出典http://ozawa-katsuhiko.work/
こんな状況にブレスへの一族の反感は強まっていき、七年経ったところで遂に彼を王位から追放することとした。一方、片腕を失っていた先の王ヌアドゥは医術の英雄「ディアン・ケーフト」によって銀の腕を付けてもらい、さらにその息子の「ミアフ」によって筋肉と腱を付けてもらって腕を回復していた。そこで一族は、再びヌアドゥを王に復活させたのであった。
しかしヌアドゥは、ある時宴会を催している最中に来訪して、彼の前で万能の力を見せた「ルー」に王位を譲る決意をした。このルーの父親は確かにダーナの一族の男であったが、母親というのが「フォヴォリ」の王であったバロルの娘であった。
このルーに率いられたダーナの一族は、やがて「バロル」に率いられたフォヴォリの一族と戦いとなっていった。ルーは祖父に当たるバロルに対して、素晴らしい戦い振りを見せていった。ルーは当初、仇敵バロルの血を引いているということで戦いに出られないようダーナの一族によって幽閉されて見張りを付けられていたのに、いざ戦いが始まると易々とその囲みを抜け出して戦場に現れ、片目・片足となって踊りつつ魔法の歌を歌って全軍を鼓舞して回った。またルーの祖父でフォヴォリの王バロルは一つ目の巨人で、しかもその目は四人がかかりでしか開けられない目蓋で閉じられていた。というのも、その目に睨まれた者は無力となってしまうので、うかつに開けていられないからであった。先の王ヌアドゥは、果敢にもこのバロルに立ち向かっていったが、バロルに討ち取られてしまった。
こうして王ルーは祖父バロルに立ち向かうことになり、悪口を浴びせ、それに応じて目を開けてきたバロルに対して石を投げつけ、その一つ目に命中させた。強力なその石はバロルの目を頭から突き抜かせて後方に飛ばし、その目はフォヴォリの軍勢の目の前に落ち、そのためフォヴォリの軍勢は皆無力となって遁走していった。こうしてダーナの一族は勝利し、アイルランドを支配し続けた。
やがて「ミレシウス」がやってきて戦いとなり、ダーナの一族は敗れて、そこで地上をミレシウスに譲って自分たちは地上を退き「異界」に住むことにしたという。しかし彼らは聖霊として常に人間たちに関わり、時に応じて豊壌を送ってきたり、気にくわない時には争いを引き起こしているという。
この最期の「異界」に関しては「聖霊・妖精達の国」と考えてもよく、ケルト神話・民話に出てくる「楽園」と見なしてもいいのかも知れません。ここは時空を越えた場所で「聖霊・妖精たち」が住み、平和で苦しみもなく穏やかな国で、もし人間がここに来て歓待されて、やがて人間界に戻ってみると何百年も経っていたという、日本の「浦島太郎」の物語に相当するような話もあります。
ダーナの一族が破れて退いても、地上に影響を与え続けているということはダーナの一族こそがアイルランド人にとってのかつての神々であり、キリスト教の伝来と同時にその神の位置こそ退いたけれど、アイルランド人の中に生き続けるということの意思表示であって、こんな形で神話を残した「島のケルト民族」の先祖に対する熱い思いを感じ取ることができると言えます。
以上に見られるように、一見これは「人間の物語」そのもので部族の支配交代の物語となり、それは多分歴史的にはそうに違いないと思われますが、同時にこれが「神々の物語」でもあるのです。ここでの物語の「英雄」が、それぞれ「ダヌー女神の子孫」なのであって、彼ら自体が「神」として描かれているのでした。そして恐らく古代にあっては、彼らがそのまま崇拝の対象となって祭儀を持っていたと考えられます。
この構造は、日本の『古事記』の神の場合にも当てはまります。そして、これはある意味でギリシア神話にも当てはまるところがあり、神話というものの多くがこうした構造をもっていると言えます。つまり「人間のことは神のこと」「神のことは人間のこと」というわけです。神と人間とが厳然として、その存在のあり方が異なるとされるのは「ユダヤ・キリスト教・イスラーム」においてのことであり、古代人にとっては「神」はもっと人間に身近なものだったのです。
神は自然の力であり、その自然の力は人間の内にもあるからです。武力一つとってみても、それは人間がもっているものですが、それに強弱があり、その根源の力は自然力にあり、それを強く体言している英雄がそのまま神として敬われることになるというわけで、近代日本ですらそうした現象があり「乃木大将」がそのまま「乃木神社の祭神」となり「東郷大将」は「東郷神社の祭神」というわけでした。また「菅原道真」が「天神」として祭られ、やがて「学問の神」とされているのも同じ構造です。こうした見方が古代ケルトにもあったというわけですが、これはギリシア神話にもあり、多くの古代人に共通の神観念であったと言えるでしょう。
ですから「神」の代表的なものは「豊作」を司り、「勝利や武力」を司り、また「知識や詩」を司り、「技芸」を司り、「美や愛」を司るものなのです。この力の象徴が「神」なのであり、従ってこれを強く示しているものは「神的な存在」なのです。このケルトの物語においてもそうなのであり、「女神ダヌー」というのは要するに「豊壌の大地母神」といえ、上の物語に出てこなかったその他にもたくさんの「神々」がいて、様々の物語の中で活躍しています。たとえば「知識と詩の女神」としては「ブリギト」が、「死の女神」で鴉の姿となって戦場に現れる「モリガン」とか、「技芸の神ルー」とか「海神マナナン」などが様々の物語の中で活躍してきます。
ただしギリシアの神のように、その役割や性格・姿が明確・一定しているわけではありません。ケルト神話は神々と人間、妖精、木々や動物が自在に交叉していて、神かと思うと人間に、人間かと思うと妖精に、動物だと思うと人間だったりという具合になっているのです。この性格はもちろんギリシア神話にもあり、神話というものの特徴とも言えますが、この自在さ(何でもあり)という性格がケルト神話には強いということです。これはギリシア神話が詩人達によって意図的に展開されていったのに対して、ケルトではそうした展開がなかっただけに、神話というものの「祖型」が保たれているとも言えます。
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