2022/03/29

ヴァンダル王国 ~ 民族移動時代(15)

グンデリクの兄弟ゲイセリック(ガイセリック)は、艦隊の建造を始めた。38歳のゲイセリックが王になった後の429年、ジブラルタル海峡を渡り、アフリカ沿岸をカルタゴに向かって東方に移動しはじめた。

 

435年に、ローマ帝国は北アフリカのいくつかの領土を彼らに与えたが、439年、ヴァンダル人は自らカルタゴを占領した。ゲイセリックは、ここにヴァンダル人とアラン人(一部のサルマタイ人)からなるヴァンダル王国を建国した。この王国は地中海における一大勢力となり、シチリア島、サルデニア島、コルシカ島、バレアレス諸島を征服している。

 

455年にはローマを占領し、468年には彼らを征服するために派遣されたバシリスクス率いる東ローマ帝国艦隊を壊滅させた。477年、ゲイセリックが死去すると、その息子フネリックが王となった。彼の治世には、ミトラ教とカトリック教会への迫害があったことで有名である。フネリックの次の王グンタムント(484-496年)は、カトリックへの迫害を止め、平和的な関係を実現しようとした。

 

ヴァンダル王国の衰退

ゲイセリックの死によって、ヴァンダル王国の対外的な力は衰え出した。グンタムント王は、東ゴート族によってシチリア島の大半を失い、また増大するムーア人の侵入に押されている状況にあった。ヒルデリック王(在位523-530年)は、先のローマ占領の際に連れてこられた西ローマ帝国の皇女の血を引いていたため最もカトリック教寄りの王であったが、戦争にはほとんど興味がなく、身内のホアメル(英: Hoamer)に任せていた。ホアメルがムーア人との戦争に敗北すると、王家の一部が反乱を起こし、ゲリメル(在位530-533年)が王位に就いた。ヒルデリックやホアメルらは牢獄に入れられた。

 

ヴァンダル王国の滅亡

かねてよりローマ帝国の復興を企図していた東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世は、西ローマ帝国の血を引くヒルデリック王が倒されたことを口実にヴァンダル王国に対する戦争を開始し、サーサーン朝ペルシャとの戦いで活躍したベリサリウス将軍を派遣した。ヴァンダル王国の艦隊のほとんどがサルデニア島の反乱の鎮圧に赴いていることを知ったベリサリウス将軍は、 迅速に移動してチュニジアに上陸し、カルタゴに入城した。

 

533年晩夏、ゲリメル王はカルタゴの南10マイルの所でベリサリウス将軍と戦った。(アド・デキムムの戦い)。ヴァンダル王国軍は敵を包囲しようとしたが、各隊の連携が取れずに失敗し、敗れた。ベリサリウスは、残党と戦う一方で、すばやくカルタゴを占領した。5331215日、カルタゴから20マイルほどのトリカマルムで再び両軍は会戦した(トリカマルムの戦い)。そしてまたもやヴァンダル軍は敗れ、戦闘の最中にゲリメルの兄弟ツァツォが捕らえられてしまった。ベリサリウスはすぐさま、ヴァンダル王国第二の都市ヒッポに軍を進めた。534年、ゲリメルは降伏し、ヴァンダル王国は滅亡した。

 

宗教問題

ヴァンダル人のアリウス主義とカトリック主義やドナティストたちの混在は、アフリカ国内における絶えざる火種となっていた。ヒルデリックを除くほとんどのヴァンダル王は、程度の差はあれ、カトリック教徒を迫害した。フネリックの治世の最後の数ヶ月は例外として、カトリック教徒は滅多に公に禁止されることはなかったが、ヴァンダル人へ布教することは許されず、その聖職者たちの扱いも良いものではなかった。

 

ヴァンダル人達のその後

Question book-4.svg      

この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。

中世より、ヴァンダル人はポーランド人とチェコ人をはじめとした西スラヴ人の主要な先祖を構成しているのではないかという通念がある(プロト西スラヴ人)。

 

実際に、一部のヴァンダル人は東ドイツや、レグニツァやグウォグフなどのあるシレジアにかけての地域に戻っている。この移動は、のちのヴァンダロルム国(regionem Wandalorum)とともに記録に残されており、そこで7世紀にはフランク王国のピピン1世がヴァンダル人と出会っている。これはヴァンダル王国が滅亡してから、たった1世紀後のことである。

 

8世紀にカール大帝が自らポラーブ人(西スラヴ系の部族)を平定した時、彼らを「ヴァンダル人」と呼んでいる。990年ごろのフランクの歴史家であるアウクスブルクのゲルハルトは、その著書の中でポーランド公ミェシュコ1世をヴァンダロルム国の公と呼んでいる。1056年の歴史書Annales Augustaniでは、ザクセン人が隣接するスラヴ部族との戦争(ポーランドのボレスワフ1世とのドイツ・ポーランド戦争)で大敗北したことについて「ザクセン人は、ヴァンダル人に討たれた。」と書かれている。

 

11世紀の歴史家であるブレーメンのアダムは

 

「ゲルマニアのうちで、最も広大な地方であるスラーヴィアにはヴィンニル人が住んでいるが、彼らは正式にはヴァンダル人と呼ばれる。スラーヴィアはザクセンよりも広く、ボヘミア族(チェコ人)とポラン族(ポーランド人)が住んでいる。このボヘミア族とポラン族の習俗や言語は互いにまったく同じである。」

 

と書いている。

 

12世紀のクラクフ(ポーランド)の歴史家ヴィンツェンティ・カドゥウベックは

 

「ポーランドの人々は、昔はヴァンダル人と呼ばれた。これはヴィスワ川の古名であるヴァンドゥルス川(ポーランド語: Vandalus)から来ているが、このヴァンドゥルスという川の名は、その昔ここに身を投げて亡くなったポーランドの古い部族の姫の名ヴァンダに由来する。」

 

と述べている。12世紀のイギリスの歴史家であるティルバリーのジャーヴァジーは、「ポーランド人は、ヴァンダル人と呼ばれている。」と書いている。

 

ドイツからポーランドにかけてのこの地域は、今でもドイツではヴァンダロルムと呼ばれている。ポーランドとチェコの古い伝説では、ヴァンダル人と推測されるレフ(ポーランド人の古名レフ族)とチェフ(チェコ族)という双子の兄弟がおり、レフはシレジアから北方へ向かってヴィエルコポルスカ地方に定住し、チェフは南方へ向かってボヘミア地方に定住したとされる。

 

近世には、ロシアの国家起源にヴァンダル人を結びつける主張もでてきた(ヴァンダル=ヴァリャーグ説)。16世紀の神聖ローマ帝国の大使ジギスムント・フォン・ヘルベルシュタインは、その著作で、

 

「ヴァンダル人はルーシの言葉を使い、ルーシの宗教を持っていた」と記し、「ロシア人はヴァグリヤの地から言葉も習俗も宗教も違っていた異民族のヴァンダル人、つまりヴァリャーグを呼び寄せ、権力を委ねたのだと私は考える」

 

と自説を述べている。

 

ヘルベルシュタインの記述から、ロシアの学者の中には、ヴァリャーグはノルマン人ではなくスラヴ化したヴァンダル人、即ちヴェンド人であると唱える者がいる。

 

先のポーランドとチェコに伝わるレフとチェフの兄弟伝説は、近世になるとレフ・チェフ・ルス三兄弟の伝説として書き換えられ、レフはシレジアから北方へ向かってヴィエルコポルスカ地方に定住し、チェフは南方へ向かってボヘミア地方定住し、そしてルスはるか東方へ向かって行ってルーシ地方、すなわちロシアに定住したとされた[要出典]

 

東ゴート族のテオドリック大王と西ゴート族の指導者は、ヴァンダル人やブルグント人、クローヴィス1世を王とするフランク王国との政略結婚によって同盟関係を結び、生き残りを計った。

 

後年、スウェーデンの伝承では、北アフリカに達したヴァンダル人と、アジア、ヨーロッパを席巻したゴート族が、スウェーデン人(スヴェーア人)の先祖であると言うゴート起源説(古ゴート主義)が生まれた。他にも21世紀初頭に断絶したメクレンブルク家は祖先をヴァンダル人の王とし、13世紀までに「ヴァンダル人の王」と名乗っていた。

出典 Wikipedia

0 件のコメント:

コメントを投稿