、とする説)」が唱えられています。
仏教側の理論ですから、当座はもちろん「仏」が主体でした。これが極端な形になって現れるのが奈良時代に入っての「神身離脱説」と呼ばれるもので、これは字の通り、「神の身からの離脱」ということで、神はこの地にあって迷い苦しむ衆生の代表であり、神は苦しみの神の身から仏の力によって「そこから脱却」しよう、というものでした。こうして各地の神社に「神宮寺」が建てられ、神の前でお経が読まれたりしたのです。何とも情けない状況に立たされてしまった「日本の神様たち」でした。
しかし、朝廷側としては「神様の力」も侮り難いと思ったのでしょうか、奈良時代の後半、称徳天皇は神は仏法を守護すべき善なる「守護神」であるとして「神様」を「復権」させてきます。こういう「復権」がはっきりみえるのが「奈良の大仏」の建立の場面で、この時それを助けるため「宇佐の八幡神」が近くの京都に呼ばれてくるのです(これを「勧請」といいます)。大変な難事業である「大仏」の建設に、やはり強力な助っ人が必要とされ「八幡様」が選ばれた、というわけです。こうして「仏法」を守護する「神」という位置づけが確立していくようになり「鎮守神」という性格を示してくるようになります。
これは面白い現象で、これをたとえばギリシャの神とキリスト教にたとえると、ゼウスやアポロンなどが「イエス・キリスト」の教会の傍らに神殿を持って「イエス様をお守りしている」というような格好になってしまうわけで、こんなことは絶対に起こり得ないことでした。これはたとえれば「サッカーのゴール」を野球のミットを持った「キャッチャー」が守っているようなものでしょう。
しかし、こんなことが「神と仏との間」には成立してしまうというわけですから、仏がどんなにか「神」と同質と思われていたかがよくわかります。こういう中で「神像」などが作られ、貴族の姿をしたものや「僧形」のものなども作られたのですが、どうも「如来」でもなく、「菩薩」でもなく、「明王」とも「天部」とも違うと思われたせいか「神像」は一般化しませんでした。このあたり「神」というものの捉えが揺れ動いていて、つまりどうも「仏」と同じようには扱えない、特殊な性格を特別にもっている存在と捕らえているようです。日本の神々は「自然そのもの」を表しているため、「人間的な姿・形として捕らえられない」という性格をもっていたからだと考えられます。
それはともかく、こうした理解が先ほども指摘しておいたように、平安時代になって「本地垂迹」説を生み出していったのです。これは簡単に言えば、「仏」が本体なのだが、これが日本の地に現れた時には「神様」の姿をとってくるというもので、姿は違えども「本体そのものとしては変わらない」というわけです。ただし、例えば「伊勢神宮」の「本地」は「大日如来」であるなどという主張になるのですから、ニュアンスとして「大日如来」の方が「本物」で「神」の姿は「仮の姿」という主張があって、まだ「仏様」の方が「上だぞ」という含みは残しています。この「仮の姿」というのが「権現」様というわけで(権化も同じ意味です)、仏教の側からみた「神様」の在りようなのでした。
ちなみに「明神様」というのは、逆に「神道」の立場から「優れた神」を言う場面のもので、「名人」ならぬ「名神様」です。中世以前は「名神」と表現され中世以降「明神」と表現されているものです。これはつまり「権現」という言い方にカチンときた「神道側」の抵抗でしょう。ですから「吉田神道」では、この「大明神号」の優位性を主張し、この号の使用を大々的に行っています。面白いのは、豊臣秀吉は死後「豊国大明神」と呼ばれることになったのに対して、徳川家康は「東照大権現」と呼ばれていることです。これは家康のブレーンであった天海が天台宗の僧侶だったからでしょう。
それはさておき、この「本地垂迹」説は天台宗などが「老子」の思想を借用して「和光同塵」といった思想で流行らして一般化していったようです。「和光同塵」というのは、本来は「優れて賢き人がその知恵なる光を和らげ隠して塵なる俗世と交わる」というような意味ですが、ここでは「仏がその身を和らげ、つまり姿を変えてこの俗世に現れ、衆生を救う」というものです。
ところが一方で,宮中においての「神事」においては「仏教儀礼」を廃止すべきという主張が現れています。もっとも、これには悪名高い坊主「弓削の道鏡」などが宮中を引っかき回したことなども原因としてあるかもしれません。少なくとも、宮中では「神仏隔離」の方針がとられていきます。こんな具合に「神仏」の関係は相当に「入り乱れた」状況になっていきました。
こうした経緯を踏まえて、鎌倉時代になり仏教側から「天台宗」の「山王神道」が、真言宗からは「両部神道」が唱えられていくわけです。負けじと「神道」の側からも「伊勢神道」などが提唱されていきます。ですから発端は、すでに平安時代に遡ることができます。
山王神道というのは、要するに「比叡山」を中心として「本地垂迹」説を展開したもので、両部神道は「伊勢神宮」の在り方を「真言密教」の曼陀羅の世界で説明することで、日本の代表的神社である伊勢神宮も「仏」の世界のものであるにほかならない、ということを主張したものでした。
これに対する神道側の理論である「伊勢神道」は、神仏隔離の根本に立ちながらも、世界観的には両部神道をひっくり返したようなもので、「伊勢神宮」が宇宙の中心であることを主張したものでした。しかし、これらは「学説」としてそれぞれ継承はされ、それが貴族・神官などの文化に影響を与えることはありましたが、一般庶民の間では知られもしなかったでしょう。
一般庶民にとっては「神も仏も同じ事」といった感じのようで、それらを「隔離」すべきだとか、どっちが「本体」だとかはどうでもよかったのでしょう。「難しいこと」は「偉い人たち」の頭の中のことで、自分たちには関係ないといったところです。その同じと見られたものは、これまで見てきましたように、両者とも「現世利益的」功利をもたらす「力」であったことです。
またもう一つ、「仏になる」という仏教本来の思想と見られるものも、「祖霊」信仰の筋道にあると言えるわけで、これはある意味で「仏になる」過程と比肩できるものを持っているといえます。
つまり、日本仏教では「草木すべて仏性を持つ」という思想があり(これを本覚思想といいます)、すべての人間はそのものとして「仏」の性を持っているとしてきます。そしてこれは、「仏様に同化する」という形で考えられていますので(密教では大日如来に、浄土宗では阿弥陀如来の浄土に)、これは「祖霊」信仰と重なっていると考えられるのです。
「人間が神になれる」という思想は「神道」には確実にあり、それが、例えば「菅原道真」の「天神様」とか、秀吉の「豊国大明神」、家康の「日光大権現」をはじめ、明治時代にも乃木大将の「乃木神社」、東郷元帥の「東郷神社」などになり、また一般庶民の中からも「不遇」のうちに死んだものが「祟り」を恐れられて「神」として祭られているのをさまざまの地方で観察することができます。こうした「神化」の思想と「成仏」の思想がうまく符号したわけです。
以上のように、仏教は日本の風土の中にうまく溶け込んで、独特の「日本仏教」として発展していったのではないかと考えられるわけです。
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