2023/09/20

神々の黄昏世界の終末(2)

 出典http://ozawa-katsuhiko.work/


『巫女の予言』は次のように語る。

 

角笛を高々とあげ、ヘイムダルはりょうりょうと吹き鳴らし

オーディンはミーミルの頭と語る

高くそびえるユグドラシルのとねりこは恐怖に震え、老樹は呻き

巨人は自由の身となる

アース神はいかに

ヨーツンヘイムはどよめき

アース神らは急ぎ集まる

岸壁の案内人こびとらは扉の前で吐息をつく

 

フリュムは盾をかざして東より駆けつけ

大蛇は激怒にのたうち高波を起こし

鷲は叫びを発して青白きくちばしで屍を引き裂き

巨大船ナグルファルは岸を離れる

 

東より船がいたる

ムスペルの輩は海を超えて来たるなり

舵をとれるはロキ

怪物ども狼ともどもはせ参じ

ビューレイストの兄弟も一味なり

 

 オーディンの目指す相手は怪物フェンリル狼だった。トールはオーディンと並んで馬を進めていたが、オーディンに腕を貸すことはできなかった。なぜならトールはミズガルズの大蛇と戦うのに手一杯であったからだ。

 

 光のフレイは炎のスルトと戦った。フレイが倒されるまで激しい死闘が繰り広げられた。しかしフレイにとって、妻とした絶世の光り輝く美女ゲルズのために召使いのスキールニルにやってしまったあの名剣がないのが命取りであった。

 

 この間に、冥界ヘルの入り口に縛られていた地獄の番犬ガルムが自由の身となってテュールに挑み、互いに相討ちとなっていた。

 

 トールはミズガルズの大蛇を倒した。しかし九歩下がったところでトールは倒れた。大蛇の猛毒を浴びせられていたからだ。

 

 オーディンは怪物狼フェンリルに飲み込まれてしまった。それが彼の最後であった。

 

 だがそれを見た、無口だがトールに次ぐ強者と謳われたオーディンの子ヴィーザルがただちに駆けつけ、片足で狼の下あごを踏みつけた。彼の靴は特別製で、靴を作る時に切り捨てる端の皮を丹念に集めておいて、それを合わせて作ったものなのだった。そして、もう一方の手で上あごを押し上げて口を引き裂いてしまったのだった。

 

ロキはヘイムダルと戦い相討ちとなった。

 

 こうして炎のスルトは、大地に火を投げて世界を焼き尽くしてしまうのだ。

 

『巫女の予言』は語っている。

 

スルトは南より枝の破滅(火)もて攻め寄せ

戦士の神々の剣より太陽がきらめく

岩山は砕け

女巨人は倒れ

戦士は冥府への道をたどり

天は裂ける

 

オーディンが狼を相手に戦を挑み

ベリの輝く殺し手(フレイ)がスルトに立ち向かう時

二度目の悲しみがフリーン(オーディンの妻フリッグ)に迫る

フリッグの夫がそこで倒れるなれば

 

オーディンの子ヴィーザルは屍の獣、狼を相手に戦いを挑み

フヴェズルング(ロキ)の子の口より胸に深く剣を指し貫いて

父の復讐を遂げん

 

フロージュンの令名高き子(トール)は大蛇より九歩退けど

恥辱にあらず

人はすべて家より立ち退かざるべからず

ミズガルズの神、怒りにまかせて打ちまくれば

 

太陽は暗くなり

大地は海に没し

きらめく星は天より墜ちる

煙と火とは猛威をふるい

火炎は天をなめ尽くす

 

 かくして全世界が焼け、神も戦士も人々も死んだ。しかしやがて、海中から緑の大地が浮かび上がり、そこには種もまかずに穀物が育つ。父オーディンの敵である怪物狼を倒したヴィーザルは生き残った。またバルドルがヘズに誤って殺された時、その敵をうつために生まれて、定め通りにヘズを討ったあのヴァーリも生き残った。かれらはスルトの炎を逃れたのだ。彼らは以前アースガルドのあった場所イザヴェルに住む。そこにトールの子モージとマグニがやってきた。彼らはトールの遺品である「槌のミョルニル」を携えていた。

 

 そこに定めに従い、冥界からバルドルとヘズとが戻ってきた。かれらは共に腰を下ろして先に起こったことども、ミズガルズの大蛇やフェンリル狼などのことを話し合った。この時彼らは、かつてのアース神たちの持ち物であった黄金の将棋を草むらに見いだすのだった。

 

『巫女の予言』は言う。

 

スルトの炎、消ゆる時

ヴィーザルとヴァーリは神々の館に住まん

モージとマグニはヴィングニル(トール)の戦いの後

ミョルニルを手に入れん

 

ところで、ホッドミーミルの森と言われるところに、スルトの炎が燃えさかっている時、リーヴとレイヴスラシルという人間の男女が身を隠し、朝露で命をつないでいた。この二人から、やがて世界にたくさんの子孫が生まれることになる。

 

また太陽も再び天にあることになるが、それは太陽が自分に劣らぬ美しい娘を生んでいたからなのだ。娘は母と同じ軌道を巡ることになる。

しかし、この先のことは誰も知らない。

 

 神々の黄昏については以上のように『巫女の予言』と、それに基づいた『スノッリのエッダ』は語っています。非常に「絵的」な語りで描写がイキイキしており文学性において優れていると言えますが、問題はやはりここに見られる「終末論」となるでしょう。こうした「世界の終末」について、ギリシャ神話はほとんど語ってきません。ただしストア学派などの哲学思想にはありますが、それはあくまで存在論的な世界把握の場面でのことで「天変地異や悪の勝利」といった自然的・倫理的な現実性は持ちません。

 

 この「神々の黄昏」と似ている終末論は、キリスト教の特に『ヨハネ黙示録』にある思想となるでしょう。そこでは、やはり「天変地異」と「悪の勝利」がはじめにあって、その後に「神の国の到来」となります。これは全く宗教的・倫理的なものです。しかし今みたゲルマン神話は、そうした「宗教性」や「倫理性」はほとんど伺えません。あるのは「自然」を見る見方だけだと言えます。つまり、この自然世界は「終わる」という、ただそうした素直な自然観があるだけです。

 

 むろん、この終末の末に新たな世界が浮かび上がってはきますが、それについて確かに『巫女の予言』では「永遠の幸福な生活」という言葉は見られるものの、それが「目的とされる国」、つまりそれを目指して生きるべきといった「目的論的倫理性」は語られてはこず、いわんや「神への信仰」など全然でてきません。

 

 私たちは、ここに古代ゲルマン人の素直な「自然観」をみておけばいいのだとしかいえないでしょう。ただし、こうした終末論を持っていたことが、後にキリスト教の世界観を受け入れる素地になっていたということはあるのかもしれません。

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