2023/09/06

聖徳太子(8)

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概要

飛鳥時代に存在した皇族。天皇を中心とした中央集権国家体制の確立と、日本における仏教の隆興に尽力した政治家。

上記の人物を題材とした創作作品上の登場人物。

 

来歴

用明天皇の第二皇子。本名は「厩戸皇子」(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)、または「厩戸王」(うまやどのおおきみ、うまやどおう)。

 

一般的に用いられる聖徳太子の名称は、生前の徳の高さを讃えた諡号(薨去に際しての神道における贈り名)であり、この諡号そのものも薨去から84年後に当たる慶雲3年(706)頃に作られた法起寺三重塔の露盤に記された「上宮太子聖徳皇」(じょうぐうたいし しょうとくこう)の銘文で、ようやく記録として登場するものである。

 

敏達天皇3年(57411日、大和国高市郡飛鳥(現在の奈良県高市郡明日香村)の橘寺の地にあった行宮で、用明帝と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ、欽明天皇の第三皇女)の間に生まれる。皇族の血筋に加えて、世襲の大臣(おおおみ)として天皇の執政を補佐し、欽明帝の妃となった姉妹の父親である蘇我稲目の曾孫でもあり、当時は数少ない崇仏派であった蘇我氏の影響を受けて幼い頃から仏教を学び、卓抜した聡明さは数々の逸話として遺されている。

 

用明天皇2年(5877月、世襲の大連(おおむらじ)として天皇の軍務を補佐した物部守屋が用明帝崩御に伴う皇位継承権問題を巡り、かねてより仏教礼拝の賛否を名目に(正確には敏達帝崩御後の皇位継承権問題から)対立する蘇我馬子と完全に敵対した際、馬子が擁立した泊瀬部皇子(はつせべのみこ、後の崇峻天皇)と共に、守屋が擁立した穴穂部皇子(あなほべのみこ、敏達帝および用明帝の異母弟)を討伐する『丁未の乱』(ていびのらん)に参加して、これを破る。

 

推古天皇元年(593410日、推古帝の儲君(立太子の礼を執行する勅令)を以って皇太子に就くと共に摂政の任を与えられ、馬子と協力しつつ数々の政治改革を推進する。この時、守屋討伐の際に立てた請願を守って四天王寺を建立し、同時に施薬院(薬局)、療病院(総合病院)、悲田院(弱者救済施設)、敬田院(仏教道場)の4つから成る日本最古の総合福祉施設『四箇院』を併設する。

 

推古天皇30年(622222日、薨去。享年49。生前の希望に従い、遺骸は河内国石川郡磯長(現在の大阪府南河内郡太子町)に設けられた陵墓『聖徳太子磯長廟』(現在の叡福寺北古墳)に葬られる。

 

皇極天皇2年(6431230日、上宮家として太子の血統を継承した山背大兄王が蘇我入鹿を中心とする反勢力の強襲の末に逃亡先の斑鳩寺で一族もろとも自害し、これによって太子の血脈は断絶したとされる。

 

政策

当時の日本は、6世紀末に統一された隋王朝や朝鮮半島諸国(新羅、百済、高句麗、任那)との関係を保ちながら大陸の最新文化を積極的に吸収し、その一方で旧来のヤマト王権体制の改革と新たな中央集権体制の安定が求められた時期であり、特に当時の先進国である大陸諸王朝に対して、独立国家としての認識を得ることが急務であった。

 

内政

摂政の任に就いた後、執政に参加する官僚の位階を冠の色(紫:徳、青:仁、赤:礼、黄:信、白:義、黒:智)の6種類、さらに色の濃淡による各位大小の2系統で表し、従来の血統世襲制を廃した官吏位統一制度『冠位十二階』(最高位は濃紫の大徳、最下位は淡黒の小智)を、同時に儒学や仏教の思想を基盤として政務に携わる官僚の道徳を説いた日本最古の法規範『十七条憲法』を制定した。

 

特に仏教には熱心に取り組み、高句麗から渡来した仏僧の恵慈に師事して仏教を修め、法隆寺などの大規模な仏教寺院を次々と建立した。太子が仏教を厚く信仰した一例として、仏教諸経典の中でも特に難解な法華経(ほけきょう)、勝鬘経(しょうまんぎょう)、維摩経(ゆいまぎょう)の三経典について注釈を加えて著した研究書『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)があり、言葉としては十七条憲法第二条の序文「篤敬三寶。三寳者仏法僧也。(篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり)」(三つの宝を心から敬いなさい。三つの宝とは悟りを開いた仏、仏が説いた法、法に従う僧である)、国宝『天寿国繍帳』(てんじゅこくしゅうちょう)に記された晩年の言とされる「世間虚仮唯仏是真(せけんこけ ゆいぶつぜしん)」(この世の全ては虚ろな仮初の姿であり、唯一の真実は仏の教えである)などがある。

 

しかし、従来の神道を蔑ろにした訳ではなく、儒教書『礼記』に倣った十七条憲法第一条の序文「以和為貴。無忤為宗。(和を以って貴しと為、忤うこと無きを宗と為)」(調和を尊び、争いを起こさない事が重要である)による和合の精神を宣言し、これを基礎に推古天皇15年(607)に発布した『敬神の詔』(けいしんのみことのり)の書中で「神道(=根本)を幹、仏教(=信仰)を枝、儒教(=礼節)を葉と成す」の思想を明確に表した事で日本における神仏習合の概念を確立した。

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