2023/04/13

唯識(3)

中国・日本への伝播

中国からインドに渡った留学僧、玄奘三蔵は、このナーランダ寺において、護法の弟子戒賢(シーラバドラ、śīlabhadra)について学んだ。帰朝後、『唯識三十頌』に対する護法の註釈を中心に据えて、他の学者たちの見解の紹介と批判をまじえて翻訳したのが『成唯識論(じょうゆいしきろん)』である。

 

そして、この書を中心にして玄奘の弟子の慈恩大師基(もしくは窺基=きき)によって法相宗(ほっそうしゅう)が立てられ、中国において極めて論理学的な唯識の研究が始まった。実質的な開祖は基であるため、法相宗では玄奘を鼻祖(びそ)と呼び分けている。その後、玄奘の訳経と知名度等により中国の法相宗は隆盛し、その結果、真諦の訳した論書を基に起こった地論宗や摂論宗は衰退することとなった。

 

その後、法相宗は道昭・智通・智鳳・玄昉などによって日本に伝えられ、奈良時代さかんに学ばれ南都六宗のひとつとなった。その伝統は主に奈良の興福寺・法隆寺・薬師寺、京都の清水寺に受けつがれ、江戸時代には優れた学僧が輩出し、倶舎論(くしゃろん)とともに仏教学の基礎学問として伝えられた。唯識や倶舎論は非常に難解なので「唯識三年倶舎八年」という言葉もある。明治時代の廃仏毀釈により日本の唯識の教えは一時非常に衰微したが、法隆寺の佐伯定胤の努力により復興した。法隆寺が聖徳宗として、また清水寺が北法相宗として法相宗を離脱した現在、日本法相宗の大本山は興福寺と薬師寺の二つとなっている。

 

識の転変

唯識思想は、この世界はただ識、表象もしくは心の持つイメージにすぎないと主張する。外界の存在は実は存在しておらず、存在しているかのごとく現われ出ているにすぎない。これを『華厳経』などでは、次のように説いている。

 

又、是の念を作さく、三界は虚妄にして、但だ是れ心の作なり。十二縁分も是れ皆な心に依る。

 

又作是念。三界虚妄。但是心作。十二縁分。是皆依心

大方廣佛華嚴經十地品第二十二之三

 

識とは心である。心が集起綵画し主となす根本によるから、経に唯心という。分別了達の根本であるから論に唯識という。あるいは経は、義が因果に通じ、総じて唯心という。論は、ただ因にありと説くから、ただ唯識と呼ぶのである。識は了別の義であり、因位の中にあっては識の働きが強いから識と説き、唯と限定しているのである。意味的には二つのものではない。『二十論』には、心・意・識・了の名はこれ差別なり、と説く。

 

識者心也。由心集起。綵畫為主之根本故經曰唯心。分別了達之根本故。論稱唯識或經義通因果總言唯心。論唯在因但稱唯識。識了別義。在因位中識用強故。識為唯。其義無二。二十論云。心意識了。名之差別。

慈恩大師 大乘法苑義林章卷第一

 

その心の動きを「識 (vijñāna) の転変 (pariāma)」と言う。その転変には三種類あり、それは

 

      異熟(いじゅく) - 行為の成熟

      思量(しりょう) - 思考と呼ばれるもの

      了別(りょうべつ) - 対象の識別

 

3である。識の転変は構想である。それによって構想されるところのものは実在ではない。したがって、この世界全体はただ識別のみにすぎない。

 

第一能変

異熟というのは、阿頼耶識(根源的と呼ばれる識知)のことであり、あらゆる種子 (bīja) を内蔵している。感触・注意・感受・想念・意志を常に随伴する。感受は不偏であり、かつそれは障害のない中性である。感触その他もまた、同様である。そして、根源的識知は激流のごとく活動している。「暴流の如し」

 

第二能変

末那識 (mano nāma vijñāna) は、阿頼耶識に基づいて活動し、阿頼耶識を対象として、思考作用を本質とする。末那識には、障害のある中性的な四個の煩悩が常に随伴する。我見(個人我についての妄信)、我痴(個人我についての迷い)、我慢(個人我についての慢心)、我愛(個人我への愛着)と呼ばれる。なかでも特に、当人が生まれているその同じ世界や地位に属するもののみを随伴する。さらに、その他に感触などを随伴する。

 

この末那識は、自我意識と呼んでもよい。つねに煩悩が随伴するので「汚れた意(マナス)」とも呼ばれる。

 

この末那識と意識によって、思量があり、その意業の残滓は、やはり種子として阿頼耶識に薫習される。

 

第三能変

了別とは、第三の転変であり、六種の対象を知覚することである。

 

六識は、それぞれ眼識が色(しき、rūpa)を、耳識が声を、鼻識が香を、舌識が味を、身識が触(触れられるもの)を、意識が法(考えられる対象、概念)を識知・識別する。そして、この六識もまた阿頼耶識から生じる。そして末那識とこの六識とが「現勢的な識」であり、我々が意識の分野としているもので、阿頼耶識は無意識としているものである。

 

これまでの説明は、阿頼耶識から末那識および六識の生ずる流れ(種子生現行)だが、同時に後二者の活動の余習が阿頼耶識に還元されるという方向(現行薫種子)もある。それがアーラヤ(=蔵)という意味であり、相互に循環している。

 

識を含むどのような行為(業)も一刹那だけ現在して、過去に過ぎて行く。その際に、阿頼耶識に余習を残す。それが種子として阿頼耶識のなかに蓄積され、それが成熟して、「識の転変」を経て、再び諸識が生じ、再び行為が起ってくる。

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