広がりと後世への影響
マニ教の拡大
マニの死後、バビロニアに避難した弟子のシシン(スィスィン)は教団の指揮をとり、以後、マニ教団はシリアやパレスティナ、エジプト、ローマ帝国などへの伝道に力を入れ、多くの信者を獲得した。上述のように、マニ教の典礼ではマニの受難を「ベーマ」(ベマ)と呼び、祭礼の日となっている。
マニ教は、その成立においてパルティアからサーサーン朝にかけてのギリシア・ローマ、イラン、およびインドの諸文化の接触と交流の一産物と見なすことができる。そして、その教えは西はメソポタミアやシリア、パレスティナ、小アジア半島、エジプト、北アフリカ、さらにイベリア半島、イタリア半島にまで、東は中央アジア、インド、中国の各地に広がった。マニ教は4世紀には西方で隆盛したが、6世紀以降は東方へも広がって、漢字では「摩尼教」と音写された。唐の時代には漢字による経典も現れ、武則天(則天武后)は官寺として「大雲寺」という摩尼教寺院を建立している。唐において、マニ教はウイグル(回鶻)との関係を良好に保ちたいという観点からも保護された。
西方においてマニの教えに関心を寄せた人物としては、一時マニ教徒であった4世紀から5世紀にかけてのキリスト者で教父哲学の祖といわれるアウグスティヌスがいる。
上でも触れたように、宗祖マニは「教えの神髄」の福音伝道を重視し、自ら著述した教典を各国語に翻訳させ、入信者が理解しやすいように、ゾロアスター教の優勢な地域への伝道には、ゾロアスター教の神々や神話を用い、西方伝道においてはイエス・キリストの福音を前面に据えて、ユダヤ教やキリスト教における神話や教義に仮託して自らの教義を説くことを許容し、また、東方への布教には仏陀の悟りを前面に据えて宣教するなど、各地ごとに布教目的で柔軟に用語や教義を変相させていったため、普遍的な世界宗教へと発展した反面、教義の一貫性は必ずしも保持されなかった。マニ教は近世に至るまで命脈を保ったものの、各地で既存宗教の異端として迫害されたり他の宗教に吸収されたりするなどして、マニ教としての独自性を保てなかったと言える。
西方宣教とその影響
イランや中東においては、ゾロアスター教の国教化などにともなう迫害や攻撃もあったが、信者はペルシア国外にも拡大・増加し、特に西方では、ローマがキリスト教を国教とする以前にローマ帝国全域にマニ教信者が増加し、原始キリスト教と並ぶ大勢力となった。ローマ皇帝のディオクレティアヌスは、領内におけるマニ教の広がりに不安を覚え、297年にペルシア人からのスパイであるとしてマニ教徒迫害の勅令を発布している。中世初期の教父として知られることとなるアウグスティヌスも、カルタゴ遊学の一時期マニ教を信奉し聴問者となったが、その後回心してキリスト教徒となった人物である。
また、中世ヨーロッパにおける代表的な異端として知られる、現世否定的な善悪二元論に立つカタリ派(アルビジョワ派)について、マニ教の影響が指摘される。
中東への影響
マニ教は、7世紀代のイスラームの成立にも影響を与えた。マニは、アラム語のマニ教教典『大福音書』のなかで、
キリストによってパラクレートス(聖霊・慰安者・弁護者)と呼ばれたのは、他でもない彼(マニ)であり、彼こそは「預言者たちの印璽」である。
と述べているが、イスラームの預言者ムハンマドもまた「預言者の印璽」を自ら名乗った一人であった。
マニ教の一般信者(聴問者)の5つの義務は「戒律」「祈祷」「布施」「断食」「懺悔」であり、ムスリムの義務とされる「五行」(五柱)に似ていることが指摘されている。
イスラーム教徒のペルシア征服によってサーサーン朝が滅亡したのち、イスラームの諸権力もまたマニ教を異端的宗教として迫害したため、マニ教はその本拠を次第に東方へと移していった。
東方宣教とその影響
マニ教は西アジアからユーラシア大陸の東西に拡大し、トルコ族の国ウイグルでも多くの信者を獲得した。
唐においては694年に伝来して「摩尼教」ないし「末尼教」と音写され、また教義からは「明教」「二宗教」との訳語もあった。「白衣白冠の徒」と言われた東方のマニ教(明教)は、景教(ネストリウス派キリスト教)・祆教(ゾロアスター教)と共に、三夷教ないし三夷寺と呼ばれて西方起源の諸宗教の中で代表的なものの一つと見なされた。則天武后は官寺として首都長安に大雲寺を建立した。これには、ウイグルとの関係を良好に保つ意図があったとも言われている。768年、大雲光明寺が建てられ、こののち8世紀後葉から9世紀初頭にかけて長江流域の大都市や洛陽、太原などの都邑にもマニ教寺院が建てられた。
しかし、「会昌の廃仏」に先立つ843年に唐の武宗によって禁教されるに至った。「会昌の廃仏」は845年に始まり、仏教のみならず三夷教の宗教も禁止され、多くの聖職者・宣教者は還俗させられたが、そうした中にあってマニ教僧は多くの殉教者を出したことが、当時、唐にあった日本の円仁の『入唐求法巡礼行記』に記されている。
出典 Wikipedia
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