外交
海外使節団『遣隋使』の第二回派遣に際して小野妹子を国使に任じ、隋の第2代皇帝であった煬帝に対して「日出処天子到書日没処天子無恙云云(日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや。云云)」(日が昇る国の皇帝が、日が落ちる国の皇帝に書を送る。お変わりは無いか。云々)で始まる国書を送り、対等の関係を申し入れるという前代未聞の国交交渉を行った。
この国書に対して煬帝が激怒したとされる話は、歴史書『隋書』の第81巻に当たる列伝第46巻「東夷」のうちの倭国に関する一節に、前述の「日出処~」に続いて「帝覧之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞(帝、之を覧て悦ばず。鴻臚卿に謂いて曰く、蠻夷の書、無禮なる者有り。復た以って聞するなかれ、と)」(帝はこれを見て不愉快を覚え、担当の外交官に「今後は野蛮人の無礼な書を二度と見せるな」と言った)と残されている。
ここで言う無礼とは書中の「天子」を指し、即ち当時の最先端国家たる隋から見て、本来であれば臣下の礼を執って然るべき倭国の王、それも未見の地に住む蛮族の首長が皇帝を意味する天子の尊号を国書という最重要文書の書中で軽々しく用い、その上で対等の立場で文言を述べるという非礼極まりない一件に対して激怒したのが真実であり、太陽の出没になぞらえた国の盛衰に激怒したとする通説は類推の域を出ない後世の俗説とされている。
なお、「日出処」「日没処」の文言は般若経の大教典『摩訶般若波羅蜜経』(大品般若経)の注釈書『大智度論』に記されている「日出処是東方
日没処是西方」に倣ったものとされており、単に日本から見て西方の地にあるために隋を日没処、逆に隋から見て日本が東方の地にあるために日出処と表現したと考えられている。
ただし、この事件に関する日本最古の文献資料『日本書紀』では、第22巻「豊御食炊屋姫天皇」(とよみけかしきやひめのすめらみこと=推古帝)のうちの遣隋使に関する一節に「推古天皇15年(607)に小野妹子が大唐国に国書を持って派遣された(要約)」と簡潔に記され、その後も隋の国書を携えた裴世清と共に帰国した経緯が綴られているだけであり、「日出処~」の国書を煬帝に奉じたとする確実な記録証拠は日本側には残されていない。
どちらにせよ国書を無礼と取られながらも、その後も遣隋使が派遣されるなど友好な関係が続いたのは事実である。当時、倭国(日本)側がどこまで国際情勢を把握していたのかは不明だが、隋は高句麗(朝鮮半島)への遠征に備えており、高句麗より東にある倭国を敵に回すのは、あまり得策ではなかったからだと考えられている。
逸話
その聡明さと輝かしい功績から数々の逸話が遺されており、中でも10人から一斉に意見を求められても正確に聞き分けて回答する情報処理能力の「豊聡耳」(とよさとみみ、とよとみみ)、あたかも目撃したように未来を詳細に予言する予知能力の「兼知未然(兼ねて未だ然らざるを知ろしめす)」(けんちみぜん)の2つが代表例として挙げられ、特に前者の豊聡耳については厩戸皇子の別称として『古事記』『日本書紀』など多くの古文書に登場する。
この逸話が転じて、一斉に流れる複数の音を聞き分けたりできる人物を聖徳太子と表現したりすることがある。
しかし、これらの逸話の大半は太子信仰の発生による神格化が起因しており、前述の超人的能力は後世に造作された伝説としての側面も多々あるため、幕末以降は聖徳太子の虚構性が指摘され続けている。虚構論を唱える学説の中には「聖徳太子は架空の人物である」「蘇我王朝が実在した」などの突飛な内容も含まれているが、法隆寺釈迦三尊像の光背に記された銘文が太子の実在を示すとする信憑性などから、これらの学説は学会の少数派に留まっている。
日本が発行する紙幣の肖像画としては歴代最多の採用回数を誇り、戦前から昭和59年までの間に流通した紙幣で7回の採用を記録している。また、その大半が最高額面であったために、高額紙幣の代名詞として広く認知されていた。
他方では、浄土真宗開祖である親鸞の夢に何度も現れたとされる伝説が遺されており、その1つに「女犯の夢告」(にょぼんのむこく、『御伝鈔』上巻第三段)がある。大きな苦悩を抱えて独り比叡山を下り、聖徳太子を建立の縁起とする頂法寺本堂(六角堂)に篭もって命懸けの百日願行に挑んだ95日目、高僧に姿を変えた救世観音(=聖徳太子の化性)が親鸞の前に現れて「行者宿報設女犯
我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽(行者宿報にて設い女犯すとも、我玉女の身と成りて犯せられん。一生の間能く荘厳し、臨終に引導して極楽に生ぜしめん)」(行者=親鸞がこれまでの因縁により女性と交わりを持つ破戒に直面した時、私が美しい女性となって交わりを被りましょう。一生の間を気高く立派であるよう助け、臨終には極楽浄土へ生ずるよう引導しましょう)と諭したとされている。このなんだかエロい夢が、後の日本最大の宗派を生むことになる。
太子信仰
仏教の普及における功績や、上述の逸話から、超自然的な人物とみなされるようになり、彼を信仰の対象とする「太子信仰」が形成された。『聖徳太子伝暦』や『上宮聖徳太子伝補闕記』において救世観音(観世音菩薩の尊称)の化身とする説が確立し、『四天王寺御朱印縁起』では太子が注釈を書いた経典『勝鬘経』に登場する勝鬘夫人は過去世であるとされた。インドにおいて勝鬘夫人として産まれた彼は、その後中国の南嶽衡山を拠点に活動した禅僧で天台宗開祖智ギの師匠であった慧思禅師(南岳大師)として転生、さらに日本の聖徳太子に生まれ変わったと位置づけられた。
聖徳太子の時代の日本において、仏教の宗派の違いは明確ではなく、様々な法門(修行、信仰の方法)を併学する形であった。そして大陸から宗派が持ち込まれ、また日本で発達する際にも、そうした各宗派で太子信仰が継承されることになる。
真言宗、天台宗、禅、律宗、浄土教、日蓮宗と日本に存在する伝統宗派の大半において太子信仰が存在する。
宗祖・高僧以外の人物を基本的に祀らない浄土真宗も、これに該当する。
図像表現としては、二歳の時に立ち上がり東を向いて合掌して「南無仏」と祈りを捧げた姿とされる「南無仏太子」、袈裟を着て柄香炉を持ち、父である用明天皇の病気治癒を祈った16歳(14歳とも)の「孝養太子」、35歳と45歳のときに『勝鬘経』について講義する「講讃太子(講讃像)」などがある。
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