2022/04/18

北魏(1)

北魏(拼音: Běi Wèi386 - 534年)は、中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国。前秦崩壊後に独立し華北を統一して、五胡十六国時代を終焉させた。

 

国号は魏だが、戦国時代の魏や三国時代の魏などと区別するため、通常はこの拓跋氏の魏を北魏と呼んでいる。また三国時代の魏は曹氏が建てたことからこれを曹魏と呼ぶのに対して、拓跋氏の魏はその漢風姓である元氏からとって元魏(げんぎ)と呼ぶこともある(広義には、東魏と西魏もこれに含まれる)。さらに国号の由来から、曹魏のことを前魏、元魏のことを後魏(こうぎ)と呼ぶこともある。

 

建国期

鮮卑の拓跋部では、三国時代の261年、拓跋力微が曹魏に対して朝貢を行っているが、このことが後に国号を魏に定める由来となった。拓跋部は、その後五胡十六国時代に代を建てた。代は860余年続いたが、37612月に拓跋什翼犍の時に前秦の苻堅に滅ぼされた。この際、拓跋什翼犍の孫(『宋書』では子)の拓跋珪は母と共に母の出身部の賀蘭部に逃れ、さらに前秦支配下で代国東部を統治していた独孤部の劉庫仁の下に身を寄せた。

 

その前秦が、38310月の淝水の戦いで東晋に大敗を喫して弱体化する。38410月に劉庫仁が死去すると後継者争いが起こり、拓跋珪はまた賀蘭部に逃れたが、前秦崩壊による諸民族自立の波は北方にも波及し、3861月に賀蘭部の推戴を受けて牛川(現在の内モンゴル自治区ウランチャブ市チャハル右翼後旗)で代王に即位して登国と建元し、4月には魏王と改称した。これが北魏の建国である。しかし建国当初の北魏の支配圏は盛楽(現在の内モンゴル自治区フフホト市ホリンゴル県)を中心とした限定的な地域だけで、かつての代よりその勢力は弱小な小国に過ぎなかった。

 

道武帝の勢力拡大

北魏は当初、後燕と同盟を結び連携して3877月に劉庫仁の後継者劉顕を破り、39112月には代の旧領西部を統治していた劉衛辰を滅ぼし、さらに前後して柔然や高車などにも攻勢に出て、オルドスからモンゴルに至る地域の大半を支配下に置いた。しかし、このような急速な勢力拡大は後燕と衝突する事になり、北魏が後燕と対立していた西燕と同盟を結んで敵対した。西燕が3948月に後燕により滅ぼされると、3955月に後燕皇帝慕容垂は皇太子慕容宝に10万の軍を預けて北魏を攻撃させ、対する北魏はオルドスまで後退して対峙し、11月に現在の山西省陽高県の参合陂の戦いで後燕軍を壊滅させて、後燕との力関係を逆転させた。

 

3963月に慕容垂の反攻を受けて平城を失い敗退するが、4月に慕容垂が急病により陣没し、慕容宝が跡を継ぐと後燕は皇族の内紛などで急速に弱体化したため、6月に北魏は広寧(現在の河北省涿鹿県)・上谷(現在の河北省懐来県)を奪取し、9月には并州(現在の山西省)を平定した。

 

東方においては、後燕の本拠地ともいえる冀州に侵攻して常山(現在の河北省石家荘市)を奪い、後燕の首都中山(現在の河北省定州市)や信都(現在の河北省衡水市冀州区)・鄴(現在の河南省臨漳県)を除く地域も制圧した。信都は3971月に陥落させ、中山は後燕の内紛で慕容宝の弟慕容麟が自立していたのを奪って、鄴も3981月に平定して、後燕から黄河以北の地をほぼ奪って中原の支配者となった。2月に後燕より中山を攻撃されるが撃退した。

 

こうした勢力拡大を背景にして、拓跋珪は7月に平城(現在の山西省大同市平城区)に遷都し、12月に皇帝として即位し道武帝となった。道武帝は慕容垂時代の後燕における漢人知識人の名臣を用いて国家体制や支配制度の整備に尽力し、これまでの五胡王朝が中原を支配すると、そちらに遷都した例を破棄して平城にこだわったのはここを中心とした牧畜地帯に基盤を置いて、中原の農耕地帯を支配する体制を取るためで、道武帝の時代に北魏の基礎は確立された。

 

その後、北魏は後燕や分裂して成立した南燕に圧力をかけ、後燕滅亡後に成立した北燕に対しても圧力をかけた。また当時、北魏と同様に勢力を拡大していた後秦とも衝突し、4025月に後秦軍により平陽が攻撃されたので、北魏は道武帝が親征して柴壁の戦いで後秦軍を撃破した。しかし当時の北魏には後秦を滅ぼすまでの力は無く、407年に和睦した。

 

道武帝はこうして勢力を大幅に拡大したが、40910月に次男の拓跋紹に殺害された。

出典 Wikipedia

0 件のコメント:

コメントを投稿