2024/02/04

唐(10)

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安史の乱

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 755年、安史の乱(あんしのらん)が勃発します。

 反乱軍のリーダー安禄山(あんろくざん)と史思明(ししめい)の二人の名前をつないで安史の乱とよばれます。安禄山は、現在の北京の北方を守備する節度使(せつどし)の長官でした。

 

 ここで、節度使の説明をしておきましょう。唐の兵制は府兵制だったのですが、玄宗の時代くらいから、これがうまく機能しなくなってくる。均田制そのものが形骸化してきたのだろうと思われます。そうなると兵士も集められなくなるのです。羈縻政策も、うまくいかなくなってきました。

 

 そこで辺境防衛のために、新たにつくられたのが節度使という軍団です。兵士は府兵制のような徴兵ではなくて募兵です。お金で雇った傭兵ですね。そして、軍団の司令官は、管轄地域の民政もおこないます。自衛隊の地方駐屯隊の司令官が県知事を兼ねるようなものです。国境を守るためには、この方が機敏に対応できるのですね。ちなみに節度使の長官のことも節度使といいますから注意。玄宗の時代には、北方の国境地域を中心に十の節度使が設けられていました。

 

 安禄山という男は父親がソグド人、母親は突厥人だという。ソグド人というのは中央アジアを中心に活動していたイラン系の商業民族です。そういう育ちもあってか、安禄山は六カ国語が自由に操れた。若いときから現在の北京方面にあった節度使の部下になって、通訳として勤務していたらしい。辺境地域ですから、いろいろな民族と接触する機会が多かったのだろう。安禄山という名前は「アレクサンドロス」の音を漢字にしたという説もあります。これは、多分こじつけですが面白いので紹介しておきます。

 

 この安禄山、すごく機転がきいて人の心をつかむのが上手だった。それで軍団の中で、どんどん出世していくのです。唐は人種、民族関係なしですからね。

 

 出世するために何をしたのかというと、楊貴妃に取り入ったのです。最初は贈り物を届けたりしたのでしょうが、やがて楊貴妃の部屋に入り込んだりする。すっかり気に入られて養子気取りです。楊貴妃に気に入られれば当然、玄宗皇帝に取り立ててもらえます。ついには玄宗にも気に入られる。

 

 安禄山は、ものすごく太っていた。ところが運動神経は抜群で、玄宗の前で軽快なステップを踏んでクルクル回って踊ったりする。その体型と踊りのアンバランスが、いかにもおかしかったらしい。玄宗に大うけ。ご機嫌の玄宗が「お前のそのでっかい腹の中には、何が入っているのか」ときくと、安禄山は「この腹の中は、陛下への真心でいっぱいでございます」なんて答えるのですな。

 

 そんなこんなで最終的には、北方の三つの節度使の長官を兼ねるまでになる。そこまで出世して、なぜ反乱をおこしたのか。

 

 実は同じように、楊貴妃の縁で玄宗に気に入られて出世した人物がいた。楊国忠です。名前からもわかると思うけど、この人は楊貴妃の「またいとこ」です。幼なじみですからね。こちらもスピード出世して、宰相になります。

 

 安禄山は、この楊国忠と滅茶苦茶仲が悪い。二人とも実力ではなくおべっかで出世しているわけで、玄宗に嫌われたらその瞬間に高い地位から転がり落ちる運命。玄宗と楊貴妃の愛を奪い合う関係ですから、ライバルになるのは当然です。

 

 楊国忠は、宰相として常に皇帝のそばにいる。ところが、安禄山はいつも玄宗や楊貴妃のそばにいて、ご機嫌伺いをしているわけにはいかない。勤務地は辺境ですから。節度使の仕事もしなければね。都を離れると、安禄山は気が気ではない。自分がいないあいだに、楊国忠が讒言をして自分を失脚させるのではないか、と心配なのです。

 

 心配しているうちに、安禄山は気がついた。自分は三節度使を兼任して、唐帝国全兵力の三分の一を握っている。玄宗に嫌われるのをビクビク恐れる必要なんか全くない。この兵力をもってすれば、自分自身が皇帝になることだってできる、と。

 

 そんな事情で挙兵するのです。玄宗皇帝の情実に流された人材登用のつけが、一気に爆発した感じです。そもそも節度使は、辺境防衛のためにおかれた軍団です。その軍から国を守る軍があるはずがない。反乱軍は無人の野を行くように進撃をつづけた。率いる軍勢は15万。すぐに洛陽を占領、翌年には長安も占領しました。

 

 玄宗は楊貴妃を引き連れて長安から逃れます。四川省に向けて落ちのびるのですが、逃避行の途中でかれらを護衛する親衛隊が反抗する。安禄山の反乱は楊貴妃のせいだ、と言うのです。この女に皇帝が溺れて政務をないがしろにしたから、こんなことになった。この女を殺せ、と兵士たちは玄宗に迫った。兵士の協力がなければ、逃げのびるどころか自分も殺されるかもしれません。玄宗は田舎のまちのお寺に楊貴妃を連れ込んで、因果を含めて絞め殺させるのです。愛しているのですが、泣く泣く殺す。ここが、玄宗と楊貴妃、世紀の恋愛のクライマックス。

 

 このあと玄宗は反乱勃発の責任をとって退位して、息子の肅宗(しゅくそう)が即位しました。

 

 唐政府は安史の乱を鎮圧するため、ウイグル族に援助を要請した。ウイグル族は突厥が衰退したあと勢力を伸ばしてきた遊牧民族です。国内には、安史の乱を鎮圧できる軍事力がなかったんですね。

 

 一方の安禄山ですが、長安を占領して新政府を建てて皇帝に即位するのですが、その直後に失明する。太っていたから糖尿病だったのかもしれない。おまけに全身皮膚病にかかった。もともと理想や理念があって、はじめた反乱ではありません。皇帝になっても政治運営なんかできない。そこへ失明と皮膚病でやけっぱちになる。絵に描いたような暴虐な人間になってしまって、息子に殺されてしまう。その息子は武将の一人史思明に殺されて、以後は史思明が反乱軍のリーダーになりますが、かれも暴れまわるのだけが取り柄の男で、これもその息子に殺される。史思明の息子は反乱軍をとりまとめるだけの力量がなくて、中心を失った反乱軍はウイグル軍に鎮圧されて、ようやく反乱は終わりました(763)。

 

 9年間の戦乱で華北は完全に荒廃してしまいました。安史の乱の兵士たちには遊牧民出身の者も多かったようで、農民に対する理解や配慮はない。農地は滅茶苦茶になる。農民は畑を棄てて逃げ散る。食糧生産も満足におこなわれない。腹がへっては戦ができません。

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