2022/04/28

北魏(2)

明元帝の時代

道武帝の死後、長男の拓跋嗣は拓跋紹を殺害して即位し、明元帝となった。明元帝は高車や柔然に攻撃をかけ、さらに北燕・南燕・後秦・夏と対立した。しかしこの頃、江南の東晋では劉裕が政権を掌握して強大な軍事力を有するようになっており、410年に南燕が、417年に後秦がいずれも劉裕により滅ぼされたため、次第に北魏は東晋、いわゆる江南との対立が鮮明になった。

 

明元帝自身はあまり積極的な勢力拡大を行なわなかったが、使節が2度にわたって捕縛された北燕とは416年から交戦し、また夏とも西秦と連携して戦っている。42311月に明元帝は死去した。

 

太武帝による華北統一

明元帝の死後、長男の拓跋燾が即位し、太武帝となった。この頃になると、華北で北魏と軍事的に対抗できたのは夏だけだったため、太武帝は高句麗や宋と頻繁な外交を展開した。夏は4258月に始祖の赫連勃勃が死去すると急速に衰退し、42610月に太武帝は親征して夏の首都統万城を陥落させた。赫連勃勃の跡を継いだ子の赫連昌は、4282月に上邽に逃れるが北魏に捕らえられ、弟の赫連定が平涼で即位したが、43011月に北魏に追われてやはり上邽に逃れた。そして4316月、赫連定は吐谷渾に捕縛され、北魏の首都平城に連行されて処刑されて滅亡した。

 

夏の滅亡により、残るは後仇池・北燕・北涼だけとなる。しかし、これらは南朝の宋と連携してようやく北魏と対抗できるにすぎない小国であり、4364月に内紛で弱体化していた北燕を滅ぼした。北涼は早くから北魏に従属し、婚姻関係を結ぶことなどを通じて密接な関係を維持していたが、4399月に太武帝自らの親征で北涼を滅ぼした。これが北魏による華北の統一といわれているが、実際にはまだ後仇池が残存していた。その後、仇池も442年に北魏により滅ぼされ、ここに北魏は前趙の成立から約150年にわたって続いた華北の分裂を収拾して、統一政権を樹立した。

 

南北朝時代

これ以後、中国は南北朝時代に入る。北魏はそれまでの部族制を解体し、貴族制に基づく中国的王朝に改編していった。北魏の華北統一により、移民は440年代を境に減少し(440年代は2万人とかなり減少していた)、北方異民族からの移民も450年代を境にしてほとんど見られなくなり、華北社会は安定した。

 

このころ道士寇謙之が道教教団を確立し、漢人官僚の崔浩と結んで太武帝に進言し、廃仏が断行された。これが、三武一宗の法難の最初のものである。崔浩は南朝をモデルにした貴族社会の創設を性急に推進し、さらに鮮卑と漢族の融合を目指して漢化政策を推し進めたが、国史編纂において鮮卑族を怒らせた結果、450年に誅殺された(国史の獄)。

 

6代皇帝の孝文帝の時代、馮太后の聴政の下で儒教的礼制を採用し、均田制を施行し、三長制を確立した。馮太后の死後、親政を開始した孝文帝は、さらに急激な漢化政策を進めた。孝文帝の漢化政策は、鮮卑の服装や言語の使用禁止、漢族風一字姓の採用など、いずれも鮮卑と漢人の融合政策だったが、鮮卑人の国粋的反発と反動を呼び起こし、のちの六鎮の乱の伏線となった。493年、都を平城から洛陽に遷した。

 

分裂と北魏の消滅

その後の北魏は、六鎮の乱を経て軍人の力が強くなる。建国から約150年後の永熙年間に、高歓と宇文泰により別々の皇帝が擁立されて東魏と西魏に分裂し、高氏の北斉と宇文氏の北周がそれぞれに取って代わることで滅んだ。

 

美術

雲崗石窟

3代太武帝による廃仏ののち、歴代の皇帝は仏教を篤く信奉し、5世紀末から6世紀初めには雲崗や龍門といった巨大な石窟寺院が開かれ、唐代と並ぶ中国仏教の最盛期を迎えた。第4代文成帝が僧官曇曜(どんよう)の建言によって平城近郊の岩場に建立した、いわゆる「曇曜五窟」(雲崗石窟の第16-20窟)では、肉体や衣服の表現にガンダーラ美術・グプタといったインド仏教美術の影響が色濃く残っている。

 

石窟寺院では、洞窟の内部に仏像や仏塔を彫り、周囲を壁画やレリーフで装飾する伽藍形式が広く隆盛し、仏教文化は中国に広く浸潤していくこととなった。

 

6代孝文帝は洛陽に遷都すると急速な漢化政策を推し進め、洛陽郊外に龍門石窟を造営した。龍門石窟には北魏代のものと唐代のものが存在するが、北魏代の伽藍である賓陽中洞では漢風の伝統が重んじられ、細く切れ長の目やなで肩、首のたるみなどといった象徴主義的な表現が見られるようになる。写実性を排した中国風の仏像はここに完成を見、広く東アジア諸国に伝播していった。日本では、この様式を特に「北魏様式」という。

 

日本との関わり

北魏と日本文化との間には、数多くの関連があることが指摘されている。

 

ü  福岡県(筑紫国)の霊泉寺(英彦山)は、531年(継体天皇25年)に北魏の善正上人が創始したものである。

 

ü  法隆寺の仏像など、日本に残存する諸仏像は多く北魏様式である。(伊東忠太の説)

 

ü  日本の源氏という氏族のおこりは、北魏の太武帝が同族に源氏を名乗らせたことに影響されたものではないか。(杉山正明の説)

 

ü  北魏の国家体制は、日本古代の朝廷の模範とされた。このため、北魏の年号・皇帝諡号・制度と日本の年号・皇帝諡号・制度には、多く共通したものが見られる。平城京・聖武天皇・嵯峨天皇・天平・神亀など、枚挙に暇がない(福永光司の説)。

出典 Wikipedia

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