2025/02/27

ミクロネシアの神話伝説(4)

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【エタオとジェメリウットの訣別】

エタオとジェメリウットが、マジュロ島を訪れたときのことです。2人が小道を歩いていくと、向こうから大きなサーフボードを担いだ男がやってきます。2人と出会っても道を譲ろうともせず、2人のほうが道をゆずりました。エタオはこのことに腹を立て、サーフボードを思い切り重くして、おまけに2度と肩からはずれないようにしてしまいました。

 

ジェメリウットは、ちょっと気が引けましたがエタオは笑っています。サーフボードの男は

「俺は今まで色んな魔術師を見てきたが、あんたのような偉大な魔術師には出会ったことが無い。俺が悪かった。どうか助けてくれ。」

と懇願し、おだてに弱いエタオはすぐさま術を解いてやったばかりか、ボードも軽くしてやりました。

 

ジェメリウットは、弟のこういうわがままさに辟易してきました。ジェメリウットは、この島で極上の美人と結婚することにしたのですが、弟に知れると何をされるかわからないと考え、秘密裡に結婚して人里離れたところに家を構えました。しかし、エタオが知らないわけはありません。島の人達みんなとの宴会の時、エタオは魔法の虫をジェメリウットの着物に這わせていき、身体中を痒くさせました。たまらなくなったジェメリウットは、みんなの前で着物を脱いで裸にならざるを得ず、大恥をかいてしまいました。

 

さすがのジェメリウットもこれには腹を立て「俺にだって少しは魔法が使えるんだ」と、魔法のサソリを出現させてエタオに向かわせますが、サソリは一瞬でやられてしまいました。ジェメリウットは「エタオ、お前には何をやってもかなわない。頼むからもう構わないでくれ」と、弟に頼みます。

 

エタオは、もとより兄が憎いわけでもなんでもなく、兄から嫌われるとは思ってもみなかったので

「いや、兄さん、僕が悪かった。気分直しに海で泳ごう。僕は遅い亀になるから、兄さんは速いイルカになっていいよ」

となだめます。

 

2人は海に出て、しばらく楽しく過ごします。と、そこに漁師が通りかかり、それを見たエタオは またつまらないイタズラを思いつきます。漁師のすぐ近くで「バッシャーン」と大きくひれを叩いてみせたのです。それまで全然気がついていなかった漁師は、浜のすぐ近くに大きな亀と大きなイルカがいることに驚き、これは大した獲物だとばかりに、まず亀に向かって銛を投げつけます。銛は亀の甲羅で簡単に跳ね返され、勢いでイルカの胴体に深く突き刺さってしまいました。

 

2人はすぐに人間の姿に戻りましたが、ジェメリウットは

「お願いだ。もうこれ以上関わり合いになるのはやめてくれ。島に戻って父さんに、ジェメリウットは死ぬまでこの島で暮らすことにしたと伝えてくれ」

とエタオに冷たく言ったのです。その後、ジェメリウットはマジュロの島で王となり、善政を敷いて人々から慕われ続けた、ということです。

 

【エタオとコネの木のカヌー】

エタオはマジュロを後にする前、ちょっとしたいたずらをしかけていました。彼は速く走るカヌーが欲しかったのです。当時、マジュロでカヌー作りの名人と言えば「ココ」という名の男で、ココのカヌーは速くカッコよく、マストや索具も美しく飾られていました。その上、相当な重さの荷物も運べる、という優れたものでした。

 

エタオは計略を巡らし「あのカヌーと交換できるようなカヌーを作ってしまえばいいんだ」と考えます。そこでエタオは、手近にあったコネの木(この木は鉄木(てつぼく)」と言われる大変堅い木で、カヌーになどしようものなら沈んでしまいます)を切り出し、カヌーのかたちにすると、それをピカピカに磨き上げ海岸に運んでくると、一見海に浮かんでいるように見えるように細工しました。(実はカヌーの底に台を当てて、水中に置いてあるだけ)

 

このピカピカのカヌーは人々の注目を集め、噂をきいたココもやってきて

「うーん、これは俺のカヌーよりもたくさんの荷物を運べそうだ。それに、何と言っても美しい」などと褒めます。ここぞとばかりに、エタオは「君のと交換してやってもいいよ」と持ちかけ、「本当か?いいのか?」というココの言葉も終わらぬうちに、ココのカヌーに乗って去っていきました。

 

エタオの詐欺はすぐにばれ、怒った人々は四方八方からエタオを追います。エタオも必死で逃げ、迫ってくる人々に向かって積んであった石を蹴りつけます。あまりにも多くの石を蹴りつけたために、現在、マジュロ環礁の東半分に見られる小さな島々は、このときに堆積した石がもとになってできたと言われています。

 

エタオは無事に逃げ切り、勝利の歌を歌い大海原を心地よく航海していきました。このとき彼が歌った歌も、現在に至るまでマジュロで歌い継がれているということです。

 

【パラウ】

その昔、パラウの島々がまだ1つの大きな島であったころ、ウアブという名前の子供が産まれました。この子は小さな頃から異常な大食いで、ばくばく食べてはどんどん大きくなり、子供の頃にはすでに大人の数倍の大きさにまで育っていました。母親は、自分の家の食料だけではもう養育できなくなり、村長に相談して、村として養ってもらうことにしました。

 

パラウの巨人ウアブ

しかし、ウアブの食欲はその後もとどまることを知らず、身体はますます大きくなり、やがては村で採れる食料でも足らなくなってきます。もともと豊かな村ではあったものの、このままでは村人全員が飢死してしまうと危惧した人々は、やむなく眠っているウアブを縛り上げ、彼を焼き殺そうと火を付けます。

 

熱さで目を覚ましたウアブは大暴れ。そのときに彼が自分の脚ごと蹴り飛ばしたのが、今のペリリュー島。そのおかげでペリリューの人々は、今でも走るのが速いそうです。お腹のあたりが一番大きなバベルダオプ島になり、ここの人々は決して飢えることがなく、ちょっと下品なところでは彼のペニスからできたアイメリク島では、一番雨が多いそうです。

 

などなど、ウアブはパラウの島々の起源に深く関わっており、人々は「昔、我々がウアブを養った恩返しで、今ではウアブが我々を養ってくれてるのさ」と語っています。

 

【ポンペイ】

その昔、サプウキニという聡明な男がいました。彼はシャカレンワイオという小さな島に住んでいましたが、島があまりにも手狭になったので大きなカヌーを作り、16人の人々と共に大洋に漕ぎ出しました。

何日もの航海の後、リダキカというあたりで巨大な鮹に出会い、鮹に「一体どこから来たのか?」と訊くと、「ちょっと南のほうの浅瀬に住んでるんだ」との答。サプウキニ達は、その浅瀬を目指すことにしました。浅瀬のあたりは珊瑚があちこちに顔を出していて、気候も良さそうです。

 

サプウキニは、ここに人が住める島を作ってしまおうと決意します。

人々は力を合わせて珊瑚や岩を積み上げますが、大きな波が来るたびに流されてしまいます。そこで、サプウキニは人工島の回りにマングローブを植え、波よけにしてはどうかと考えます。(今でも、ポンペイの海岸がマングローブで覆われているのはこのためです)

 

計画はうまくいき、完成した島には大きな祭壇(ペイ)が設けられました。その後、大きくは3つの部族が島に移り住み、今のポンペイの4大部族の祖先となりますが、ポンペイ(石の祭壇の上、という意味)という名前は、サプウキニが設けた祭壇が元になっているとのことです。

2025/02/25

アッバース朝(7)

イスラム科学

アッバース朝では、東ローマ帝国への対抗意識と、アッバース家を権力の座に押し上げたペルシア社会の影響、さらには歴代カリフの個人的好みと名声への野望から、科学分野が飛躍的な発展を遂げた。ソフト面ではクルアーンを読むために必須とされ、イスラム圏で事実上の共通言語としての地位を築いていたアラビア語、ハード面では唐から伝わった製紙法が科学技術の発展に決定的な影響を与えた。製紙法は751年のタラス河畔の戦いの際、捕らえられた唐軍の捕虜の中に紙漉き工がいたことからアッバース朝に伝わり、757年にはサマルカンドに製紙工場が建設された。793年にはバグダードにも製紙工場ができ、イスラム世界に紙が普及することとなった。

 

二代目カリフ・マンスールは、サーサーン朝ペルシアの宮廷で行われていた占星術を利用した政治運営を継承しようとした。そのために、宮廷に占星術師を数多く召し抱え、占星術の実践に必要な天文知を異文化からアラブに積極的に取り入れた。マンスールは、新都バグダードの建設の日程を宮廷占星術師ナウバフト、マーシャーアッラーらに占わせた。ナウバフトはペルシア人、マーシャーアッラーはユダヤ人である。

 

また、インドから来た外交使節のなかに天文学についてよく知る者がいたので、占星術師に命じてその天文知をアラビア語へ翻訳させた。当時のインドの天文知は、天文計算に関する問いと答えを暗記に適した韻文の形式でまとめたもので、口承ベースで伝達されるものであったが、これにより、アラビア語、アラビア文字を使って文書化されることになった。また、インドで考案された正弦や、インド数字を使用する十進位取り記法が利用されるようになった。

 

翻訳者はファザーリーと言われ、この人物はイスラーム圏ではじめてアストロラーベを製作した者であるともされる。なおビールーニーによると、ファザーリーの翻訳したインドの天文知は、インドにいくつかあった天文知の体系のなかでもブラフマグプタの『ブラフマスピュタシッダーンタ』であったとのことである。しかし20世紀以後の検証により、それにはさらにサーサーン朝のシャーの命により作られた天文書の内容も組み込まれていることが判明した。

 

天文計算に関する問いと答えを簡潔にまとめたスタイルの天文書は「ズィージュ」と呼ばれ、ファザーリー以後、何度も改訂・継承されていくうちに、アラビアの天文書の中で主要ジャンルとなった。現存する最古のズィージュは、七代目カリフ・マアムーンのころから活動していたハバシュのものであるが、これにはインドの天文書にはない天文データ表が含まれている。プトレマイオスの『アルマゲスト』に倣ったもので、アッバース朝下の自然科学は、このころからギリシアの天文学の影響が顕著になってくる。マンスールがはじめた異文化の翻訳と文化受容はラシード、マアムーンにも引き継がれたが、そのころにはペルシア語著作あるいはペルシア語を介したギリシア語著作の重訳から、ギリシア語著作の直接翻訳あるいはシリア語を介した重訳に移行した。三村 (2022) によると、そのような変化には宮廷における強力な議論方法として<論証>の重要性の認識があり、厳密な幾何学的論証に裏付けられているプトレマイオス天文学などギリシア科学への関心が高まったという。

 

マアムーンは科学振興のため、バグダードに「知恵の館バイトル・ヒクマ」という天文台付きの図書館を建てたと言われる。ヨーロッパのオリエンタリストはアレクサンドリア図書館の模倣であろうと言い慣わしてきたが、サーサーン朝期のジュンディーシャープールにあった学院がモデルであるのは疑いない。その存在には疑問符も付けられ、21世紀現在は少なくとも施設として存在したことはないとされている。しかし、マアムーンはピラミッドの内部を調査するため穴を開けさせ、学者たちに地球の大きさを測量させたという、知的好奇心にあふれた君主であった。彼の宮廷では、キンディーやフナイン・イブン・イスハークらが活躍して、大規模で網羅的なギリシア科学書の翻訳が行われた。バヌー・ムーサー三兄弟やファルガーニー、ムハンマド・イブン・ムーサー・フワーリズミーも、マアムーン宮廷に出仕した天文学者である。

 

10世紀の書籍商イブン・ナディームが伝える逸話の中で、マアムーンは夢の中でアリストテレスに出会い「美とは何か」と質問したという。五十嵐 (1984)によると、アッバース朝カリフと古代の哲学者の問答の逸話には、美が何よりもまず知性の領域で問われている点と、その知性が発現され錬磨される領域が法に基づく共同社会であると規定されているという点でイスラームの特徴がよく表れており、さらに、知性と美は融合的理念である、共同体の中で、善美なる行為を積むことが人間にとっても本来的な在り方であるという価値観が示されている。ここでいう「知性」は、プロティノスの流出論の影響のもとでイスラームに取り入れられた叡知体を指す言葉であり、古典期からヘレニズム期にかけての古代ギリシアの知の伝統を継承した言葉である。そして、知性の働きにより善美なる行為を積むことこそ神に報いる道であるとして修業に励んだのがスーフィーたちである。

 

スーフィズムは、アッバース朝が成立した8世紀半ばにバスラのラービアが現れ新たな局面を迎えた。ラービアは神の美とその完全性、ただそれだけのために神を崇拝し、禁欲的苦行を重視した宗教心に神への純粋な愛という観念をはじめて持ち込んだ。アッバース朝期、特に五代目カリフ・ラシードから七代目マアムーンのころ、イスラーム法は体系化が進み、神学論争が活発になされた。結果、神の唯一性の理論は精緻に整えられ、六信五行といった儀礼的規範の規定が細かく決められていった。

 

しかし民衆にとって、信仰は理屈ではなく、神はもっと身近に感じられるものであるはずであった。神への愛を深め、神との一体感を得るため修業するスーフィーたちは、このようにアッバース朝下でのイスラームの制度化を背景に現れた。9世紀のスーフィー、エジプトのズンヌーンは「知性」などのいくつかの神秘主義用語を定義し、後続の神秘家に大きな影響を与えたが、彼は神秘家であると同時に錬金術師であった。低次の魂を浄化された安らかなる魂へと転換するという点で、スーフィーの目的は精神的錬金術であるともされる。

 

錬金術に関しては9-10世紀に、膨大な量の文献がギリシア語やシリア語からアラビア語へ翻訳された。そのうち、のちにラテン語へ翻訳されたものは、ごく一部にすぎない。伝説的な錬金術師ヘルメスの教えとする文献が2000点にのぼる。有名な緑玉板の初出は、マアムーンの宮廷に献上された著者不明の論文である。エジプトで受け継がれてきたヘルメス主義が、バグダードの宮廷にもたらされるに至った途中には、ハッラーンの「サービア教徒」がかかわった。彼らは古代メソポタミアから続く月神崇拝、星辰崇拝、偶像崇拝を実践していたが、マアムーン期に迫害を避けるために、クルアーンにおいて啓典の民として言及される「サービア教徒」を自称するようになった民である。

2025/02/20

アッバース朝(6)

軍事

首都バグダードはペルシアの円型要塞を参考にして建造されており、3重の頑丈な城壁に囲まれていた。基部の厚さ32メートル、高さ27メートルとされる巨大な主壁の内部には、100平方メートル近い広さを有する金曜モスク、高さ50メートルに及ぶ緑の巨大なドームに覆われた豪華なカリフの宮殿があった。主壁の内側と外側には鉄製の巨大な扉が設けられ、4000名の近衛軍が配置された。

 

アッバース朝は、月給をもらう常備軍を備えた国家であった。貴族や封建騎士ではなく、官僚と常備軍に支えられた国家とは、近代ヨーロッパが理想とした国家であり、ヨーロッパではようやく19世紀になって実現した。アッバース朝は、そのような体制を8世紀には実現していた。

 

アッバース朝では、中央アジアの遊牧トルコ人との交易が盛んになって以降、マムルークと呼ばれる軍事奴隷の取引が盛んになった。優れた騎馬技術を持つトルコ人の青年は、購入後に一定のイスラム教育を施され、シーア派の台頭で混乱に陥った帝国の傭兵として利用された。マムルークはカリフを初めとする各地の支配者の近衛軍になった。アッバース朝のマムルークの数は7万人から8万人に達し、俸給の支払いが帝国財政を圧迫するようになった。

 

交通

アッバース朝の大商圏を支えたのが、バグダードから伸びるホラーサーン道、バスラ道、クーファ道、シリア道の4つの幹線道路で、それぞれがバリード(駅逓)制により厳格に管理されていた。中央と地方の駅逓局が管理する道路は、幹線を中心に数百に及んでいたとされ、道路に沿い一定間隔で設けられた宿駅にはラクダ、ウマ、ロバなどが配置され、公文書の伝達が行われた。緊急の場合は、伝書鳩も使われたという。道路上を公文書が行き交っただけでなく、各地の駅逓局が積極的に情報収集を行い、官吏の動静から穀物物価に至るまで種々の情報を定期的に中央政府に提供した。バグダードの駅逓庁には各地の物産、民情、租税の徴収額、官吏の状況などの膨大な情報が集められ、帝国内部の各駅までの道路案内書も作られた。そうした情報はカリフだけでなく、商人や旅行者、巡礼者も利用することができた。

 

農業

アッバース朝ではユーラシア規模の農作物の大交流が進み、インド以東、アフリカの農産物がイスラム圏に広がった。南イラクでは、アフリカ東岸から連れてこられたザンジュと呼ばれる黒人奴隷を利用し、商品としての農作物が大量に栽培された。伝統的な農作物に加えて、米、硬質小麦、サトウキビ、綿花、レモンなどのインド伝来の栽培植物の栽培が進められた。技術面ではイラン高原のカナート(地下水路)を用いた砂漠、荒地の灌漑方法が西アジアから北アフリカ、シチリア島、イベリア半島に広まり、農地面積が著しく拡大した。農業の振興がイスラム諸都市の膨大な人口を支えた。

 

経済

アッバース朝では、東ローマ帝国のノミスマ金貨による金本位制とサーサーン朝による銀本位制が引き継がれ、金銀複本位制がとられていた。しかし、10世紀頃には銀を精錬するための木材不足、銀鉱脈の枯渇から、深刻な銀不足がイスラム圏を襲うようになる。そうしたなかで、ヌビアやスーダンで金の供給量が増すと、次第に金貨の比重が高まっていった。いずれにしても、金、銀の供給量は経済の拡大に追いつけず、銀行業が発展して小切手が一般化した。バグダードには多くの銀行が設けられ、そこで振り出された小切手はモロッコで現金化することが出来たといわれる。また、この時代、ムスリム商人が複式簿記を発明し、ジェノヴァ、ヴェネツィアを経由してヨーロッパに伝わった。

 

アッバース朝では道路、水路に沿って形成された諸都市の中心部の市場(スーク、バザール)が商取引の場とされた。しかし、イスラム法による商業統制は緩やかなもので、商人の活動は比較的自由であり、商業の活性化に寄与した。帝国内の諸地域にはそれぞれの特産物があり、地中海のガレー船、北欧のヴァイキング船、インド洋のダウ船、中央アジアの馬、砂漠地帯のラクダというような種々の交易手段の往来が活性化し、港湾、キャラバンサライ(隊商宿)というような商業施設が成長した。

2025/02/18

ミクロネシアの神話伝説(3)

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ここでは、マーシャル諸島から東カロリン諸島で語り継がれている、半神、トリックスター「エタオ」の物語をご紹介します。

 

トリックスター(trickster)とは創造的で破壊的、いいところもあれば悪いところもあるという、功罪半ばする半神のことを指して言われます。普段はいたずら好きで悪いことばかりしてますが、いざとなると頼りになるという、結局なんだかんだいいながら人気のあるモチーフのようです。ハワイ、あるいは広くポリネシアのトリックスターといえばマウイが有名ですが、ミクロネシアにも、このトリックスターの神話がいくつか伝わっており、これもその1つです。

 

エタオ(Etao)とは、マーシャル語でそのものずばり「いたずら者」という意味です。(Letao、と書かれることもあるようです)

彼は変身が得意で、ハンサムな男にも美女にも老人にも、あるいは魚にも果物にも化けることができたので、その技を使ってしょっちゅう人々をからかって楽しんでおり、そのせいかマーシャル諸島では、何か悪いことが起きるとたいてい「エタオにやられた」というひどい言われ方をしているようです。

 

【エタオと怪物鮹】

昔、ある村にレロランという大変村人思いの村長がいました。ある日のこと、村の沖合に怪物蛸が出現し、村人を襲うようになってしまいました。レロランは、カヌーにいっぱいの食料を積んで単身沖に出ます。食料を海にばらまきながら鮹をおびき寄せ、陸に上げて捕らえようという作戦です。

 

何度かの失敗の後、レロランはうまく鮹を陸におびき寄せることに成功しました。しかし、なんということ。鮹は陸に上がっても全く弱ることなく、レロランに向かって来るではありませんか。慌てたレロランは、エタオの小屋に飛び込んで助けを乞います。

 

エタオは昼寝をしていましたが、話を聞くと

「そりゃ面白そうだ。お前は梁の上にでも隠れて見てろ」

と、泰然自若。やがて入り口に鮹がやってきて

「今ここにレロランが逃げてきただろう?」と訊ねます。

 

「いや、そんな男は知らん。まあ上がってゆっくりしていけ」とエタオ。

「俺は腹が減っていてレロランを喰いたいんだ。そんなヒマはない。」

「まあ遠慮するな。ゆっくり歌でも歌おう。俺は歌が好きでな。」

「何だと?(怒)」

「ほらもう日が暮れる。歌うにはいい時刻だ。まあちょっとだけでも」

「しようがないな、じゃあちょっとだけ」

「そうこなくちゃ。じゃあ、まず、お前さんからどうぞ。」

「何だと?(怒)。俺は疲れてるんだ。お前から先にしろ。」

「いやいや、それは礼儀に反する。お客様からだ。」

 

鮹は仕方なく、あろうことかレロランが鮹を捕まえに来たときに歌っていた歌などうたいます。エタオがそれに応えて歌ったのが子守歌。ココナツの葉をゆりかざしながら「あー眠いー、まぶたが重いー」などと歌い、その抑揚のきいた声で鮹はとうとうウトウトしはじめ、ついに眠りに落ちてしまいました。

 

「おいレロラン、降りて来い、手伝え。」と、エタオ。怪物鮹はいろんなところに毛が生えており、エタオとレロランは協力してその毛をエタオの小屋の柱にくくりつけ、また、一部は互いに撚り合わせて身動き取れなくしてしまいました。そして最後に小屋に火を付け、怪物蛸を小屋ごと燃やしてしまったのです。

村人は、レロランが無事に帰って来たことを喜び、安心して漁に出られるようになりました。

 

【エタオの母】

エタオには、ジェメリウットという名前の兄がいました(Jemeliwut:虹の意)。また、彼らの母親はリジョバケ(Lijobake:高貴な亀、の意)という名前の亀の女神で、遠く離れたBikar環礁近くの海底に住んでいました。Bikarというのは、マーシャル諸島のはずれにある海鳥と海亀の楽園のようなところで、その砂浜は彼らと彼らの卵で埋め尽くされているようなところです。

 

ある日、エタオは兄さんと一緒に母親を訪ねに行くことにしました。道のりは随分遠く、彼らの喉はからからです。やがてBikarに到着、母親も喜んで海底から姿を現します。

「母さん、喉が乾いた、何か飲み物は無い?」

と、ジェメリウット。リジョバケは海底に住んでいながら、真水が好きでしたので、ちょっと待ってなさい、というと小屋の中から器に入った水を持って来ます。

 

ところが、その器も水もずいぶん薄汚れており、ジェメリウットは「こんなもの飲めないや」というと、器をそのまま返してしまいました。ところがエタオは、「じゃあ僕がもらうよ」と言うやいなや、目をつぶって一気にその水を飲み干してしまったのです。

 

・・・母親は彼らに、それぞれお土産に自分の甲羅の一部を持たせました。

しかし、エタオには彼女の肩のあたりの美しい甲羅を持たせ、ジェメリウットには尻尾の当たりのあまり美しくないところをあげたのです。まあ、気持ちの問題ですね。エタオはその上、生と死すらコントロールできる不思議な力を母親から授けられたのです。

 

エタオが何にでも変身できる技を持つことができるようになったのは、このときからだと言われています。しかし、母親は、このとき魔術だけ授けて、聡明さや親切さを授けるのを忘れてしまったために、エタオのいたずらは歯止めがなくなってしまった、ということです。

 

【エタオ、火をもたらす】

エタオとジェメリウットは、一緒にマーシャルの島々を訪ね回っていました。そんなある日、彼らはリキエップ島に到着しました。彼らはたいそうお腹が減っていましたが、釣り具を持っていません。誰かに貸してもらおう、と考えていました。

 

最初に出会った男に頼んだところ「自分のを使えばいいじゃないか」とケンもホロロです。その後何人かに頼みましたが、誰も見知らぬ2人に釣り具を貸してくれようとはしません。「そういうことか。それならば」とエタオは怒って人々をコネの木に変えてしまい、エタオが許すまで2度と動けなくしてしまいました。

 

2人がなおも暫く海岸を歩いていくと、子供達が釣りをしているのが見えました。しかしながら1匹も釣れていません。「ちょっと釣り竿を貸してごらん」とエタオ。エタオはたくさんの魚を釣り上げ、みんなに分けてやります。気分が良くなった彼は、釣り具を貸してくれた少年に

「いまからとっても不思議なことを教えてあげよう。火の起こし方と調理の仕方だ。君は、リキエップで最初に火をおこすことができる人間になれるんだ」

 

そのころリキエップでは誰も火の起こし方を知らず、皆、魚を生のままで食べていたのです。

というわけで、エタオは少年に火の起こし方と、ウム(蒸し焼き)料理の作り方を教え、ついでに火種にした石を魚籠に入れて持たせてやります。

少年は走って家に戻り、両親にこの大ニュースを伝えました。ところが、魚籠に入った火種はその後もくすぶり続け、やがて家に燃え移って全焼してしまったのです。

 

少年は泣きながらエタオのところに戻って「何もかも燃えちゃったじゃないか!」。エタオは笑いながら「心配するな。家に戻ってごらん」。実際、少年が家に戻ってみるとあら不思議、家はもとのまま建っているではありませんか。・・・このときから、リキエップ島では、みんなが自由に火を使えるようになたっということです。

2025/02/13

アッバース朝(5)

政治的混乱

9世紀後半になると、多くの地方政権が自立し、カリフの権威により緩やかに統合される時代になった。892年にはサーマッラーからふたたびバグダードへと遷都を行ったが、勢力は衰退を続けた。

 

10世紀になると、北アフリカにシーア派のファーティマ朝が、イベリア半島に後ウマイヤ朝が共にカリフを称し、イスラム世界には3人のカリフが同時に存在することになった。さらに945年、西北イランに成立したシーア派のブワイフ朝がバグダードを占領し、アッバース朝カリフの権威を利用し「大アミール」と称し、イラク、イランを支配することとなった。これにより、アッバース朝の支配は形式的なものにすぎなくなったが、政治的・宗教的権威は変わらず保ち続けていた。

 

そうしたなかで、イスラム世界の政治的統合は崩れ、地方の軍事政権が互いに争う戦乱の時代となった。長期の都市居住で軍事力を弱めたアラブ人は、もはや秩序を維持する力を持たず、中央アジアの騎馬遊牧民トルコ人をマムルーク(軍事奴隷)として利用せざるを得なくなる。

 

1055年に入ると、スンニ派の遊牧トルコ人の開いたスンニ派のセルジューク朝のトゥグリル・ベグがバグダードを占領してブワイフ朝を倒し、カリフからスルタンの称号を許されて、イラク・イランの支配権を握ることとなった。

 

アッバース朝のイラク支配回復

11世紀末からセルジューク朝は衰退をはじめ、1118年にはイラク地方を支配するマフムード2世はイラク・セルジューク朝を建て、アッバース朝もその庇護下に入る。しかし、イラク・セルジューク朝は内紛続きで非常に弱体であり、これを好機と見た第29代カリフ、ムスタルシド、第31代カリフ、ムクタフィーらは軍事行動を活発化させ、イラク支配の回復を目指した。第34代カリフのナースィルは、ホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・テキシュを誘ってイラク・セルジューク朝を攻撃させ、1194年にイラク・セルジューク朝は滅ぼされる。これによりアッバース朝は半ば自立を達成するものの、ホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドと対立した。

 

モンゴル襲来とバグダード・アッバース朝の滅亡

1220年、チンギス・カンの西征によってホラズムがほぼ滅亡すると、いっときアッバース朝は小康を得るがモンゴルの西方進出は勢いを増してゆき、モンゴル帝国のモンケ・ハーンはフレグに10万超の軍勢を率いさせたうえでバグダードを攻略させた(バグダードの戦い、1258129 - 210日)。

1258年、当時のカリフであったムスタアスィムは、2万人の軍隊を率いて抗戦したものの敗北を喫し、長男、次男と共に処刑された。その後、7日間の略奪により、バグダードは破壊された。バグダードの攻略で80万人、ないし200万人の命が奪われたと言われている。ここで、国家としてのアッバース朝は完全に滅亡した。

 

バグダード・アッバース朝の滅亡後

カイロ・アッバース朝のカリフ存続

1261年、アッバース朝最後のカリフの叔父、ムスタンスィルが遊牧民に護衛されてダマスカスに到着したとの知らせを受けたマムルーク朝第5代スルタンバイバルスは、この人物をカイロに招き、カリフ・ムスタンスィル2世として擁立した。カリフはバイバルスにアッバース家を象徴する黒いガウンを着せかけ、これをまとったバイバルスはカイロ市内を騎行したと伝えられる。これ以後、250年にわたって次々と位に就いたが、彼らはマムルーク朝に合法性を与える価値があったため、スルタンの手厚い保護を受けることができた。

 

カイロ・アッバース朝の滅亡

1517年、オスマン帝国のセリム1世によってマムルーク朝が滅ぼされると、最後のカリフ・ムタワッキル3世は数千人によるエジプト人のアミール、行政官、書記、商人、職人、ウラマーなどを伴ってイスタンブールに移住した。このとき、エジプトの民衆は深い悲しみに陥ったと伝えられる。アッバース家のカリフの存在は、2世紀を経て、エジプトのムスリムのなかに根を下ろすようになったとみるべきであろう。

 

その後、セリム1世はムタワッキル3世以降のアッバース家のカリフの継承を認めず、1543年にムタワッキル3世が死ぬとアッバース朝は完全に滅亡した。歴史家のイブン・イヤースは、この滅亡の経緯について「セリム・ハーンが犯した最大の悪事」であると断じている。

2025/02/08

ミクロネシアの神話伝説(2)

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【テルケレルとテムドクルの「眼」】

天上界では、番人のテムドクルが盗まれてしまったために誰でも直接ウチェルの宮殿に入り込んでくるので、ウチェルは大弱りです。急いで部下のチェリッド(精霊)達を集め、7人の精鋭を選んで「無事にテムドクル奪回するまで決して帰ってこないように」と厳しく言い渡します。

 

チェリッド達は、奪回の準備としてココナツを焼きます。なぜそんなことをするかというと、精霊は皆、焼いたココナツが大好きで、うまく焼いておけば目的地に近づいたとき、緑色のトカゲの精霊が出てきて道案内をしてくれるからです。

 

準備の整った彼らは地上へと向かい、パラウ中を探し回りました。やがて、ンガレケブクルの村に差しかかったとき、ココナツの実が割れて中から緑のトカゲが飛び出し、森の中へと入っていきます。チェリッド達は急いで後を追い、まず到着したのがテルケレルの母、ミラッドの家です。ミラッドはチェリッド達が、ココナツの実にはさんだ焼き魚が大好きであることを知っており、彼らにそれを出して歓待しました。

 

大変満足したチェリッド達はとうとう、テルケレル達のいるバイの前に到着し、そこにテムドクルが安置されているのを発見します。ところがなんということ、テムドクルの眼が無くなっているではありませんか。これではもう、番人とするわけにはいきません。しかも、その「犯人」はミラッドだということです。実はテムドクルが天上に持って行かれないように、ミラッドが気を利かせて眼を取り去っておいたのです。

 

チェリッド達は、ミラッドの家に戻りましたが、ついさっきあれほど歓待してくれたので怒るわけにもいかず、彼女にこう告げます。

「テムドクルの眼を盗まれた我が王ウチェルは大層、お怒りだ。次の新月までに、地上に大洪水をもたらすだろう、とりあえずお前だけに予告しておく。」と言って去っていきました。

 

予告通り、新月を待たず大雨が降り始め、島は大洪水となります。ミラッドはテルケレルと協力して、大きないかだを作っておいたためにとりあえずは無事でしたが、他の人々はみな溺れてしまいました。ところが、いかだを大きなパンの木にくくりつけておいたロープが短かすぎ、いかだは転覆、ミラッドもとうとう溺れ死んでしまったのです。

 

結局、テムドクルの眼は、テムドクルにも天上にも戻らず、パラウの島のどこかに残りました。その後、この「テムドクルの眼」は小さく分けられて最近までパラウの通貨となり、大変高価なものとして珍重された、ということです。

 

また、テムドクルの石像は1870年まで実際にンガレケブクルに存在しており、その年、ドイツの学者がこれを持ち帰って、今ではStuttgartのリンデン博物館に収蔵されているそうです。

 

【テルケレルと命の水】

ミラッドを失ったテルケレルは大変悲しみ、天上に出かけていって7人のチェリッドに彼女が死んだことを告げると共に、何とか生き返らせることはできないかと相談します。

 

チェリッド達にとっても彼女の思い出は優しいものであり、何しろ地上で唯一の女性になってしまっているので、放って置くわけにはいきません。早速、テルケレルと一緒に地上に降りると、樹上に引っかかっていた彼女を取り下ろし丁寧に寝かせます。「これは命の水が無いとだめだな」とチェリッド達。

 

彼らはすぐに天上に戻ると、王ウチェルに頼み込んで命の水を分けてもらいます。それをタロの葉で大切にくるむと、もと来た道を引き返します。ところが、その道の途中にはハイビスカスの植え込みがあり、焦っていた彼らはその植え込みに足を取られてあろうことか、命の水をこぼしてしまったのです。そのせいで今でもハイビスカスは、どんな小さなかけらからでも木が育つようになり、逆に人間は必ず死ぬという運命になってしまったのです。

 

チェリッド達は再び宮殿に戻り、王に命の水をねだりますが、ウチェルは怒っていて水をくれません。そのかわりに、と言ってウチェルがくれたのは魔法の石でした。

「この石をミラッドの身体の中に入れておけば、彼女は不老不死になるから」と。

 

と、その話を近くで聞いていたのが、へそ曲がりの精霊タリードでした。彼は人間のような奴に、不老不死の力が渡るのが面白くありません。そこで家来のうみつばめに命じて、帰路についた7人のチェリッド達を攻撃させます。その攻撃はあまりにも執拗だったため、とうとう我を忘れたチェリッドの1人が命の石を、うみつばめ目がけて投げつけてしまったのです。当然、命の石もうみつばめもいなくなってしまいました。

 

チェリッド達は途方に暮れます。しかし

「地上で唯一の女性のミラッドにはどうしても生き返ってもらい、新しい部族の先祖になってもらわなくては」との思いは強く、彼らは再び宮殿に戻りました。ウチェルは当然、怒り爆発です。「お前達のような大馬鹿者は、もう二度とここに来るな」と、けんもほろろで追い返されてしまいました。

 

なすすべなく地上に戻ったチェリッド達。道ばたにしゃがみこんで、どうしたらいいかを相談します。と、そのとき、チェリッド達の1人にデレップ(失われた魂)という精霊がいることに気づいた1人が

「そうだ、君はもともとカラダが無いのだから、君がミラッドの中に住んでしまえばいいんだ!」とアイデアを出します。

 

デレップは、最初はいやがりましたが、他に方策も無く

「わかった。僕がミラッドの中に入ることにする。でも、それは午前と午後だけだ。昼と夜は、僕だって自由の身でいたいからな。」というわけでどうなったか?

人間は、夜は必ず眠り、昼は必ず昼寝をするようになった。ということです。

2025/02/06

アッバース朝(4)

アッバース朝の最盛期

建国の翌年の751年に、アッバース朝軍は高仙芝が率いる3万人の唐軍をタラス河畔の戦いで破り、シルクロードを支配下に置いた。その結果、ユーラシアからアフリカのオアシス交易路が相互に接続する大交易路が成立した。一方で、756年に後ウマイヤ朝が建国され、マンスールの軍が敗北したことでイスラム世界の統一は崩れることとなった。また、マンスール治世の晩年、776年には北アフリカのターハルト(en)にルスタム朝が成立した。

 

2代カリフマンスールは、首都ハーシミーヤがシーア派が崇拝する第4代正統カリフ・アリーの故都クーファに近いことからシーア派の影響力が高まることを恐れ、ティグリス河畔のバグダード(ペルシア語で「神の都」の意味)と呼ばれる集落に、762年から新都を造営した。この新都の正式名称は、マディーナ・アッ=サラーム(アラビア語で「平安の都」の意味)と言った。また、マンスールは新王朝の創建に功績があったペルシア人のホラーサーン軍をカリフの近衛軍とすることで権力基盤を固め、集約的官僚制やカリフによる裁判官の勅任により権限を強化した。また、マンスールはサーサーン朝の旧首都クテシフォンに保存されていた学問を大規模にバグダードに移植した。

 

アッバース朝のカリフは、それまでのカリフの主要な称号であった「神の使徒の代理人」、「信徒たちの長」に加えて、「イマーム」「神の代理人」といった称号を採用し、単なるイスラム共同体(ウンマ)の政治的指導者というだけに留まらない、神権的な指導者としての権威を確立していった。一方で、カリフの神権性はあくまでウラマーの同意に基づいており、カリフに無謬の解釈能力やシャリーア(イスラム法)の制定権が認められることはなかった点で、スンナ派の指導者としてのカリフの特性が現れている。

 

5代カリフのハールーン・アッ=ラシードの時代に最盛期を迎え、バグダードは「全世界に比肩するもののない都市」に成長した。その人口は150万人を超え、市内には6万のモスク、3万近くのハンマーム(公衆浴場)が散在していたといわれる。バグダードは産業革命以前における世界最大の都市になり、ユーラシアの大商圏の中心地に相応しい活況を呈した。

 

一方で地方支配は緩みを見せ始め、789年にはモロッコのフェスにイドリース朝が成立、800年にはチュニジアのカイラワーンに、アミールを名乗り名目上はアッバース朝の宗主権を認めてはいたものの、実際には独立政権であったアグラブ朝が成立し、マグリブがアッバース朝統治下から離れた。

 

衰退への道

ハールーン・アッ=ラシードは二人の息子に帝国を分割して統治し、弟が帝国中枢を、兄が帝国東部を治めるよう言い残して809年に死去したが、2年後の811年、兄が東部のホラーサーンで反乱を起こし、813年にバグダードを攻略して即位していた弟のアミーンを処刑、マアムーンと名乗ってカリフに就任した。しかし、マアムーンは根拠地であるホラーサーンを離れず、そのためにバグダードは安定を失った。819年には帝国統治のためマアムーンがバグダードに戻るが、ホラーサーンを任せた武将のターヒルは自立し、ターヒル朝を開いてイラン東部を支配下におさめた。

 

7代カリフのマアムーンは、ギリシア哲学に深い関心を持ったカリフとして知られる。彼はバグダードに「知恵の館」という学校・図書館・翻訳書からなる総合的研究施設を設け、ネストリウス派キリスト教徒に命じてギリシア語文献のアラビア語への翻訳を組織的かつ大規模に行った。翻訳されたギリシア諸学問のうち、アリストテレスの哲学はイスラム世界の哲学、神学に影響を与えた。

 

その後、バグダードとその周辺には、有力者の手で「知恵の館」と同様の機能を有する図書館が多く作られ、学問研究と教育の場として機能した。バグダードは世界文明を紡ぎ出す一大文化センターとしての機能を果たした。

 

マアムーンが死ぬと、836年に弟のムウタスィムが即位した。彼はマムルーク(軍事奴隷)を導入し、アッバース朝の軍事力を回復させることに努めたが、この軍はバグダード市民と対立したため、836年、バグダード北方に新首都サーマッラーを造営して遷都を行った。しかし、このころから各地で反乱が頻発するようになり、アッバース朝の権威は低下していく。第10代カリフのムタワッキル没後は無力なカリフが頻繁に交代するようになり、衰退はさらに進んだ。868年には、帝国のもっとも豊かな地方であったエジプトがトゥールーン朝の下で事実上独立した。

 

869年、カリフのお膝元にあたるイラクの南部で黒人奴隷が起こしたザンジュの乱は、独立政権を10年以上存続させる反乱となり、カリフの権威を損ねることとなった。

2025/02/02

アッバース朝(3)

経過

ウマイヤ朝治下において、アッバース一族はハーシム家の一員として尊敬を集めていたものの、政権からは遠ざけられていた。しかし混乱が広がり、ウマイヤ朝の支配の正統性に各方面から疑問が投げかけられるなかで、アッバース一族はウマイヤ家以上に預言者に近しい血脈を利用し、イスラーム世界の支配権を要求した。アッバース家の当主ムハンマドは、死海南部の小村フマイマを本拠にハーシミーヤという政治運動を組織し、各地にダーイー(秘密教宣員)を派遣してウマイヤ朝への不満を煽動しはじめた。伝統的に反ウマイヤ朝の気風が強いイラクのクーファにも重要な支部がおかれた。

 

ハーシミーヤのダーイーたちは、多くの場合「アッバース家一族のカリフ位推戴」という最終目的を隠しつつ、ハーシム家の一員をカリフとするという目的において共通するシーア派と結び、いたるところで反乱を組織した。ダーイーたちのうちで、最大の成功をおさめたのはホラーサーンに派遣されたアブー・ムスリムで、彼は747年に8000人のホラーサーン人を率いて挙兵し、翌年にホラーサーンの中心都市メルヴを占領。ウマイヤ朝の総督ナスル・イブン・サイヤールを殺害し、大軍を西方に派遣した。ホラーサーン軍は、イラン各地の諸都市を次々に制圧し、749年夏にはイラクに達した。

 

しかしアッバース一族が、密かにこの運動を指導しつつフマイマ村に潜んでいることは、ウマイヤ朝側の察知するところとなり、ムハンマドのあとを継いでアッバース家の当主となったイブラーヒーム・イブン・ムハンマドは捕えられ、7498月にハッラーンで処刑された。イブラーヒームの弟アブー・アル=アッバースら14人は脱出に成功し、クーファに潜入した。

 

イラクに入ったホラーサーン軍は、9月にクーファを降した。ここでアッバース一族が姿を現し、1030/1128日にホラーサーン軍によってアブー・アル=アッバースがカリフとして推戴された。これがアッバース朝初代カリフのサッファーフである。ウマイヤ朝のマルワーン2世は、イラク北部の大ザーブ河畔でホラーサーン軍に抵抗するが(ザーブ河畔の戦い)、7501月に大敗し、エジプトで殺害された。ウマイヤ朝の都ダマスカスも4月に陥落し、ウマイヤ朝の王族のほとんどが殺害された。このとき、辛うじて逃亡に成功したアブド・アッラフマーンはイベリア半島に奔り、この地に後ウマイヤ朝を建てることになる。

 

結果

革命協力者たちへの対応

アッバース家は、各地に放ったダーイーを通じてシーア派やカイサーン派など不満分子の力を利用した。しかし、シーア派が夢みたアリー家イマームのカリフ推戴は実現せず、アッバース朝確立後には、かえって不穏分子として弾圧されるようになる。また革命に貢献したアブー・ムスリムらの功臣たちも、あまりにも強大な力を持つために王朝の安定を損なうものとして粛清された。

 

カリフ権力の強化

アッバース朝では、サーサーン朝ペルシアや東ローマ帝国に倣って複雑な官僚制が組織され、カリフの権威と権力は至高至上のものとされた。この時代のカリフはめったに人前に姿を現さず、文武百官によって一般庶民から隔絶されていた。宮中でもカリフは周囲に帳をめぐらし、侍従(ハージブ)がカリフへの取次ぎを行なった。そのため高官であっても、カリフと直接に対面することはまれであった。

 

カリフはさまざまな称号を帯び、のちには「預言者の代理人」(ハリーファト・ラスールッラー)ではなく「神の代理人」(ハリーファト・アッラー)と名乗るにいたった。またカリフの玉座の脇には常に死刑執行人が控え、カリフの意に沿わぬものはその場で処刑できるものとされた。

 

ペルシア化

アッバース朝の成立によって生じた最大の変化としては、ペルシア人の影響力が増したことがあげられる。

 

ペルシア人はウマイヤ朝時代には単なる従属民とされていたが、ホラーサーン軍に参加してアッバース革命に大きく貢献したこともあり、アッバース朝の時代には多くのペルシア人官僚が取り立てられた。文官筆頭の宰相(ワジール)の位も、ほぼペルシア人によって独占された。たとえば初代ワジールに任じられたアブー・サラマは、イラン系マワーリーであった。アブー・サラマが粛清の対象として処刑されたあとは、バルフの仏教寺院管長の子孫であるバルマク家の者たちが、ハールーン・アッラシードの時代までワジール位を独占する。

 

また軍事面でも、初期アッバース朝の軍隊の中核を担ったのは、ホラーサーン人によるカリフの親衛隊(ホラーサーニー部隊)であった。文化面でもペルシア化が進み、宮廷ではサーサーン朝に倣った官制や称号、衣服などが導入され、民衆のあいだでもペルシア系文化の影響が増大した。こうした点から、当時のアッバース朝を実質的にアラブ人とペルシア人の連合政権であるとする研究者もいる。

 

イスラーム化

またアッバース朝治下では、それまでの非アラブ人に対する税制上の差別待遇が撤廃された。すなわちムスリムであれば、非アラブ人であってもジズヤ(人頭税)は課されず、一方アラブ人であっても土地を所有していればハラージュ(地租)が課されるようになった。アッバース朝の時代には首都バグダードを中心に国際交易が発達し、多様な文化や民族の融合と一体化が促進された。歴代カリフもそれまでのようなアラブの部族制を重視せず、ペルシア人をはじめとする諸民族から妃妾を迎えた。イスラームへの改宗と、アラビア語の普及も進展した。こうした点から、しばしばウマイヤ朝がアラブ人による征服王朝、すなわちアラブ帝国であるのに対し、アッバース朝は人種を問わない普遍的世界帝国、すなわちイスラーム帝国であると論じられる。

 

歴史的意義をめぐる論争

著名なイスラーム史家のヴェルハウゼンは、アッバース革命をそれまで体制から疎外されてきたペルシア人改宗民(マワーリー)が、アラブ人による支配を覆した政治革命だと論じた。その論拠としては、アッバース革命に対するペルシア人の貢献が大きかったことと、初期アッバース朝政権に多くのペルシア人が参加していたことが挙げられる。

 

ただし、この説には反論も少なくない。それによれば、アッバース革命を担ったホラーサーン軍の中核を占めていたのは定住したアラブ人兵士の子孫であり、革命は体制に不満を抱くアラブ人がペルシア人の力を利用してウマイヤ朝を打倒したに過ぎないという。