2025/04/05

カロリング朝(4)

分裂後のカロリング朝国家

カール大帝の帝国は、王家の分割相続により瓦解した。885年には、カール3世によって帝国が再統一されるが一時的なことに過ぎず、887年には東フランク王アルヌルフによって廃位に追い込まれた。

 

888年には西フランク王位がパリ伯ウードに移り、一時的にではあるがカロリング家の血統から外れた。ウードは支配の正統性を維持するためにアルヌルフの宗主権を認め、のちにはカロリング家のシャルル3世を後継者として認めざるをえなかったが、ウードの即位は明らかにフランク王国史の新展開を告げるものであった。西フランク王位はこれ以後、カロリング家とロベール家の間を行き来し、やがて987年にはユーグ・カペーの登位とともにカペー朝が創始され、のちのフランス王国へと変貌を遂げ始めた。

 

この時代は、北からノルマン人・南からムスリム・東からマジャール人が侵入し、これにカロリング家の君主はうまく対応することが出来ず、逆に辺境防衛を担った貴族が軍事力を高めるとともに影響力も強めた。前述のパリ伯ウードも対ノルマン防衛で声望を集めた人物であり、東フランクでもフランケンやバイエルン・ザクセンなどの大公・辺境貴族が台頭し、東フランク王国の統合の維持に努めながらも、自らの支配領域を拡大していった。

 

彼らは、地域における主導権争いに勝利して地域内において国王類似の権力を有するようになり、やがてカロリング家が東フランクで断絶すると、これら有力貴族が玉座に登ることとなり、のちのドイツ王国の枠組みが形成されていく。この過程で王国の統一維持の観点から、王国の分割相続が徐々に排除されるようになり、10世紀にはカロリング朝国家のいずれにおいても単独相続の原則が確立された。

 

北イタリアでは、888年以降カロリング家の影響が弱まると、異民族の侵入と諸侯による王位争奪の激化から、都市が防衛拠点として成長し始めた。ブルグント王国も888年に独立し、1032年に神聖ローマ帝国に併合されるまで独立を維持した。

 

カロリング・ルネサンス

カール大帝の宮廷は文化運動の中心となり、そこに集まる教養人の集団は「宮廷学校」と呼ばれた。この文化運動の担い手たちは、西ゴート人・ランゴバルド人・イングランド人などフランク王国外出身者が多かった。9世紀以降、文化運動の中心は修道院へと移り、書物製作や所蔵に大きな役割を担った。このような例としては、トゥールのサン・マルタン修道院などが有名である。

 

このカロリング・ルネサンスは神政的な統治政策に対応した文化運動であり、正しい信仰生活の確立を目指すものであった。聖書理解の向上、典礼書使用の普及、教会暦の実行において正統信仰に基づくことが目指され、すでに地域差が著しくなっていた俗ラテン語から古典ラテン語へと教会用語の統一が図られた。これにより、ラテン語が中世西欧世界の共通語となる。一方で、典礼形式の確立と聖職者改革によって、カロリング・ルネサンスは文化の担い手を俗人から聖職者へと転回させ、俗人と聖職者の間の文化的隔たりを広げる結果ももたらした。

 

カロリング・ルネサンスの意義については、文献についての基本的な2つの要素、書記法と記憶媒体の変質が特に中世文化の成立に大きな意義を持った。カール大帝は、従来の大文字によるラテン書記法を改革して、カロリング小字体を新たに定めた。この統一された字体を用いて、さまざまな文献を新たにコデックスに書き直され、著述と筆写が活発になされた。書物の形態の変化とともに、書写材料はパピルスから羊皮紙に変化した。

 

カロリング家の歴代人物

メロヴィング朝時代

    ピピン1世(大ピピン)(?-639年)・・・カロリング家の始祖。メロヴィング朝フランク王国の分国(アウストラシア)で宰相として仕えた。

    ピピン2世(中ピピン)(640?-714年)・・・大ピピンの外孫。687年のテルトリーの戦いでフランク王国の実権を握る。

    カール・マルテル(688?-741年)・・・中ピピンの庶子。宰相としてフランク王国を統一する。732年、トゥール・ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝イスラーム帝国を撃退する。

 

カロリング朝時代

    ピピン3世(小ピピン)(714-768年、在位751-768年)・・・カール・マルテルの子。メロヴィング朝の王を廃してフランク王に即位し、カロリング朝を開く。ローマ教皇ステファヌス2世にラヴェンナなどを寄進(ピピンの寄進)。

    カール大帝(742-814年、在位768-814年)・・・800年に教皇により戴冠、西ローマ帝国の復興。カロリング朝ルネサンスといわれる時代を築く。

    ルートヴィヒ(ルイ)1世(敬虔王)・・・817年に3人の息子たちに王国を分割相続させる法律を作り、崩御後、フランク王国は分裂する。

 

フランク王国分裂後

ルートヴィヒ1世の崩御にあたり、3人の子息が存命していた。当時の慣習から、領地は分割相続により継承され、843年のヴェルダン条約により確定した。現在のフランスにあたる地域は、末子シャルル2 (禿頭王) 領の西フランク王国に、ロートリンゲンおよびイタリア北部は、長男ロタール1世領のロタール王国に、現在のドイツにあたる地域は、三男ルートヴィヒ領の東フランク王国として分割、相続された。帝位は長男ロタール1世が継承し、その子孫が世襲した。

 

その後の870年にはメルセン条約により、ロートリンゲンは東西フランク王国が分割し、イタリア北部はロタール1世の子、皇帝ルートヴィヒ2(ロドヴィコ2)領のイタリア王国となる。しかしルートヴィヒ2世には男子がおらず、この血統は断絶する。東フランク王国は、911年のルートヴィヒ4世の崩御をもって、西フランク王国は987年のルイ5世の崩御をもって男系王位継承が途絶え、カロリング朝は断絶した。

2025/04/04

「第二の師」ファーラービー(2)

イラン系出自説

アル・ファーラービーの最も古い伝記作家である中世アラブの歴史家イブン・アブー・ウサイビア(1203-1270)は、アル・ファーラービーの父親はペルシャ系であったと著書『ウユーム』で述べている。1288年頃に生きていたアル・シャフラズーリーも、アル・ファーラービーがペルシャ人家庭で生まれたとしている。ジョージタウン大学の名誉教授マジド・ファクリーによれば、ペルシア人血統の軍の士官であったという。ディミトリ・グタスは、アル・ファーラービーの著作にはペルシャ語、ソグド語、さらにはギリシャ語での引用や影響が含まれているが、トルコ語は含まれていないことに注意している。ソグド語が、彼の母語であるという提案もされている。ムハンマド・ジャヴァド・マスフールは、イラン系言語を話す中央アジア人であることを主張している。

 

トルコ系出自説

トルコ系出自説で最も古い言及は、歴史家イブン・ハリカーン(-1282)の『ワハヤート』(1271年完成)による。ファーラーブ(現在カザフスタンのオトラル)に近いワスィジの小さな村で、トルコ人の両親より生まれたと述べている。この記述に基づいて、現代の学者の中には彼がトルコ人であるという人もいる。ギリシャ出身のアメリカ人アラブ学者であるディミトリ・グタスは、これを批判する。

 

イブン・ハリカーンの記述は、イブン・ウサイビアによって初期の歴史的記述を目的とし、アル・ファーラービーのトルコ人起源を証明する目的で、例えば追加されたニスバである”アッ・トゥルク”(トルコ人)などを使用する。これは、アル・ファーラービーは決して用いなかった。イブン・ハリカーンをコピーしたアブル・フィダー(1273-1331)は、アッ・トゥルクを変更して「彼はトルコ人であった」とした。この点に関して、オックスフォード大学教授C.E.ボスワースは「アル・ファーラービー、アル・ビールーニー、イブン・スィーナーなどの偉大な人物を、熱狂的なトルコの学者によって彼らの民族に結び付けられている」と述べている。

 

生涯と学習

アル・ファーラービーは、ほとんどをバグダードで過ごした。イブン・ウサイビアによって保存された自叙の一節で、アル・ファーラービーはユハンナー・ビン・ハイラーンの下で『分析論後書』などの論理学、医学、社会学を学んだ。すなわち、伝統的教程に従ってポルピュリオスの『エイサゴーゲー』、アリストテレスの『カテゴリアイ』『命題論』『分析論前・後書』を学んでいった。

 

彼の師であるユーハンナー・ビン・ハイラーンは、アッシリア教会の聖職者であった。おそらくアル・ムクタディルの治世中にユーハンナーが没するまで、その期間は続いたとアル・マスウーディーは記録している。彼は、少なくとも9429月末まではバグダードにいたと、『有徳都市の住民がもつ見解の諸原理』で述べている。彼はその翌年に、つまり9439月までにダマスカスでこの本を完成させた。彼はしばらくアレッポに住み、のちにエジプトを訪れ、『諸原理』の6セクションをまとめて9487-から9496月に要約し、シリアに戻りハムダーン朝の支配者サイフ・ッダウラの支援を受けた。アル・ファーラービーは、339回目のラジャブ月(9501214日から951112日)にダマスカスで死去した、とアル・マスウーディーはこの出来事の5年後に書き記した。

 

著作

彼は『エリクサーの技術の必然性』という書を書いた。

 

論理学

彼は主にアリストテレス的論理学者であったが、著作には多くの非アリストテレス的要素が含まれている。未来の条件、数、カテゴリーの関係、論理学と文法学の関係などのトピックや非アリストテレス形式の推論を議論した。また、仮言三段論法と類推的推論の理論を考察した。これはアリストテレスではなく、ストア派論理学の伝統である。他にアリストテレスの詩学に三段論法の概念を導入した。

 

アル・ファーラービーの主著の一つに『命題論注解』がある。

 

音楽

『音楽の書』のにおいて、音楽についての哲学的な原理や、その広大な性質や影響について書いた。また音楽が心理に及ぼす治療効果について議論した『知性の意味』という論文を書いた。

 

哲学

初期イスラーム哲学において「ファーラービー学派」として知られる学派の創設者であったが、のちにはイブン・スィーナー学派によって影響力を落とした。アル・ファーラービーは、数世紀にわたって哲学・科学に大きな影響を及ばした。その時代において、彼は「第二のアリストテレス」と呼ばれた。

 

自然学

『真空について』という短い論文を書き、虚空の存在の性質について考察した。彼はまた真空の存在に関して、水中での吸引機を使った最初の実験を行ったと目されている。彼の結論は、空気は利用可能な空間を埋めるために拡張できるということであり、完全な真空は不合理だということだった。

 

心理(霊魂)学

『都政論』『有徳都市』で、社会的心理学の原理を書いた。また『有徳都市』24章に名の出ている『夢の原因について』という論文では、夢解釈と夢の性質と原因を弁別した。