2022/04/05

真言宗、浄土宗、浄土真宗 ~ 日本の仏教宗派と信仰形態(2)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/


真言宗

 最澄の天台宗と並ぶ日本仏教の礎石の一つで「空海」によって築かれました。この派は最澄が「総合的仏教」を志したのに反し、ここは「密教一筋」です。彼は最澄と同じく中国に渡り、恵果について密教を学びました。そして持ち帰った経典を朝廷に献上し、「嵯峨天皇の強い支援」を得るのに成功して、ここに真言宗は大きな勢力となる基盤を得られます。

 

 この空海の真言宗が朝廷に気に入られたのは、もちろんこれまでの奈良仏教が強大になり過ぎて朝廷の手に負えなくなり、新しい仏教にそれと対抗させようとした理由も確実ですが(それは最澄にも期待されていました)、特に真言宗の場合にはその呪術的性格が朝廷の「護国・鎮守の願い」と合致したからだと考えられます。

 

 ただし、もちろん仏教教理的には本来の仏教の目的としての「大日如来」と合一することが求められたものですが、その性格に民間信仰が加わっていたために「悪霊退散」的な呪術的性格があって、これが朝廷に気に入られたのです。

 

 ところで、これが「密教」と呼ばれるのは、釈迦以来の教えは「人間にわかる言葉に顕れて」はいるが、言ってみれば影のようなもので「真実は秘されている」とするからです。その「秘されている」教えを得て仏になるというわけなので「密教」と言われてくるわけです(これまでの教えは「顕れ」ている、というところから「顕教」と呼びました)

 

 しかし、その真実は大日如来によって常に語られてはいるとします。ただ人間の身では「煩悩」のためにこれを聞くことができないので、修行してこれを聞けるようになるのが目的だ、とされてくるわけでした。

 

 そしてこの場面で、あたかも太陽が池に映っているように、大日如来(太陽)は我が身(池)にあり、池の水が太陽を映すように、我が身(我)は太陽(大日如来)を映している、とします。これを「梵我一如」といいますが、この状態を「加持」と言っています。これには「身体、口、意」の三つ(これを「三密」といいます)のすべてがそうなっていなければならないので「三密加持」と言います。つまり、その身体においては「印契」を結び、口には「ダラニ」を、そして意において「瞑想」するわけですが、その瞑想が「曼陀羅の世界」であったり、あるいは「阿字観」と呼ばれる世界の始めを瞑想することでした。こうして人間でありながら成仏できるとする「即身成仏」の考えが示されてきます。かなり神秘的な教えで、これがまた人気の一つでもありました。

 

 一方、この派の中には一般民衆の中に入って「呪い」などをする傍ら、庶民の相談相手になったり、土木工事をしたり医療をしたりする「聖(ひじり)」も多くでて「高野聖」と呼ばれて親しまれました。この「聖」たちの仕事が全部「空海」の仕事にされてしまい、そのため空海は日本全国に名前を残すことになったのですが、事実は名もない地位もない「民衆の中にいた僧」たちの仕事だったのです。空海はじめ真言宗の長老たちは天皇の傍らにあり「護国・鎮守」の勤めを果たしており、それは今日でも変わりません。

 

 こうした「政治・経済権力との結合(教団組織)」と「教理への従順(修行者)」そして「一般民衆の立場へ(「聖」など民衆の中の僧)」という「三極分裂」はキリスト教やイスラームにも厳然として観察される「社会宗教」に普遍的にみられる現象であり真言宗だけの問題ではなく、また他の仏教宗派にも確実にある現象ですが、とりわけこの真言宗はそれが極端に現れているとも言えます。

 

 真言宗の本山は「高野山の金剛峰寺と東寺」になります。なお、この真言宗は別の宗派を生み出すことはしませんでしたが、数えきれないほどの分派を持っています。

 

浄土宗

 天台宗に学んでいた「法然」によっておこされたものですが、この時代、平安から鎌倉にかけて、世の中が多いに乱れ、いわゆる「末法思想」が蔓延していました。法然はこれを憂い、万民のための仏教を企図して行きます。こうして「ただ阿弥陀仏の名前を唱えるだけで成仏できる」とする「専修念仏」の道を示していきました。

 

 これを、これまでの修行によるものを「難行道」と呼ぶのに対して、「易行道」と呼んでいます。あるいは、前者は「自力門」とも「聖道門」とも呼ばれ、後者は「他力門」、「浄土門」とも呼ばれます。

 

 法然が、こうした道へと赴いたいきさつについては、当時の天台宗が権力争いに終始していたのに絶望して山をおり、43歳の時、中国の善導の著作に

 

「一心に専ら阿弥陀の名前を唱えて心に念じ、生活の全てをここにかけるのが正しい在り方である、なぜならそれが阿弥陀仏の願いにかなうことだから」

 

とあったのに惹かれたからだと言われています。

 

 阿弥陀仏はまだ修行中の身で「法蔵菩薩」であった時に48の誓願を立て、その中の18願に「自分に帰依すると誓った者は例外なく仏の国に救い取れる」とあり、そして宝蔵菩薩は長い修行の末に晴れて「阿弥陀仏」となったので、この誓願はすべて成就しているとされるのです。つまり18願通り「南無阿弥陀仏と唱えた者は例外なく阿弥陀の国である極楽浄土にすくい取られる」ことが約束されているとされるのです。 したがって彼は阿弥陀仏だけに帰依し、そのお経のみを拠り所としましたが、それが「無量寿経」と「観無量寿経」、「阿弥陀経」のいわゆる「浄土三部経」と呼ばれているものです。

 

 なお、浄土というのは「仏の国」の総称となりますが、「阿弥陀仏の仏国」は「極楽浄土」と呼ばれます。仏の国は無数にあり、浄土はそのうちの一つです。有名なところでは「薬師如来」の「浄瑠璃浄土」などがあります。浄土宗の総本山は京都の知恩院です。

 

浄土真宗

 「親鸞」によって始められたものですが、彼も天台宗に学んでおり、29歳の時山を降りて法然の弟子となりました。彼は「法然に騙されて地獄に落ちたとしても構わない」と言っている位ですから、その教えの根幹は浄土宗と変わりません。要するに、それをさらに一歩推し進めたものと言ってよく、彼は往生のきっかけは「念仏を唱えた時」にあるのではなく、「阿弥陀を信じたその時にある」としました。つまり彼にとっては「行」よりも「絶対帰依」という「信」の方に重きがあるのです。

 

 また彼は「僧席」にあるもののみが成仏できるとした従来の教えを拒否して、いわば在野に降りて、「半分僧侶、半分俗人」として一般庶民の仏教を志しましたので、僧席にあるものには禁止されていた「肉食」、「妻帯」まであえておこなって行きます。これ以降、僧侶の妻帯が見られるようになってしまったのですが、親鸞のように己の全存在をかけた哲学的思索の末にたどり着いた結論として在野にあることを信条とした者ならともかく、通常の僧侶が妻帯するのは本来では決して許されることではないのですが、どういうわけか今日では普通になってしまいました。

 

 また親鸞というと必ず紹介されるのが「悪人正機」というものですが、これは「欲望・煩悩のうちにあって苦しんでいる者(悪人)こそが、それを悟らず自らを正しいとしている者(善人)より阿弥陀の救済にあずかり得る」という「人間洞察」の哲学なのであって、「悪いことばかりしている犯罪的な人間の方が救済される」と言っているわけではありません。むしろ、日々の生活の中で煩悩によって罪を犯さざるを得ない人間の在り方を認知していなければならないということなのです。むろんこれは、いわゆる善行などを積んで「自分こそは善人であり、まずもって救済の対象となるだろう」という「おごり」を諫めたものとも言えます。

 

 さらに彼の思想には「浄土に行きっ放し」になるのではなく、往生した者は「再び戻って」衆生の救済にあたらねばならない、という「還の道」が説かれ、相当に独特な哲学があることも特筆されるでしょう。有名な『嘆異抄』は弟子の唯円の筆になるものですが、親鸞の思想を鋭く要約して示してくれている名著の一つです。

 

 しかし、この浄土真宗も親鸞の心とは大きく離反し、互いに分派活動を繰り返し、権力争いに明け暮れるようになってしまいました。京都の「東本願寺(大谷派)」と「西本願寺(本願寺派)」が有名ですが、他に八派あり合計十派となりますが(俗に真宗十派と呼びます)、さらに細分化されています。

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