2023/04/06

仏教公伝(2)

552年(壬申)説

『日本書紀』(720年成立、以後、書紀と記す)では、欽明天皇13年(552年、壬申)10月に百済の聖明王(聖王)が使者を使わし、仏像や仏典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記されている。この上表文中に『金光明最勝王経』の文言が見られるが、この経文は欽明天皇期よりも大きく下った703年(長安2年)に唐の義浄によって漢訳されたものであり、後世の文飾とされ、上表文を核とした書紀の記述の信憑性が疑われている。

 

伝来年が「欽明十三年」とあることについても、南都仏教の三論宗系の研究において、この年が釈迦入滅後1501年目にあたり末法元年となることや、『大集経』による500年ごとの区切りにおける像法第二時(多造塔寺堅固)元年にあたることなどが重視されたとする説があり、これも後世の作為を疑わせる論拠としている[誰によって?]

 

また、当時仏教の布教に熱心であった梁の武帝は、太清2年(548年)の侯景の乱により台城に幽閉され、翌太清3年(549年)に死去していたため、仏教伝達による百済の対梁外交上の意義が失われることからも、『日本書紀』の552年説は難があるとされる[誰によって?]

 

しかしながら、上表文の存在そのものは十七条憲法や大化改新詔と同様、内容や影響から書紀やその後の律令の成立の直前に作為されたとは考えにくいとされ、上表文そのものはあったとする見方がある。

 

538年(戊午)説

『上宮聖徳法王帝説』(824年以降の成立)や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(724年)には、欽明天皇御代の「戊午年」に百済の聖明王から仏教が伝来したとある。しかし書紀での欽明天皇治世(540 - 571年)には戊午の干支年が存在しないため、欽明以前で最も近い戊午年である538年(書紀によれば宣化天皇3年)が有力[要出典]とする説があった。

 

これら二書は、書紀以前の作為のない典拠であると思われていたことも含めて説の支持理由とされていた[いつ?]が、その後の研究でこれら二書の記述に淡海三船によって後世に追贈された歴代天皇の漢風諡号が含まれていることが指摘され[要出典]、書紀編纂以降に成立していたことが明らかとなった。そのため作為のない典拠であるとは断言できなくなり、したがって論拠としては弱くなってしまった。

 

538年=552年説

有働智奘は、『元興寺縁起』は538年、『日本書紀』は552年とする仏教公伝の年であるが、古代朝鮮三国の仏教史である『三国遺事』と百済の歴代王の年表である「百済王暦」は年代が14年ずれていると考えられ、このずれはまさに538年と552年の違いと一致するため、『日本書紀』は『三国遺事』の系列の資料、『元興寺縁起』は「百済王暦」の系統の資料に基づいている可能性があると指摘した。

 

その他の諸説

伝来が欽明天皇治世期間中だったかどうかとは別に、欽明天皇治世時期自体にも諸説ある。

 

『百済本記』(ただし書紀のみに見られる逸書)を含む書紀や古事記の記載から、継体  安閑  宣化  欽明 と続く皇統年次が複数説あるため、欽明天皇が在位していたとしても、これを継体以降に空位を含んで短期間に皇位交代が行われたとする説、継体直後に天皇出自を背景として欽明朝が並立していたとする説(喜田貞吉)、さらに蘇我氏と物部氏・大伴氏などとの他豪族どうしの対立を背景としていたとする説(林屋辰三郎)もあり、欽明天皇治世自体が未だ判然とせず、したがって伝来年も不明ということになる。

 

かつて百済の聖王の即位年代は、『三国史記』、書紀、『梁書』、『周書』、『北史』によって513年から527年に至る諸説が存在した。諸説あった当時は、伝来年を538年としたときと552年としたとき、これを聖王の即位から26年とすると、即位年がそれぞれ513年、527年とどれも諸説に当てはまる共通性を見出して「聖王26年」を百済側から見た日本への伝来年として確定できるとの説があった。しかし現在は聖王即位は523年とほぼ確定していることから、これを先の聖王26[要説明]に当てはめ伝来公伝年を548年とする説がある。

 

書紀には、5459月に百済王が日本の天皇のために丈六(一丈六尺)の仏像を作成し、任那に贈ったとの記述もあり、事実とすればこの時期に大和朝廷の側に仏教受け入れの準備ができていたことを示すことから、この年を重視する説がある。

 

受容の推移

上記の経緯によって百済から公式に伝来した仏教ではあったが、その後の日本における受容の経緯は必ずしも順調とは言えなかった。

 

蕃神・今来神

仏教が伝来する以前、日本には土着の宗教(信仰)として原始神道(古神道)が存在したと思われる。新たに伝来した仏教における如来・菩薩・明王などの仏も、これらの神といわば同列の存在と把握された[要出典]。これらは、一般的な日本人にとって「蕃神(あだしくにのかみ)」「今来の神(いまきのかみ)」「仏神」として理解されたようである[要出典]。受容の過程が下記のように紆余曲折を経たこともあり、神道とは違う仏教の宗教としての教義そのものの理解は、主として7世紀以降に進められることとなる[要出典]

 

崇仏論争

大和朝廷の豪族の中には原始神道の神事に携わっていた氏族も多く、物部氏・中臣氏などはその代表的な存在であり、新たに伝来した仏教の受容には否定的であったという。いっぽう大豪族の蘇我氏は渡来人勢力と連携し、国際的な視野を持っていたとされ、朝鮮半島国家との関係の上からも仏教の受容に積極的であったとされる。

 

欽明天皇は百済王からの伝来を受けて、特に仏像の見事さに感銘し、群臣に対し「西方の国々の『仏』は端厳でいまだ見たことのない相貌である。これを礼すべきかどうか」と意見を聞いた。これに対して蘇我稲目は「西の諸国は、みな仏を礼しております。日本だけこれに背くことができましょうか」と受容を勧めたのに対し、物部尾輿・中臣鎌子らは「我が国の王の天下のもとには、天地に180の神がいます。今改めて蕃神を拝せば、国神たちの怒りをかう恐れがあります」と反対したという(崇仏・廃仏論争)。

 

意見が二分されたのを見た欽明天皇は仏教への帰依を断念し、蘇我稲目に仏像を授けて私的な礼拝や寺の建立を許可した。しかし、直後に疫病が流行したことをもって、物部・中臣氏らは「仏神」のせいで国神が怒っているためであると奏上。欽明天皇もやむなく彼らによる仏像の廃棄、寺の焼却を黙認したという。

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