2025/04/24

ガザーリー(1)

ガザーリーことアブー・ハーミド・ムハンマド・イブン・ムハンマド・アッ=トゥースィー・アッ=シャーフィイー・アル=ガザーリー(アラビア語: أبو حامد محمد بن محمد الطوسي الشافعي الغزالي, Abū āmid Muammad ibn Muammad al-ūsī al-Shāfiʿī al-Ghazālī1058 - 11111218日)は、ペルシアのイスラームの神学者、神秘主義者(スーフィー)。通常名前の最後の部分を取ってガザーリーと呼ばれるが、研究者の中にはガッザーリー( الغزّالي, al-Ghazzālī, アル=ガッザーリー)と発音するべきだとする意見もある。ヨーロッパではアルガゼル(Algazer)のラテン名で知られ、長らく哲学者と見なされていた。

 

「ムハンマド以後に生まれた最大のイスラーム教徒」として敬意を集め、スンナ派がイスラーム世界の中で多数派としての地位を確立する過程の中で、最も功績のあった人物の一人に数えられる。ガザーリーはスンナ派と対立するシーア派への反論、イスラーム哲学への批判、スーフィズム(神秘主義)への接近を通して、スンナ派のイスラーム諸学を形作った。ガザーリーは存命中に高い名声を得ていたが、没後のイスラーム世界でも思想的権威と見なされ、彼の理論はファトワー(法的回答)を発する多くのウラマー(イスラーム世界の知識人)によって、コーラン(クルアーン)やハディース(預言者ムハンマドの言行録)とともに参照されている。弟のアフマド・ガザーリーもスーフィズムの思想家として知られており、彼の神秘主義思想の構築には弟の影響があったと考えられている。

 

生涯

1058年にガザーリーは、イランのホラーサーン地方のトゥース近郊で誕生する。ガザーリーの父親は自分で紡いだ羊毛を売る商人だと言われているが、父親の職業が事実であるかは疑問視されており、また史料の中に母親について記しているものはない。ガザーリーは幼少期に父親を亡くし、兄弟とともに父親の友人のスーフィーに養育された。

 

ガザーリーには、弟のアフマドのほかに数人の姉妹がいたといわれているが、それらの姉妹について明らかになっている点はない。父の遺産によってガザーリーは学業に専念することができ、父の友人の勧めに従ってマドラサ(神学校)に入学した。最初トゥースで教育を受け、カスピ海沿岸のジュルジャーンに移り、アブー・ナスル・イスマーイーリーに師事した。ジュルジャーンから帰郷する途上、ガザーリーは盗賊にイスマーイーリーの教えを記したノートを奪われ、盗賊にノートを返すよう哀願した。

しかし、盗賊の頭領の

「ノートを奪ったためにお前の知識が失われ、何の学問も残らなかったのならば、どうしてお前はその学問を知っていると言えるのか」

という言葉に、「神の言葉」を授かったかのような衝撃を受ける。トゥースに帰ったガザーリーはノートに書かれた師の考えの理解と記憶に3年の時間を費やし、ユースフ・ナッサージュの元でスーフィーの修行を行った。

 

1077年、ガザーリーはニーシャープールに移り、ニザーミーヤ学院で当時の大学者イマームル・ハラマイン・ジュワイニーに師事し、シャーフィイー学派の法学とアシュアリー学派の神学を修めた。ニザーミーヤ学院で才能を発揮したガザーリーは、ジュワイニーの代講を務め学生の指導にあたるようになるが、過度の研究のために健康を害したこともあった。ニーシャープール時代のガザーリーは、スーフィーのファールマディーからも指導を受けていたが、1084年にファールマディーが没すると一時的にスーフィズムから遠ざかる。1085年にジュワイニーが没した後、ガザーリーは学芸の保護者であったセルジューク朝の宰相ニザームル・ムルクの庇護を受け、エスファハーン(イスファハーン)の宮廷に出仕した。

 

やがてガザーリーの学才はニザームル・ムルクにも認められ、1091年にバグダードのニザーミーヤ学院の教授に任命される。300人の学生を指導する傍ら、法学・神学の講義や著述活動の合間に哲学、シーア派の思想を研究し、これらの思想の批判を書き上げた。ガザーリーは信仰の確信を得るために神学、哲学、シーア派を研究したが心は満たされず、さらにスーフィズムへのアプローチを行った。アブー・ターリブ・マッキー、ムハースィビー、ジュナイド、シブリー、バスターミーら前の時代に生まれたスーフィーの著書を読んで知識を得て、修行の実践を決意する。

 

1095年、世俗への執着と来世への羨望に葛藤するガザーリーは、ニザーミーヤ学院での講義中に「一語も発することができない」状態に陥り、食物や飲み物を口にすることができなくなる。スーフィズムによって信仰の確信を得られると考えたガザーリーは内からの声に促され、葛藤の末に職を辞して地位と名誉を捨て、109511月に一人の修行者としてメッカ(マッカ)巡礼に旅立った。

 

ガザーリーはおよそ2年の間シリア、パレスチナ各地を巡り歩き、109611月から12月にかけてメッカ巡礼を行った。ダマスカスを訪れたガザーリーは、ウマイヤド・モスクのミナレットに閉じこもり、禁欲と修行のために他人を近づけなかった。エルサレムでも一人瞑想に耽り、その合間に『エルサレム書簡』を著してイスラームの基本教義を解説した。放浪中のガザーリーは、俗世間と完全に接触を絶った状態に身を置いておらず、陳情、就職の斡旋のために政治指導者に宛てたペルシア語の書簡が残されている。メッカ巡礼を終えたガザーリーは、子供たちの要請を受けて1099年に生地のトゥースに戻る。トゥースに戻ったガザーリーはスーフィーの道場を設立し、若者たちとともにスーフィーとしての生活を送った。

 

ニザームル・ムルクの息子である宰相ファフルル・ムルクの要請を受けて、1106年にガザーリーは再びニーシャープールのニザーミーヤ学院の教壇に立つ。復職の経緯について、ガザーリーは隠遁生活への憧れと不信仰が蔓延る現状への憂いの間で葛藤し、親しい人々の勧めを受け、預言者ムハンマドの「神は世紀の始まりごとに、共同体の中に改革者を派遣する」といった旨のハディースに突き動かされたことを述懐している。

 

復職した後のガザーリーは、講義内容をまとめた法学書『法源学の精髄』、自伝『誤りから救うもの』を著している。1107/08年に勉学のために東方を訪れたマグリブの思想家イブン・トゥーマルトがガザーリーと会い、ガザーリーとの出会いを契機としてムワッヒド運動を開始した伝承が残るが、史実性は否定されている。1110年にガザーリーは公職から退いてトゥースに帰郷し、翌11111218日にこの地で没した。

 

トゥース旧市街の城壁付近では、ガザーリーの墓と推定される遺構が発掘されている。イラン・イスラム共和国はシーア派を国教とするため、近くに存在する詩人フェルドウスィーの墓と比べてガザーリーの墓は質素な作りになっている。

0 件のコメント:

コメントを投稿