2023/04/16

仏教公伝(3)

以上が通説であるが、近年では物部氏の本拠であった河内の居住跡から、氏寺(渋川廃寺)の遺構などが発見され(ただし、渋川廃寺は推古期に創建されたとする説も存在している)、また愛知県最古の寺である北野廃寺は、近隣の真福寺は守屋の息子の真福が創建したという伝承があって、白鳳時代の仏頭が残っているとし、さらに物部氏の影響が強かった関東では、東日本最古の寺跡である寺谷廃寺も物部氏が関与していたことが指摘されており、神事を公職としていた物部氏ですらも氏族内では仏教を私的に信仰していた可能性が高まっており、同氏を単純な廃仏派とする見解は見直しを迫られている。

 

一方、蘇我氏の側も神事を軽視していたわけではなく、百済の聖明王の死を伝えに訪日した王子・恵に対し、王が国神を軽んじたのが王の死を招いたと諌めたのは蘇我稲目であった。また、物部氏は『先代旧事本紀』や『元興寺縁起』には排仏運動を行った様子が記されていない上に、物部氏は積極的に百済と交流をしており、仏像を燃やし海に流したのは「罪を祓う祭祀氏族」として祓戸の神のように「仏像=神」の罪を祓い元いた場所へ送り返すためであったとする説が存在する。

 

結局のところ、崇仏・廃仏論争は仏教そのものの受容・拒否を争ったというよりは、仏教を公的な「国家祭祀」とするかどうかの意見の相違であったとする説や、仏教に対する意見の相違は表面的な問題に過ぎず、本質は朝廷内における蘇我氏と物部氏の勢力争いであったとする説も出ており、従来の通説に疑問が投げかけられている[誰によって?]

 

その後の受容状況

仏教をめぐる蘇我稲目・物部尾輿の対立は、そのまま子の蘇我馬子・物部守屋に持ち越される。馬子は渡来人の支援も受け、仏教受容の度を深めた。司馬達等の娘・善信尼を始めとした僧・尼僧の得度も行われた。しかし敏達天皇の末年に再び疫病が流行し(馬子自体も罹患)、物部守屋・中臣勝海らはこれを蘇我氏による仏教崇拝が原因として、大規模な廃仏毀釈を実施した。仏像の廃棄や伽藍の焼却のみならず、尼僧らの衣服をはぎ取り、海石榴市で鞭打ちするなどしたという。だがこれも、仏教の問題というよりは、次期大王の人選も絡んだ蘇我氏・物部氏の対立が根底にあった[要出典]

 

続く用明天皇は仏教に対する関心が深く、死の床に臨んで自ら仏法に帰依すべきかどうかを群臣に尋ねたが、欽明天皇代と同様の理由により物部守屋は猛反対した(第二次崇仏論争)。ここで注目されるのは、用明天皇が正式に帰依を表明したきっかけが自身の病気であることである。これは、神祇・神道が持つ弱点であった穢れに対する不可触ーー病[要校閲]や死などに対処するための方策として仏教が期待され、日本における仏教受容の初期的な動機になったことを示している。

 

結局、蘇我・物部両氏の対立は587年の丁未の役により、諸皇子を味方につけた蘇我馬子が、武力をもって物部守屋を滅亡させたことにより決着する。その後、蘇我氏が支援した推古天皇が即位。もはや仏教受容に対する抵抗勢力はなくなった。推古朝では、馬子によって本格的な伽藍を備えた半官的な氏寺・飛鳥寺が建立され、また四天王寺・法隆寺の建立でも知られる聖徳太子(厩戸皇子)が馬子と協力しつつ、仏教的道徳観に基づいた政治を行ったとされる。しかし、この時期において仏教を信奉したのは朝廷を支える皇族・豪族の一部に過ぎず、仏教が国民的な宗教になったとは言い難い(民衆と仏教が全く無関係であったわけではないが)[誰によって?]

 

奈良時代には、鎮護国家の思想のもとに諸国に国分寺が設置されて僧・尼僧が配され、東大寺大仏の建立、鑑真招来による律宗の導入などが行われたが、本格的な普及には遠かった。平安時代には最澄による天台宗、空海による真言宗の導入による密教の流行、末法思想・浄土信仰の隆盛などを契機として貴族層や都周辺の人々による仏教信仰は拡大しつつあったが、全国にわたって庶民にまで仏教が普及するのは中世以降である。鎌倉仏教の登場などにより全国の武士や庶民階層へ普及していき、以後は日本独自[要説明]の仏教が発展した。

 

崇仏論争に対する新説 

有働智奘は、「崇仏論争」という概念自体が明治期以降に誕生したとする説を提唱した。その根拠は以下の通りである。

 

物部氏の本拠であった河内の居住跡から、氏寺(渋川廃寺)の遺構などが発見され(ただし、渋川廃寺は推古期に創建されたとする説も存在している)、また愛知県最古の寺である北野廃寺には、その近隣の真福寺に守屋の息子の真福が創建したという伝承があり、さらに、物部氏の影響が強かった関東では、東日本最古の寺跡である寺谷廃寺も物部氏が関与していたと考えられると複数人の研究者が指摘している。

 

物部氏は百済との交流に関わっていた者も多く見られるため、仏教を知らなかった可能性は低く、また、物部氏は祭祀や軍事のほか、刑罰も担当していたうえ、仏教排除の行動は勅命によっているため、廃仏を立場としていたとは言えず、その上、崇仏派とされる蘇我氏も神祇を祀っていた。

 

中世までの史書には、排仏・崇仏の争いとする記述は見えず、「排仏・崇仏」という用語自体、明治後期の国定教科書以前には見えない。

 

祭祀を担当していた物部氏、中臣氏が反対したのは、蕃神である仏陀の祭祀を宮中祭祀に組み込むことであり、蘇我氏が仏教を推進したのは、朝廷が氏族に「依託祭祀」させたもので、敏達朝の仏教排除は、疫病をもたらした神を祓い、そうした神を信奉した人々を処罰したものであった。

 

ただし、後に有働智奘は、「崇仏・廃仏」という用語の初見は、江戸時代の国学者であった谷川士清の『日本書紀通証』であったと訂正した。

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