ウイグルにおいては、8世紀後半の3代牟羽可汗の統治時代に、マニ教が国教とされるほどの隆盛と国家的保護を得た。やがて反マニ教勢力の巻き返しによって弾圧を受けたが、8世紀末から9世紀初頭にかけての7代懐信可汗によって、再び国教化された。イラン・アフガニスタンのイスラーム化の後、ウイグルでもイスラームへの改宗が進み、14世紀後半のティムールによるティムール朝建国以降は中央アジアのイスラーム化はさらに進行していった。
三武一宗の法難(会昌の廃仏)の弾圧ののち、中国本土ではマニ教は五代十国時代から、宋において仏教や道教の一派として流布し続けた。歴史小説『水滸伝』の舞台となった北宋の「方臘の乱」の首謀者方臘はマニ教徒であったとも言われている。マニ教は、弾圧のなかで呪術的要素を強めていったために、取り締まりに手を焼く権力者からは「魔教」とまで称された。官憲によるマニ教取り締まりは、しばしば江南地方や四川でなされており、その中でマニ教信者は「喫菜事魔の輩」(「菜食で魔に仕える輩」の意)とも呼ばれている。
宗教に寛容な元朝においては明教すなわちマニ教が復興し、福建省の泉州と浙江省の温州を中心に信者を広げていった。明教と弥勒信仰が習合した白蓮教は、元末に紅巾の乱を起こし、その指導者の一人であった朱元璋の建てた明の国号は「明教」に由来したものだと言われている。しかし明王朝による中国支配が安定期に入ると、マニ教は危険視されて厳しく弾圧された。15世紀において既に教勢の衰退著しく、ほとんど消滅したとされてきたが、秘密結社を通じて19世紀末まで受け継がれた。1900年の北清事変(義和団の乱)の契機となった、排外主義的な拳闘集団である義和団なども、そうした秘密結社の一つと言われる。
なお、藤原道長『御堂関白記』など、日本の古代・中世における日記の具注暦に日曜日を「密」と記すのは、マニ教信者が日曜日を聖なる日として断食日にあてた暦法が、日本にまで至ったことの証左であると言われる。
史跡
福建省の晋江市には元代(1339年)に建立された草庵摩尼教寺が現存し、中国政府により国家重要文化財(「全国重点文物」)に指定されている。同寺では、「家内安全」「商売繁盛」の札が売られ、旧暦4月16日には摩尼光仏(マニ)の聖誕祭が行われている。マニ教本来の信仰から逸脱した面もあるが、マニへの供え物に肉を用意しない、原人が変形した「明使」の存在など、かろうじてマニ教の原形を留めていると言われる。
研究史
20世紀にいたるまで、マニおよびマニ教に関する信頼できる情報は少なかった。前近代における利用可能な資料としては、反マニ教の立場に立つ4世紀のヘゲモニウスの Acta Archelai にみられるマニ批判、8世紀のネストリウス派キリスト教徒、テオドーロス・バル・コーナイの Scholia におけるマニ教の宇宙論に関する解説、10世紀バグダードの書籍商、イブヌン・ナディームの『フィフリスト』におけるマニの生涯とその教説に関する解説などがあった。
20世紀に入り、1904年から1905年にかけて中国北西部のトルファン(現新疆ウイグル自治区)で、アルベルト・グリュンヴェーデル率いるドイツの探検隊によりマニ教寺院及び写本や壁画などの関連資料が多数発見され、研究が進んだ。トルファンでは、イラン方言により編集されたマニ教文献が発見され、高昌ではフレスコ画によるマニの肖像壁画も残っている。1906年以降は上述のポール・ペリオがトルキスタンを訪れ、マニ教文献含む数多くの文献をフランスにもたらした。
1931年には、エジプトのリコポリスでコプト語で書かれたマニ教の蔵書がパピルスの状態で見つかった。この蔵書の中には、特にマニ教理解に不可欠な『ケファライア』の一部が含まれている。これはマニの生涯について説明し、その教義の要約を記したものである。
1969年、上エジプトにおいて西暦400年頃に属する羊皮紙に、古代ギリシア語で書かれた写本が発見された。それは現在、ドイツのケルン大学(ノルトライン=ヴェストファーレン州ケルン市)に保管されているため「ケルンのマニ写本」と呼ばれている。この写本は、マニの経歴およびその思想の発展とを共に叙述する聖人伝となっており、マニの宗教の教義に関する情報と、彼自身の書いた著作の断片とを含んでいる。
現在では各国の研究者が国際マニ教学会を結成し、共同研究や情報交換がおこなわれている。
出典 Wikipedia
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