出典http://ozawa-katsuhiko.work/
阿弥陀信仰
日本に阿弥陀信仰が伝わったのは、およそ七世紀の始め頃と考えられていますので、仏教伝来(公伝では538年)から100年くらい経ってからのようです。初期の頃は、阿弥陀の性格が極楽往生にあったため、終末において人類を救うとされた弥勒の信仰と混在して「追善(使者の弔い)」的な性格が強かったようでした。
それが奈良時代後期になって「(死者ばかりではなく)生者である自分の」極楽への往生の願いが表面化し、平安期には「西方浄土」「極楽往生」が日本人の心に深く根ざしたようです。
この阿弥陀信仰の特色は「阿弥陀の本願」(阿弥陀仏がまだ修行中の宝蔵菩薩であった時の誓願で、自分に帰依する者は例外なく極楽浄土にすくい取ることができないうちは仏とはならないという誓願で、現在この菩薩は阿弥陀仏となっているのでこの誓願は絶対に成就するとされる)に対する絶対的な信仰と「極楽に生まれ変わろう」とする「極楽往生」の信仰にあります。この「極楽往生」は、あらゆる階層の人間にとって望まれることでしたから、この信仰は非常に強いものとなりました。したがって、この阿弥陀を本尊とする寺院は、日本のすべての寺院の半数に達するとも言われています。
観音信仰
観音像は飛鳥時代に遡って存在するとされますが、八世紀の奈良時代になってその像が急増してきます。観音像の原型は「聖観音」と呼ばれますが、この観音の特徴はさまざまの形に身を変えて現出してくることで、有名なところでは「千手観音」「十一面観音」「馬頭観音」などがあります。
初期の観音信仰は「反乱に対する鎮圧や災いを逃れて平安を得る」といった現実的な願いに応じたもので、こうした衆生の願いに応える様々の力の具現化が観音のさまざまの姿の現れとなるのであり、それは「33の姿」として描かれてきます。
たとえば「千手観音」は衆生をすくい取る「無数の手」を表しており、「十一面観音」はその「11の面」ですべてを見回して、疫病の癒しや守りをし、馬頭観音は馬が草を食い尽くすがごとくに「人の煩悩」を食い尽くすというものでした。
しかし10世紀頃からの社会の乱れに応じて、来世信仰の性格を持つようになり、「六観音」信仰といったものが生じてきます。これは「六道輪廻」の世界に対応したもので、この六道の輪廻の世界からの救済を念じたものでした。
この観音信仰の特色は、観音像を本尊とする寺院への「参拝」が盛んとなったことで、すでに10世紀には石山、清水、鞍馬、長谷、壺坂などの観音寺院への参拝が盛んになり、後には霊場を結んだ「巡礼」へと発展していきます。
いわゆる「33所巡礼」で、初期の頃は聖たちによる「修験道」的色彩の強いものであったものが15世紀頃から一般の人々にも流行するようになりました。始めは「西国33カ所巡礼」でしたが鎌倉期の13世紀に「板東33カ所巡礼」が、15世紀には「秩父33カ所巡礼」ができてきます。さらに16世紀に「秩父巡礼」が34になったところで全部合わせた「100カ所巡礼」ができあがっていきます。
この巡礼は江戸期に入って爆発的に増え、全国各地に「33カ所巡礼」が作られていき、その総数100カ所にもなるとされます。これには一般庶民の「観光旅行」的色彩も見られ、あるいは成人になる通過儀礼的なものともされたり、さまざまの意味合いをもたされつつ庶民に一般的なものとなったのでした。
弥勒信仰
早くも六世紀に日本に伝来していますが、弥勒は「釈迦の滅後56億7000万年の後、人間界に現れてこれまでの仏による救いから漏れていた人々を救う菩薩」と信じられ、いってみれば「未来仏」として「究極の救済者」と見なせます。
この日本に於ける信仰は、真言宗において高野山が未来の弥勒浄土であるとしたところから広まったようで、真言宗が民間信仰と結びつく性格をもっていたところから、この弥勒信仰も民間に流布したと見られています。宗教学的に言えば「メシア(救済者)願望」の一形態であり、ユートピア思想ともなって「未来の幸いの国」願望であったと言えます。この時、56億とかの数字はほとんど意味がなく、ただ現在の「悲惨な世界の末に」といったような理解になっていると言えます。
地蔵信仰
地蔵の像は奈良時代から平安時代に入っても阿弥陀、観音、弥勒などの像に比べると圧倒的に少なく、これは初期仏教が現世利益を中心にしていたため、輪廻世界の来世への恐怖などといったものが意識されていなかったためと考えられています。それが10世紀も末になって、源信の『往生要集』が出たあたりになって、「地獄にあって衆生の救済に働く地蔵」の徳が知られるようになり浄土教の台頭とも重なって救済の仏としてのあり方が注目されるようになりました。
そして11世紀に入って、地蔵にまつわる説話集が書かれるようになり『今昔物語』などに採録されるようになって一般化していったようです。とくに浄土教に救いを求めるような「みずからの至らなさ」を意識した一般庶民においては「下手すれば地獄行き」の意識も強く、そうした人々において「地獄にあって人々の苦しみを肩代わりしてくれる」ものとしての地蔵信仰が発達していきました。そうした意味で、この地蔵信仰は下層階級から発達したと言えます。
一方、鎌倉時代に入ると浄土教は勢力を拡大し、そこで「阿弥陀だけへの信仰」が強調されて「地蔵」への傾きにブレーキがかけられていきましたが、阿弥陀にない「苦の肩代わり」の地蔵の役割は消されることがなく、浄土に住まず六道輪廻の衆生の世界にあって、慈悲の心で人々の罪を代わり受ける地蔵は「身代わり地蔵」の信仰となって生き続けたのでした。
こうして室町くらいになると、地蔵はこの俗世にあって信者の危難や病気、苦しい作業の肩代わりをしてくれるものとして、たとえば「泥つき地蔵」など田植えの苦労を減じてくれたり、さらに武士階級にまで広がって戦場での身代わり、たとえば「矢取り地蔵」などというものまで信仰対象となり、足利尊氏がこの地蔵の信仰に熱心となり武士階級に広まっていきました。
さらに14世紀頃から民衆の間での信仰は拡大して「六地蔵(輪廻の世界である六道すべてにおいて衆生を守るという信仰)」が発展して道の辻々に建てられたりしていき、「道祖神と習合」していきます。また死んだ子どもを賽の河原で鬼から守る守護霊としても信仰され、江戸期には「延命地蔵」「子安地蔵」など多くの地蔵崇拝が確立していき、はては「とげ抜き地蔵」やら「瘡地蔵」などの厄介をも守護する庶民に親しみある信仰となっていきました。
以上でざっと日本での仏教の特徴をみてきたわけですが、仏教というものの持っている性格がさまざまに展開していることが理解されたかと思います。ある意味で日本は仏教の展開の極点までいっているような気がします。
ただ、今日仏教の力が一般庶民にどれだけの影響力をもっているかとなると、かなり首をかしげなければならない状況にあるようです。今後、日本がどういう道をたどることになるのか、あるいはたどるべきなのか、こうした仏教の在り方、また「神道」の在り方などをみることによっても、一つの考えかたが生まれてくるような気がします。
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