2024/02/11

ムハンマド(7)

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 で、神はムハンマドに何を言っているかというと、

 

「神は自分だけである。」

「かつて、イエスに言葉を与えたけれど、その後の人類はイエスの言葉を間違って解釈していて、神の教えがゆがめられている。」

「だから、お前ムハンマドに自分の言葉を託すから、人々を教え導け。」

 

こんな事を神はずっとムハンマドに伝えていた。

 

 これが、悪霊の仕業でなく、本当に神の声だと確信したんだから、ムハンマドは布教しなければならないのですよ。それが、預言者というもんです。

 

 ところが、ムハンマドという人は滅茶苦茶に普通の人なんですよ。いきなり、神の声を聞け! なんて言っても、みんな信じてくれないよな、変人扱いされるのが関の山だよな、布教活動なんて恥ずかしいな、って思った。

 

 だから、イエスやシッダールタみたいに、いきなり街角で辻説法なんてできません。どうしたかというと、自分の身内から布教を始めた。身内なら、こいつおかしいんちゃうか? と思っても、いきなり邪険にはしませんからね。

 

 で、最初にムハンマドが布教したのが奥さんのハディージャ。ハディージャは愛する夫の言うことだから、黙って信者になりました。信者第一号です。あと、親戚連中を訪問して布教します。いとこ連中や叔父さんたち。入信してくれる人もあれば、馬鹿にする人もいた。

 

 この布教の初期の頃のムハンマドの行動を見ていると、この人は本当に普通の常識的な人だったんだなあと思いますね。

 

 ところで、信者になった人たちの入信の理由ですが、ムハンマドは他人の前でもしばしば神がかり状態になった。そうなると顔面蒼白になって、身体がブルブル震えて、見るからに異常になる。で、その口から神の言葉がでてくるんですが、神の言葉は詩になっているの。きちんと韻がふんであって、誦むというのにふさわしく、朗々と歌うように神の言葉がでてきた。

 

 ムハンマドは詩の才能は全くない、これは周囲のみんなが知っている。アラビアでは詩のコンテストがあったくらいに、詩人というのは尊敬されていた。そういう、天才詩人がつくるような言葉で神の言葉が語られるのです。ムハンマドには才能はないのだから、やはりこれは神がムハンマドの身体を借りて話しているんだ、と見ている人は思ったそうです。

 

 さて、親戚連中に対する布教が終わると、今度は他人にも布教せざるを得なくなる。ようやく、メッカの商人仲間にも布教を始めるんです。仲間のなかには親切に忠告してくる人もいる。

「お前、馬鹿なことはやめておけ。商人として、一応の地位を築いてきたのに、信用を失うぞ。」

とね。

 

 はじめは、親切心からムハンマドに布教を思いとどまるように言っていたメッカの商人たちですが、ムハンマドから見れば神の声を信じない不届きものですから、かれらの忠告を無視せざるを得ない。自分の布教を邪魔するものとして対立していきます。

 

 また、いつの時代でも新興宗教というのは、うさんくさい目で見られるものです。メッカの有力者、商人たちのムハンマドに対する態度は忠告から、弾圧へと変化してくる。それに対して臆病だったムハンマドも、戦闘的になっていきます。

 

 メッカで弾圧を受けていた頃のムハンマドの言葉です。というか、神がムハンマドに伝えた言葉です。

 

 「悪口、中傷をなす者に災いあれ。彼らは財を蓄えては、それを数えているばかり。財が人を不滅にするとまで考える。必ずや地獄の炎に焼かれるであろう。」

 

「お前は最後の審判などうそっぱちだなどという輩をみたか。連中は孤児を手荒に扱い、貧しい者に糧食を与えようとはしない。災いあれ…。」

 

 蓄財に走る商人、貧しいものを救おうとしない金持ちに対して、呪いの言葉を投げつけているでしょ。ムハンマドは、未亡人や孤児を大事に扱えと教えていますが、この辺は自分の体験がもとになっているんでしょうね。

 

 イスラム教の成立の背景として、メッカなどの商業都市での貨幣経済の活発化にともなう貧富の差の拡大があった、といわれています。うなずけるところです。

 

ヒジュラ

 ムハンマドが布教を開始したのが610年頃、その後、12年間メッカで布教を続けるんですが、弾圧は激しくなるばかりで信者や自分の命すら危ない状態になってきます。

 

 ムハンマドと、その信者たちは弾圧を逃れてメッカから200キロほど北にあるメディナという都市に移住することにした。

 

 622年のことです。ムハンマドなどは追っ手に命を狙われながら、命からがらメッカからの脱出に成功する。このときの信者は、いったい何人いたと思いますか。布教開始から12年ですよ。驚きますよ、信者の数はわずか70人です。たったこれだけ。今の日本にだって、信者数70名くらいの宗教団体ならそれこそ星の数ほどある。

 だから、ムハンマドグループのメディナへの移住は、世界の片隅で起きた小さな小さな事件に過ぎなかったはずです。

 

 ところが、ムハンマドたちがメディナに移住したあと、そこで信者が爆発的に増加するのです。そこで、イスラムではメッカからメディナへの移住のことを「ヒジュラ(聖遷)」と呼び、ヒジュラの年、622年をイスラム暦元年としています。

 

 当時メディナの町はアラブ人、ユダヤ人が住んでいた。アラブ人住民は部族間の対立が激しく、またアラブ人とユダヤ人との対立もあって、非常に不安定な状態だったのです。

 

 一方、移住してきたムハンマドと信者たちは、みんな部族の絆を断ちきってムハンマドについてきた。部族を超えてアラブ人がまとまっている。これは、アラブ人の歴史上始めてのことで、かれらもこのことを意識している。

 

 部族を超えた信者たちのまとまり、共同体のことを「ウンマ」という。「ヒジュラ」とか「ウンマ」というようなイスラム独特の表現は、しっかり覚えてください。

 

 部族対立が激しくなっていたメディナの町で、ムハンマドたち「ウンマ」の存在は部族を超えた中立な調停者としての立場を得ることになった。ムハンマドは、相争う勢力を自分の同盟者、ウンマの一員にすることでメディナに安定をもたらした。

 宗教的というより、政治的に勢力を拡大するのです。

「部族対立を解決したかったら私の信者になり、ウンマの一員になりなさい。」

ということです。

 

 メディナで勢力を広げる過程で、ムハンマドは自分の宗教の儀礼を定めて、宗教としての体裁を確立していきます。この段階でイスラム教というものになった、ということです。

 

 メディナでイスラム教のウンマがある程度の大きさになると、砂漠の遊牧諸部族もこれと同盟を結んだ方が有利と考えるようになる。部族間の小競り合いは、しょっちゅうある。イスラムの信者を兵力として借りることができれば、それだけ敵より有利になるよね。

 

 ムハンマドはそういう部族に対して、信者になったら助けてやる、という。いわれた部族は丸ごと入信します。敵対部族もやっつけられないためには、自分たちもウンマの一員になればよい。こっちも部族丸ごと入信するわけだ。

 こんなふうに、あとは雪崩式に勢力は拡大していった。これが、イスラムの発展になるのですが、結果としてこういう布教方法は、国家を持たなかったアラブ人に政治的まとまりをもたらすことになったのです。

 

 部族に関係なく、信者はみんな平等だと教えるムハンマドの言葉を紹介しておきましょう。

 

 「もはや何人たりとも、地位や血筋を誇ることは許されない。あなたがたはアダムの子孫として平等であり、もしあなたがたの間に優劣の差があるとすれば、それは神を敬う心、敬神の念においてのみである。」

 

 630年には、ムハンマドは、ずっと敵対してきたメッカを征服、631年にはアラビア半島を統一しました。

 おっかなびっくり始めた宗教活動が、アラブ人をまとめるまでになった。すでに、イスラム教そのものが国家です。

 

 その翌年、632年にムハンマドは死去します。

 しかし、かれの死後、イスラムはさらに発展していきます。

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