サーマーン朝の滅亡と放浪の始まり
イブン・スィーナーは無料で診療を行って経験を積み、医師としての名声を高めていった。サーマーン朝のアミール(君主)・ヌーフ2世の病を治療したイブン・スィーナーは彼の信任を得、王室附属図書館を自由に利用することが許された。図書館には希書が多く所蔵され、その中にはギリシャ語の文献も含まれていた。イブン・スィーナーは18歳までに蔵書の全てを読破し、「18歳にして全ての学問を修めた」と自ら述懐するほどの境地に至る。
図書館の蔵書は、イブン・スィーナーの知識を深める上で大きな役割を果たした。間もなく図書館は火災で焼失するが、イブン・スィーナーの才能を妬む人間たちは、彼が知識を独占するために放火したと噂し合った。18歳の時、隣人のアル・アルーディにむけて、イブン・スィーナーは最初の著作『種々の学問の集成』を書き上げた。
999年、イブン・スィーナーが仕えていたサーマーン朝が、ガズナ朝とカラハン朝の攻撃を受けて滅亡する。21歳の時、法学者アル・バルキーのために全20巻の百科事典『公正な判断の書』を書き上げる。同年に父アブドゥッラーフが没し、父の死後にイブン・スィーナーは跡を継いで宮廷に出仕するが、その死のために生計を立てていくことが困難になる。ブハラの人間たちが無名の家系出身のイブン・スィーナーを邪険に扱ったためか、イブン・スィーナーは22歳ごろにブハラを去って放浪の旅に出、生涯ブハラに戻ることは無かった。
イブン・スィーナーは、ホラズム地方のウルゲンチの統治者マームーン2世に仕官し、法律顧問として活躍する傍らで『医学典範』の執筆を開始する。ウルゲンチ滞在中、ホラズム出身の学者ビールーニーと交流を持ち、書簡を通して宇宙論と物理学についての討論を行った。ビールーニーとのやり取りは『問答集』という書物に記録されており、その中では若年期のイブン・スィーナーの知見を垣間見ることができる。
1012年にサーマーン朝を滅ぼしたガズナ朝のマフムードが、イブン・スィーナーらホラズムの学者たちに出仕を要請したが、イブン・スィーナーは要求を拒む。マームーン2世は、ガズナ朝の使者が訪れる前にイブン・スィーナーに路銀と案内人を与えて密かに逃がし、かくしてイブン・スィーナーはホラズムから立ち去ることになった。ガズナのマフムードはイブン・スィーナーの逃亡に怒り、各地の王侯に彼の捜索を要求する触れ書きを出した。
ブワイフ朝への仕官
ニーシャープールを経て、イブン・スィーナーは放浪の末にカスピ海近くのジュルジャーン(ゴルガーン)に居を定める。ジュルジャーンを訪れる前にスーフィーの聖者イブン・アビ=ル=ハイルに面会し、ジュルジャーンを統治するズィヤール朝の君主カーブースの庇護を求めている旨を伝えた。しかし、ジュルジャーンに到着した時には、既にカーブースは没していた。失意に沈んだ彼は一時隠棲生活を送るが、この地で愛弟子のアル・ジュジャニーと出会うことになる。アル・ジュジャニーは常にイブン・スィーナーと行動を共にし、彼の伝記を書き上げた。ジュルジャーンでイブン・スィーナーは論理学と天文学を教授し、『医学典範』の第一部を執筆した。1014年にテヘラン近郊のレイに移り、多忙な生活の合間を縫って30ほどの小編を書き上げた。やがてレイが戦渦に見舞われると、ブワイフ朝が統治するハマダーンに逃れた。
イブン・スィーナーは、ハマダーンの君主シャムス・ウッダウラの侍医となり、シャムス・ウッダウラの疝痛を治療して能力を認められる。シャムス・ウッダウラの信任を得て宰相に起用されたイブン・スィーナーは、昼間は政務、夜に研究と講義を行う生活を送った。さらに、シャムス・ウッダウラの依頼を受けてアリストテレスの著書に注釈を付記することになり、イブン・スィーナーと弟子たちは多忙な日々を送る。夜間、イブン・スィーナーの家に集まった弟子たちは、彼が著した『医学典範』と『治癒の書』の一部を輪読していた。作業の休憩のときには様々な歌が飛び交い、酒席が設けられた。イブン・スィーナーの政策に不満を持つ軍隊が彼の邸宅を焼き討ちする事件が起きた時、彼はしばらくの間身を隠さなければならなかったが、シャムス・ウッダウラの腹痛を治療するために呼び戻され、宰相に復職した。1020年、イブン・スィーナーは以前から執筆していた『医学典範』を完成させる。
1021年にシャムス・ウッダウラが没した後、イブン・スィーナーは官職を辞して隠棲し、『治癒の書』の完成像の構想を模索した。イスファハーンの君主と手紙のやり取りを行っていたが、これを知ったハマダーンの新たな君主サマー・ウッダウラはイブン・スィーナーを投獄する。イブン・スィーナーは獄中でも論文を書き続け、釈放後に弟と1人の弟子、2人の奴隷を連れてスーフィーの托鉢僧に扮し、イスファハーンに移住した。
晩年
イスファハーンに移住したイブン・スィーナーは、政務から退いて著述に専念したいと考えていたが、イスファハーンの君主アラー・ウッダウラは彼を宰相に登用したため、願いはかなわなかった。イブン・スィーナーは、アラー・ウッダウラに科学や文学についての助言を行い、また遠征に随行した。アラー・ウッダウラの遠征に従軍した時には、馬上で書記に口述筆記をさせて著作を書き進めた。この時期の軍事遠征への参加は、『治癒の書』の植物学と動物学の章の完成に寄与する。
1030年、イスファハーンはガズナ朝の君主マスウード1世の攻撃を受け、イブン・スィーナーは蔵書を含む所有物を奪われる。この時、かつて書き上げた『公正な判断の書』が散逸する。病に倒れた時、奴隷に多量のアヘンを飲まされて財産のほとんどを奪われ、最後まで窮乏から立ち直ることができなかった。
日々の激務に体を蝕まれたイブン・スィーナーは腹痛に苦しむようになり、自身に施した浣腸などの治療によって、容体はますます悪化していく。1037年、イブン・スィーナーはアラー・ウッダウラのハマダーン遠征に同行し、行軍中に病に倒れる。死の2週間前、イブン・スィーナーは一切の治療を拒み、貧者に施しを与えて所有していた奴隷を解放し、毎日クルアーンを朗読していたと伝えられている。同年6月18日、イブン・スィーナーはハマダーンで生涯を終える。死因は胃癌(あるいは赤痢)だと考えられており、没時のイブン・スィーナーに家族は無かった。
死後
1012年ごろ、イブン・スィーナーがジュルジャーンに滞在していた時、彼の弟子であるアル・ジュジャニーが師からの聞き取りを元に、伝記の前半部を記述した。アル・ジュジャニーはイブン・スィーナーの死まで行動を共にし、伝記の後半部分を独自に記述した。アル・ジュジャニーの著した伝記はキフティーの編纂した『智者の歴史』に収録され、イブン・スィーナーの生涯を知る上での重要な史料となっている。
ヒジュラ暦ではイブン・スィーナーの生誕1,000年にあたる1952年、ウズベク・ソビエト社会主義共和国時代のブハラでアヴィセンナ千年祭が開かれたソビエト連邦、イラン王国、トルコなどで盛大な式典が開かれ、多くの学者がイブン・スィーナーに関する論文を発表した。1981年にブカレストで開催された第16回国際科学史学会では、出席した各国の学者がイブン・スィーナーの事績を討論した。
1980年にはイラン・イスラム共和国によって墓所に霊廟が建立された。ペレストロイカ期にタジク人のナショナリズムが高揚した際、タジク知識人の中にイブン・スィーナーをタジク人と見なす動きが見られ、ウズベク知識人はこの動きに反発した。
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