2024/02/13

唐(11)

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 安禄山の反乱軍には石臼部隊というのがあった。直径数メートルもあるような、でっかい石臼を運ぶ部隊です。反乱軍とウイグル軍が合戦するでしょ。どちらが勝っても負けても戦闘後の戦場には、死体がたくさん転がっている。そこに石臼部隊が、ゴロゴロと巨大石臼を運んで登場します。生き残った兵士たちは敵のも味方のも死体を運んできて、どんどん石臼に放り込んでゴーリゴーリ臼をひく。死体がミンチになってじわじわでてくる。これを団子にして食べた。気持ち悪くて御免なさい。

 

 もう、何のために戦争しているのかわからない。人肉という食糧を確保するために、反乱をつづけているような状態になっているのです。華北の荒廃とは、こういうことです。農民が農作業なんかしていたら、捕まって食べられてしまいます。地獄そのもの。

 

 反乱鎮圧後、唐の朝廷は長安に帰ってきますが、都はすっかり変わり果てていたのです。

 

 唐の詩人杜甫(とほ)に「春望(しゅんぼう)」という作品があります。非常に有名な詩なので紹介します。

 

  国破れて 山河あり

  城春にして 草木深し

  時に感じては 花にも涙をそそぎ

  別れを恨んでは 鳥にも心を驚かす

  烽火 三月に連なり

  家書 万金に抵(あた)る

  白頭 掻(か)けば更に短く

  渾(すべ)て 簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す

 

 杜甫は安史の乱で一時、長安に幽閉されます。戦乱で荒れ果てた長安の風景を嘆いている詩です。「城春にして」の城とは長安のこと、繁栄していた長安が今では草ぼうぼうだ、といっているのですよ。戦火が三ヶ月もつづき、離ればなれになった家族からの手紙は万金の価値。白髪頭もすっかり薄くなり、まったくかんざしさえさすことができない。そんな意味です。

 

 大学時代に中国からの留学生と飲む機会があった。日本の高校では国語の時間に漢詩を習うんですよと、とりあえず少し覚えていたこの春望のことを話したら、ワンさん、中国語で朗々と歌うように朗読してくれた。中国語で読むと、韻が踏んであるのがよくわかる。耳に心地よいですよ。日本で百人一首を暗記させられるように、中国の国語の時間にこういう詩を暗唱するのかもしれませんね。

 

唐の政治・社会の変質

 安史の乱後、唐の政治も社会も大きく変化します。

 

 まず、唐王朝の力がすっかり衰えてしまった。均田制を維持することができません。

 均田農民は政府の援助が得られずに没落して、小作農になっていきます。小作農のことを佃戸(でんこ)という。佃戸が働く農地の所有者が新興地主階級です。かれらは、貴族とは何のつながりもない。混乱をチャンスに変えて成長してきた新興層です。

 

 均田制が崩れれば、当然それをもとにしていた租庸調制も崩れる。かわりに実施された税制が両税法。夏と秋の二回の収穫期に銭納で税を集める。一年二回の徴税なので両税法といいます。両税法の献策者が楊炎(ようえん)。受験的にはわりときかれます。これ以外にも、塩の専売制を強化して国家財政を補いました。

 

 府兵制が解体して、募兵制に切り替わります。傭兵部隊です。傭兵というのは、西洋でも東洋でも質が悪い。中国では良い鉄は釘にはならない、善い人は兵隊にはならないという諺があって、兵士になる奴にろくな奴はいない。まじめに働くことのできないならず者が、最後にたどりつく仕事だと考えられていたのです。

 

 府兵制の兵士は違うんですよ。これは徴兵ですからね、均田農民が兵士になる。農民というのは元来、まじめで黙々といわれたとおりによく働く。これを兵士にした府兵は、質がいいんです。募兵制の傭兵になってから兵士の質がグンと落ちる。略奪・暴行なんか、なんとも思っていない。

 

 そして、この募兵を率いるのが節度使です。唐朝は安史の乱後、国内にも節度使を置くようになります。節度使が反乱したら、別の節度使に鎮圧させるためです。国内に多数設置された節度使に任命されたのが、なんと、安史の乱で暴れまわった反乱軍の武将たちなんです。反乱鎮圧後、唐朝は反乱軍の将兵の扱いに困るのです。政府につなぎ止めておかないと、また何をしでかすかわかりませんから。そこで、官職をあたえて各地の節度使やその武将、兵士にした、というわけです。こんな節度使ですから、頭から唐の政府なんてなめているわけ。すぐに各地で自立化していって唐の政府の命令は無視するし、税金だって送ってこない。

 

 ただし、安史の乱で戦乱に巻き込まれなかった江南地方は、比較的唐の政府に対して従順できちんと税金を送ってきた。そのルートが大運河です。唐朝にとって、大運河と江南地方が生命線になります。やがて、ここが唐朝のコントロールから外れる時が唐の滅亡の時となります。

 

唐の滅亡

 安史の乱後、それまでとはまったく異なった税制・兵制で、国家の中身はすっかり以前とは違ったものになりましたが、あと100年ほど唐は何とか存続します。この唐朝に最後の打撃を与えたのが、黄巣の乱(こうそうのらん)(875~84)です。

 

 黄巣は塩の密売人でした。安史の乱後、塩の専売制は唐の大きな収入源だったので、塩の値段はどんどん上げられていきました。塩は生活必需品ですから誰もが買わざるをえない。庶民の生活を圧迫する。だから塩の値段が高すぎれば当然密売人が現れて、政府価格より安く売って莫大な利益を得るのです。政府としては密売をほっておくと収入減になりますから、必死に取り締まりをします。密売人側も、それに対抗して各地の密売組織が連絡をとりあって政府の裏をかく。最後に唐政府は軍を投入して、取り締まりを強化してきた。追いつめられた密売人がおこした反乱が黄巣の乱です。

 

 黄巣の反乱軍は、次から次へと都市を占領して略奪します。一つの都市を食い散らかすと、次の都市に向かう。こういうのを流賊というんですが、神出鬼没でどこにあらわれるかわからない。安史の乱では無傷だった中国南部も大きな被害を受けました。全国を荒らしまわって、最後は数十万の勢力に成長して長安を占領しました。

 

 このときに黄巣軍は長安にいた南北朝以来の貴族たちを、ことごとく黄河に放り込んで殺しています。貴族階級に対する庶民の恨みは強かったんですね。これで貴族は全滅したということです。黄巣は長安で皇帝に即位します。しかし、そのあとすぐに反乱軍自体が内部分裂で解体していく。

 

 唐朝は軍事的にはこれを押さえられないので、黄巣の武将たちに寝返って唐側につくように誘います。寝返ったら節度使にしてやるよ、黄巣の部下をやっていても将来はないよ、ってね。「帰順」をうながす、という。これが、うまくいって有力武将たちが寝返ってくるのです。黄巣は即位後には何をしたらいいかわからなくなるし、部下は寝返るし、敗戦がつづき最後は故郷に逃げ帰って自殺して反乱は終わりました。

 

 しかし、乱後、唐の政府はまったく形だけのものになります。中国全土に節度使が自立して軍閥化している。

 大運河と黄河の合流点、開封という都市があります。ここの節度使に任命されたのが黄巣の反乱軍から寝返った朱全忠(しゅぜんちゅう)という男。907年、朱全忠は唐を滅ぼして皇帝に即位しました。都は開封。国名は後梁(こうりょう)。

 

 後梁は中国全土を支配するだけの力はありません。黄河流域をかろうじて勢力範囲にしただけでした。それ以外の地域には、それぞれの節度使が自立・建国して中国は再び分裂時代に突入します。

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