2022/11/06

西ローマ帝国の滅亡(1)

出典http://timeway.vivian.jp/index.html

 さて、ここでパパッと西ローマ帝国を滅ぼしましょ。

 

 フン族という遊牧民族がありました。これが東方から黒海北岸あたりに移動してきました。4世紀中頃のことです。

 

 時代は遡りますが前2世紀中頃、ローマでグラックス兄弟が改革を試みていた頃、ユーラシア大陸の東端、中国では漢帝国が栄えていました。武帝という皇帝の時代です。この以前から、中国北方の草原地帯では匈奴という遊牧国家があって中国を圧迫していたんですが、武帝の時代になって初めて北方遠征で匈奴に勝ちます。

 

 負けた匈奴は漢に追われる形で、西に移動を開始しました。400年かけて、ゆっくりゆっくり移動した。途中に出会った他の遊牧グループと合体したり吸収したりしながら移動したんだと思います。これがフンという名で、ローマの歴史に登場するのです。匈奴は「きょうど」と読んでいますが「フンヌ」とも読めるんですね。匈奴とフン族は、同じモノだろうといわれています。

 

ローマ帝国の北方から黒海北岸には、ゲルマン人が住んでいました。彼らは部族単位で農耕牧畜なんかをして生活していたんですが、そこに東方からフン族が移動してきた。玉突き状態になって、ゲルマン人は部族単位で次々に西へ移動を開始しました。これが375年に始まる「ゲルマン民族の大移動」です。

 

 フン族に追われて移動するゲルマン人は、現代風に言ったら難民ですね。これが安住の地を求めてローマ帝国内に入ってこようとしました。

 

 以前からゲルマン人の中にはローマ帝国内に移住して生活するグループや、ローマ軍の傭兵となる者なども結構いました。強引にローマ帝国内に集団移住しようとするグループもあって、ローマ皇帝はしょっちゅう辺境で戦っています。しかし、今度は規模が違う。大量のゲルマン難民がどっと流れ込んできたら、ローマ社会は大混乱になることは目に見えています。東ローマ帝国はなんとか国境防衛に成功し、ゲルマン人が侵入するのをくい止めることができましたが、西ローマはこれに失敗した。

 

 次々になだれ込んでくるゲルマン人で、西ローマ帝国は大混乱。最後の西ローマ皇帝は親衛隊長のオドアケルに廃位されて滅亡しました(476年)。オドアケルはゲルマン人出身の男です。

 

 ゲルマン人は部族単位で西ローマ帝国のあちこちに勝手に建国し、さらにお互いに戦い合います。たとえばガリア地方北部に侵入したフランク族は、フランク王国を作る。これが現在のフランスのもとです。ローマ人たちは、この新しい野蛮な支配者となんとか折り合いをつけて生活するしかなかったんでしょうね。長引く混乱の中でローマ時代の高い文明は崩壊し経済も停滞し、やがてローマ人はゲルマン人と混血していきます。これが現在のイタリア、フランス、スペインあたりの状態でした。

 

生き延びた東ローマは、ユスティニアヌス帝(位527~565)の時代に一時期勢力を盛り返します。ユスティニアヌスは、イタリア半島やアフリカ北岸に建国したゲルマン人国家から領土を奪い返しています。東西分裂以前に近い領土を支配しました。

 

 それからユスティニアヌスは、ローマ法大全を編纂させていることでも有名でしたね。彼の時代は、古きローマ帝国の最後の輝きといえるでしょう。

 

 これ以後、東ローマ帝国の領土はどんどん縮小していきます。呼びかたも首都コンスタンティノープルの古名ビザンティウムから取ったビザンツ帝国と言うのが一般的。この後もローマ帝国の理念はビザンツ帝国で生き続けますが、実質的な中身は違うものに変化していると考えた方がいいです。平安時代と鎌倉時代では、同じ日本でも政治の仕組みがまるで違うようにね。

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