2024/02/23

唐(12)

https://timeway.vivian.jp/index.html

唐の文化

唐の国際性

 唐は国際性の豊かな時代でした。

 唐の前半は羈縻政策がうまくいって、非常に広い地域が唐の勢力下に入ります。資料集の地図を見ると、その広大さがわかるでしょ。領域内だけでも多くの民族が住んでいるし、貿易、留学いろいろな目的で世界中から雑多な民族が集まってきましたから、都長安は国際色豊かな都市となります。現在でいえばニューヨークです。人口も100万人を超えていて、多分バグダードと並んで当時世界最大規模の都市です。

 

ü  杜甫

ü  李白

 

 李白の詩に、こんなのがあります。

 

「少年行」

  五陵の年少、金市の東

  銀鞍白馬、春風を渡(わた)る

  落花(らっか)踏み尽くして、何(いず)れの処(ところ)にか遊ぶ

  笑って入る、胡姫酒肆(こきしゅし)の中

 

 盛り場を貴公子が春風の中、馬に乗って走っていく。白馬に銀の飾りのついた豪華な鞍をつけていて、見るからに金持ちの貴公子なんです。花びらを踏み散らしながら、どこへ行くのかと李白が見ていたら、やがて胡姫酒肆の中へ入っていった、というんだ。

 酒肆というのは酒場のことです。

 

この詩のポイントは胡姫という言葉。

胡という字は、もともとは異民族という意味で使っていたのですが、唐の時代にはいるとイラン人をさすようになります。胡姫というのはイラン人の女の子。だから胡姫酒肆とくれば、わかりますね。エキゾチックな可愛いイラン娘がお酌をしてくれるキャバレーだね。イラン娘は踊り子かもしれない。

 

 李白は、このような長安の華やかな雰囲気をつたえる詩をたくさんつくっています。商人以外にも、いろいろな仕事で唐に出稼ぎに来ていた西方出身の人がたくさんいたんでしょうね。

 

 外交使節も長安にやってきます。日本からは遣唐使。留学生、留学僧もたくさん連れてくる。日本は新興国家ですから唐に学ぼうと必死です。

 

 遣唐使のような使節をおくる国はたくさんあって、唐からするとこれらはみんな朝貢(ちょうこう)です。中国の皇帝をしたって諸国が貢ぎ物を持ってくる、という解釈をします。対等な外交関係ではありません。そのかわり、朝貢した国は帰りにどっさりおみやげをもらってくる。貿易としては、朝貢国は大儲けです。

 

 アラビア方面からは、インド洋経由でムスリム商人達がやってくる。イスラム教徒のことをムスリムという。唐は広州のまちに市舶司という役所を設けて貿易を管理した。要するに商業税をとった。

 

 イスラム教との関係では、重要な戦いがありますから覚えてください。

 

 タラス河畔の戦い(751)。

 

 現在のカザフスタン、ウズベキスタン、キルギス三国の境あたりで唐とイスラムのアッバース朝が戦いました。東西交易路の奪い合いです。

この戦いで唐は負けた。死者5万、捕虜2万。捕虜の中に紙梳(す)き職人がいたんだ。その結果、製紙法がイスラム世界に伝わることになりました。やがてはヨーロッパまで製紙法は伝えられていきます。

 というわけで、タラス河畔の戦いは文化史上、非常に重要。入試にもよく出る。

 

 ちなみに、この時に唐軍の司令官が高仙芝(こうせんし)という人で、この人は高句麗人です。朝鮮半島出身の人が唐の軍人として、中央アジアでアラブ人のイスラム教徒と戦っている。ワールドワイドな時代になっていますね。

 

 高仙芝は、このあと長安に帰還して安史の乱で反乱軍と戦っています。

 

 この絵をみてください。永泰公主(えいたいこうしゅ)墓壁画です。永泰公主は則天武后の孫娘にあたる人。

 彼女の侍女たちが描かれているのですが、この人が持っている孫の手の大きいもの。これはポロのスティックです。ポロというのは、今でもイギリスなどの貴族たちが楽しむようですが、馬に乗っておこなうホッケーですね。古代ペルシアで生まれた遊牧民たちのスポーツ。この時期には、中国でも流行したことがわかるね。今でいえばテニスラケットを持って記念写真を撮っているようなものです。

 

 こちらの絵、永泰公主墓壁画とそっくりの構図です。これは高松塚古墳の壁画です。見て書いたのではないかというくらい、ふたつは似ている。

 

 これは正倉院にある「鳥毛立女屏風(とりげだちおんなびょうぶ)」。一方のこちらは、中央アジアのオアシス都市トルファンから出土した絵です。両方とも樹木の下に女性が立っている同じ構図で、一般に樹下美人図と呼ばれるものです。構図が同じだけではなくて、女性の顔つきもそっくりです。

 

 こういう絵を見ていると、西は中央アジアから東は奈良まで唐を中心として、一つの文明圏にすっぽり入っているのが実感できます。美人の基準まで同じですからね。

 唐の国際性というのは、こういうところにもでているのです。

 

西方宗教の流入

 東西交流が活発になりますから、西方からいろいろな宗教も入ってきた。

 

 まず、ゾロアスター教。これは当時、祆教(けんきょう)といわれた。イラン人の宗教ですから、胡姫たちとともに入ってきたのかもしれない。

 

 景教(けいきょう)は、ネストリウス派キリスト教。ローマ帝国で異端とされて、東方に拡がってこの時代は中国にも入っている。これは「大秦景教流行中国碑」という有名な碑が残っています。造られたのは781年。高さ276センチ。長安でキリスト教が流行したのを記念して建てられたものです。

 

 マニ教というイラン生まれの宗教も来ました。これは仏教、キリスト教、ゾロアスター教を融合させたもので、イスラム以前の西アジアで信者を多く集めていました。

 

 そして、イスラム教。これは回教(かいきょう)と表現します。

 中国は現在でも多民族国家ですから、イスラム教徒もたくさんいます。現在はイスラム教を信仰しているウイグル人を回民と書いたりします。

 

 北京のまちを歩いているとしゃぶしゃぶ屋さんがたくさんあって、これはほとんどイスラム教徒の経営です。顔つきは漢民族と区別は付きませんが、頭にちょこんと白い小さな帽子をかぶっているのですぐにわかります。

 中華料理の食材に豚肉は欠かせないでしょ。ところがイスラム教では、豚は悪魔が造った穢れた動物だから決して食べてはいけないの。だから、しゃぶしゃぶも繁盛します。本場のしゃぶしゃぶの肉は、もちろん羊です。仏教や道教とともに、これらの宗教の寺院が長安のまちには軒をつらねていたんだ。

 

 遣唐使とともに、唐に渡った天才に空海がいます。高野山を開いた人。かれは当時、中国で流行していた密教を日本に持ち帰るんですが、好奇心旺盛な人だから長安のまちをあちこち探索したに違いないんです。ゾロアスター教や、キリスト教、イスラム教、そんな宗教を日本に紹介する可能性だってあった。想像するだけでもわくわくしませんか。

 

 唐の文化を大きくまとめると、まず国際的な性格。これは今まで話してきました。歴史的には、五胡十六国時代以来の多民族的な側面が発展したものです。

 

 もう一つは貴族的性格です。文化の担い手は、六朝文化を継承する貴族階級です。

 魏晋南北朝以来の総まとめが、唐の文化だったわけです。

0 件のコメント:

コメントを投稿