2025/10/30

黄巣

黄巣(こうそう)は、唐末の反乱指導者。874年から10年間、全土を転戦しながら反乱を指揮した。

 

この一連の大乱を黄巣の名をとって、黄巣の乱と呼ぶ。黄巣の乱により全国王朝としての唐は実質的に滅び、以後は各地に割拠する軍閥の中で、長安一帯をかろうじて治める一地方政権に転落する。

 

生涯

黄巣は曹州冤句県(現在の山東省菏沢市牡丹区)の出身。若い頃は騎射を良くし、任侠を好んでいた。一方で学問に励み、何度か進士に挙げられたが科挙には落第して、塩賊(私塩の密売人)となった。

 

乾符元年(874年)、同じく塩賊だった王仙芝が数千の衆をもって挙兵すると、黄巣も数千の衆を率いてこれに参加し、やがて反乱軍の中心人物の一人になっていった。黄巣と王仙芝は特定の根拠地は持たず、山東・河南・安徽を略奪しては移動という行動を繰り返した。876年、唐から懐柔策として王仙芝だけに官僚のポストが示されたが、これに黄巣が反対したために二人は分裂し、乾符5年(878年)に王仙芝は官軍に敗れて戦死した。

 

その残党を合わせた黄巣軍は江南へと向かうが、両浙・福建を経て879年に広州へと入り、現地のアラビア商人などの外国人商人を多数殺害した。その後、黄巣軍は北へ帰ることを目指し、西の桂州から潭州を経由して長江を渡るも現地の藩鎮軍に大敗して、再び長江を南に渡って東へと進路を変えた。

 

官軍の虚を突いて采石で長江を渡り、そこから洛陽の南の汝州に入った。ここで自ら天補平均大将軍を名乗る。同年の秋に洛陽を陥落させる。さらに西へ進軍し、長安の東の守りである潼関を突破し、その5日後には長安を占領した。唐の皇帝僖宗は成都へと避難した。

 

黄巣は長安で皇帝に即位し、国号を大斉とし、金統と改元した。長安に入城した後の黄巣軍は貧民がいればこれに施しをしたが、官吏や富豪を憎んで略奪を行い、黄巣も統御できないほどであった。一方で唐の三品以上の高官は追放したが、四品以下の官僚はその職に残した。貧民や群盗出身の黄巣軍の兵士たちに官僚としての仕事が出来るわけはないので、唐の官僚をそのまま採用せざるをえないのであった。

 

その後、黄巣軍には深刻な食糧問題が生じた。元々長安の食料事情は非常に悪く、江南からの輸送があって初めて成り立っていたのである。長安を根拠として手に入れた黄巣軍だったが、それによりかつてのように攻められれば逃げるという行動が取れなくなり、他の藩鎮勢力により包囲され、食料の供給が困難となった。長安周辺では過酷な収奪が行われ、穀物価格は普段の1000倍となり、食人が横行した。この状況で882年、黄巣軍の同州防禦使であった朱温(後の朱全忠)は、黄巣軍に見切りを付け官軍に投降した。さらに突厥沙陀族出身の李克用が大軍を率いて黄巣討伐に参加。

 

883年、黄巣軍は李克用軍を中核とする唐軍に大敗。もはや維持するのが困難になった長安を黄巣軍は退去し河南へ入るが、ここで李克用の追撃を受けて再び大敗。黄巣軍は壊滅し、泰山付近の狼虎谷で黄巣は外甥の林言の介錯のもと自害して果てた。8846月のことで、10年に渡った黄巣の乱は終結した。

 

黄巣はいくつか漢詩も残しており、『題菊花(菊花に題す)』・『詠菊(菊を詠ず)』などで反乱への意気込みを謡っている。

2025/10/29

道元(2)

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概要

生没:正治212日(1200119)- 建長5828(1253922)

 

鎌倉時代の禅僧。主著は『正法眼蔵』など。京都の名門貴族久我家の生まれ。幼少期に両親を失い、親戚から養子として引き取る話も出たが、彼は世を儚み仏門に入る事になる。

 

道元は3歳の時に父をなくし、8歳の時に母を失った。母の死は大きなショックを道元に与え、仏門を志すきっかけとなった。

 

13歳の時に比叡山にいる母方の叔父良顕法眼に会い、14歳で当時の天台座主公円立会いの元で出家した。

しかし天台宗の根本聖典『法華経』の注釈書「法華三大部」を学んでいる時に疑問に突き当たった。

 

彼が悩んだのは

「本来本法性、天然自性身」つまり「全てのものには仏性が備わっており、自然の万物は法(ダルマ)の現れである」

という教えである。

もしそうなら、どうして釈迦や各宗派の祖師たちは凄絶な修行をする必要があったのか?

と疑問に思い、公円を含む色んな師僧たちにぶつけるが満足のいく答えは得られなかった。

 

彼は山を下り、三井寺の公胤僧正を訪ね、彼の勧めで日本における臨済宗の開祖栄西のいる建仁寺の門を叩いた。

建仁時は禅だけでなく天台と真言の教えも併学する寺院であり、道元が抱く疑問を解いてくれるかもしれない、と公胤は考えたのだろう。

 

道元の問いに

「三世の諸仏有ることを知らず、狸奴白狐かえって有ることを知る」

と栄西は答えた。

仏陀は知らないが、畜生(動物)はそれを知る、という不可解な言である。

 

これについては

「悟りそのものである仏陀が、さらに悟る事はできない。狸奴白狐(獣として象徴される五感など全て)は、これから悟りを得ることができる」

といった解釈がある。

 

満足し切れなかった道元は、さらなる探求のため中国に渡り、現地の師僧たちに教えを請って回り、曹洞宗の天童如浄禅師と出会う。

 

如浄は妥協なき仏教者であり、名誉や栄華を離れ、座禅中に居眠りするような人間には

「参禅はすべからく身心脱落なり、みだりに打睡してなにをか為さん」

と自分の履いていた靴で打ち据えるという厳格な人物だった。

 

道元は彼に弟子入りし、印可(弟子の境地を保障する師匠による証明書)を頂く。彼のもとで二年間学んだ後、日本に帰国するが、その際に経典や仏像などは何も持ち帰る事がなかった。彼はその必要を感じていなかったのである。

 

帰国した彼は日本における曹洞宗の祖となり、京都を拠点にその教えを広めて回った。そして帰国から16年後、京都を離れ、北陸の山中に禅の道場「大仏寺」を建立した。これが後に永平寺と改名される事になる、日本曹洞宗の総本山である。

2025/10/27

サーマーン朝(3)

経済

9世紀末から、イスマーイール・サーマーニーが行った北方の草原地帯への遠征によって、交易路が確立される。また、西方においても、ブルガール、ハザールとの間で交易がおこなわれていた。王朝が鋳造した独自の貨幣は、交易路を介して南ロシア、バルト海沿岸部や北欧に広まり、それらの地では貨幣が出土している。さらに、交易に携わる商人を介して、交易路上のテュルク系遊牧民の間にイスラームが広まった。サーマーン朝は遊牧民から馬や肉、皮革を輸入し、綿織物、毛織物、絹織物を輸出していた。

 

また、国内の安定化は農業の発達に繋がったが、農村に利益は還元されなかった。農村部の利益は都市部の支配者層や商人の元に吸い上げられ、彼らの活動が都市の経済を活性化させた。

 

産業

前述のグラームの輸出が、サーマーン朝の主要産業となっていた。市場で購入された奴隷は5年の間訓練を受け、中でも優秀な人物は君主の側近として登用され、部下と官職を与えられた。彼らはブハラ、サマルカンドといったサーマーン朝の中心都市からアッバース朝中央に至るまで西アジア全域に供給され、イスラーム世界の軍事力がマムルーク中心となる端緒をつくった。

 

西アジア世界では、グラームの購入によって多量のディルハム銀貨が東方イスラーム世界に流出したため、鋳造される銀貨の質が低下した。

 

サーマーン朝の元では、製陶をはじめとする手工業が発達を見せた。サーマーン朝を代表する工業製品として、ザンダニージュ織、サマルカンド紙が挙げられる。これらの製品は、西方のイスラーム文化と中央アジア文化の調和によって生まれたとも言える。

 

文化

サーマーン朝はイスラーム化前のイラン文化の復興を推進し、支配下のオアシス都市では伝統的なイラン文化と外来のイスラーム文化が結びついたイラン・イスラーム文化が発達した。サーマーン朝で、民族的な文化復興が進められた理由については諸説あり、サーマーン朝の支配領域が当時のアラビア語イスラーム文化の中心地であるバグダードから遠く離れていた地理的理由、イランの名門貴族の出身であるサーマーン家が創始した王朝の性格などが挙げられている。そして、アラブ文化の影響をあまり受けず、伝統的な民族文化の保持に努めてきたイラン土着のディフカーン層が、サーマーン家による文化復興において協力的な役割を果たした。

 

宰相のジャイハーニーとバルアミーに補佐された国王ナスル2世は、ペルシア文化の保護と奨励に意を注ぎ、王朝の文化的・政治的発展は最盛期を迎える。11世紀に活躍した学者のサアーリビーは、多くの大学者が集うサーマーン朝時代のブハラの様子を記し、サーマーン朝で活躍した知識人は行政に携わる書記、宗教学者、文学者、詩人の4つの階層で構成されていた。首都ブハラは学問の中心となり、ブハーリー、イブン・スィーナー(アウィケンナ、アヴィセンナ)などの当時のイスラム世界を代表する知識人があらわれた。サーマーン朝統治下の中央アジアでは、知識人を養成するための神学校(マドラサ)が設立され、国からの補助が与えられたマドラサと、異端に属する学派が運営する私立のマドラサが存在していた。

 

サーマーン朝の治下では、アラブ人の征服以来沈滞していたイラン文化がイスラームと結びついて再興し、アラビア語の語彙が取り入れられたアラビア文字で表記する近世ペルシア語が発展した。サーマーン朝では、ホラーサーン様式(サブケ・ホラーサーニー)と呼ばれるペルシア語詩の文体が使用され、ルーダキー、ダキーキーらの詩人を輩出した。ダキーキーに触発された詩人フェルドウスィーは『シャー・ナーメ(王書)』の作詩に着手するが、完成の前にサーマーン朝は滅亡し、完成した『シャー・ナーメ』をガズナ朝の宮廷に献呈した。ほか、教訓詩の草分けであるアブー・シャクール、最初に十二イマームを称賛したメルヴのキサーイー、ペルシア文学最初の女性詩人ラービア・クズダーリーらが、サーマーン朝時代のイランで活躍した。

 

国王や貴族が熱心な詩人の保護者となったために詩人の数は非常に多く、サーマーン朝時代は名実ともにペルシア宮廷詩人が最も厚遇されていた時代といえる。ペルシア語詩人の活動地域は、マー・ワラー・アンナフルやホラーサーンといったペルシア東北部に限定され、ペルシア語での詩作と共に中央アジア各地の方言を用いた詩作を試みる動きも見られた。詩作以外の活動の1つとしては、バルアミーによる歴史家タバリーの著書のペルシア語訳が挙げられる。このペルシア語の復権には、土着の言語に対する愛国的尊厳と政治的意図が複雑に絡み合っていた。

 

一方ではアラビア語による作詩や著述活動も続けられており、サーマーン朝は2つの言語が併用された状態にあった。文章語としては依然としてアラビア語が多く使われており、後世のイラン、トルキスタンでは、アラビア語は神学の分野でなおも存続した。

 

また、サーマーン朝では数学、天文学などの自然科学も発達した。サーマーン朝末期には、イブン・スィーナー、ビールーニーというイスラム科学を代表する2人の学者が誕生した。

 

サーマーン朝期のブハラの建造物の多くは、イスマーイール・サーマーニーの治世に建てられた。ブハラにある、イスマーイール・サーマーニー廟の通称で知られるサーマーン家の廟は、中央アジア最古のイスラーム建築物と考えられている。また、イスマーイールの治世には、遊牧民の襲来に備えて中央アジアのオアシス都市を囲んでいた土塁の建設と保持が中止された。

2025/10/26

道元(1)

道元(正治212日(1200126日)- 建長5828日(1253929日))は、鎌倉時代初期の禅僧。日本における曹洞宗の宗祖。晩年には、希玄(きげん)という異称も用いた。宗門では高祖承陽大師(こうそじょうようだいし)と尊称される。諡号は仏性伝東国師、承陽大師。諱は希玄。道元禅師(どうげんぜんじ)とも呼ばれる。主著『正法眼蔵』は後世に、古くは和辻哲郎など、近年はスティーブ・ジョブズら多大な影響を与えている。

 

生い立ち

道元は、正治2年(1200年)、京都の公卿の久我家(村上源氏)に生まれた。幼名は「信子丸」[要出典]、「文殊丸」とされるが、定かでは無い。両親については諸説あり、仏教学者の大久保道舟が提唱した説では、父は内大臣の源通親(久我通親または土御門通親とも称される)、母は太政大臣の松殿基房(藤原基房)の娘の藤原伊子で、京都木幡の木幡山荘にて生まれたとされているが、根拠とされた面山瑞方による訂補本『建撕記』の記載の信用性に疑義も持たれており、上記説では養父とされていた源通親の子である大納言の堀川通具を実父とする説もある。

 

四国地方には道元の出生に関して「稚児のころに藤原氏の馬宿に捨てられていたのを発見され、その泣き声が読経のように聞こえるので神童として保護された」との民間伝承もあるが、キリストや聖徳太子の出生にまつわる話と混同されて生じたものである可能性も示唆されている。伝記『建撕記』によれば、3歳で父(通親)を、8歳で母を失って、異母兄である堀川通具の養子となった。

 

4歳にして漢詩『百詠』、7歳で『春秋左氏伝』、9歳にて『阿毘達磨倶舎論』を読んだ神童であったと云われており、両親の死後に母方の叔父である松殿師家(元摂政内大臣)から松殿家の養嗣子にしたいという話があったが、世の無常を感じ出家を志した道元が断ったと言う説もあり、逸話として

「誘いを受けた道元が、近くに咲いていた花を群がっていた虫ごとむしりとって食べ、無言のうちに申し出を拒否する意志を伝えた」

とある。

 

14歳で天台の僧となるが、その教義に満足せず、栄西を尋ね禅宗に入った。貞応二年、宋に渡り天童山に参禅して安貞元年帰国。京都深草に興聖寺を建てるが延暦寺宗徒らの焼打ちにあったとも伝えられ、武将波多野義重から越前の領地の寄進を受け、1244年永平寺のもとを開いたといわれる。権勢を避け名利を求めず、専ら体験を尊び、座禅本位の仏教を正伝として釈尊の昔に帰れと説いた。西洞院高辻に没。

 

主な活動

    建暦2年(1212年)、比叡山にいる母方の叔父の良顕を訪ねる。

    建暦3年(1213年)、天台座主公円について出家し、仏法房道元と名乗る。

    建保3年(1215年)、園城寺(三井寺)の公胤の元で天台教学を修める。

    建保5年(1217年)、建仁寺にて栄西の弟子の明全に師事。

    貞応2年(1223年)、明全とともに博多から南宋に渡って諸山を巡る。

南宋の宝慶元年(1225年)、天童如浄の「身心脱落」の語を聞いて得悟。中国曹洞禅の、只管打坐の禅を如浄から受け継いだ。その際の問答記録が『寶慶記』(題名は当時の南宋の年号に由来)である。

    安貞元年(1227年)、帰国。帰国前夜『碧巌録』を書写したが、白山妙理大権現が現れて手助けしたという伝承がある(一夜碧巌)。また、同年『普勧坐禅儀』を著す。

    天福元年(1233年)、京都深草に興聖寺を開く。「正法眼蔵」の最初の巻である「現成公案」を、鎮西太宰府の俗弟子、楊光秀のために執筆する。

    天福2年(1234年)、孤雲懐奘が入門。続いて、達磨宗からの入門が相次いだことが比叡山を刺激した。この頃、比叡山からの弾圧を受ける。

    寛元元年(1243年)、越前国の地頭波多野義重の招きで越前志比荘に移転。途中、朽木の領主佐々木信綱の招きに応じ、朽木に立ち寄る(興聖寺の由来)。

    寛元2年(1244年)、傘松に大佛寺を開く。

    寛元4年(1246年)、大佛寺を永平寺に改め、自身の号も希玄と改める。

    宝治元年-3年(1247-1249年)頃、執権北条時頼、波多野義重らの招請により教化のため鎌倉に下向する。鎌倉での教化期間は半年間であったが、関東における純粋禅興隆の嚆矢となった。

    建長5年(1253年)、病により永平寺の住職を、弟子孤雲懐奘に譲り、没す。享年54(満53歳没)。死因は瘍とされている。

    嘉永7年(1854年)、孝明天皇より「仏性伝東国師」の国師号を宣下される。

    明治12年(1879年)、明治天皇より「承陽大師」の大師号を宣下される。

 

教義・思想

ひたすら坐禅するところに悟りが顕現しているとする立場が、その思想の中核であるとされる。道元のこの立場は修証一等や本証妙証と呼ばれ、そのような思想は75巻本の「正法眼蔵」に見えるものであるとされるが、晩年の12巻本「正法眼蔵」においては因果の重視や出家主義の強調がなされるようになった。

 

成仏とは一定のレベルに達することで完成するものではなく、たとえ成仏したとしても、さらなる成仏を求めて無限の修行を続けることこそが成仏の本質であり(修証一等)、釈迦に倣い、ただひたすら坐禅にうちこむことが最高の修行である(只管打坐)と主張した。

 

鎌倉仏教の多くは末法思想を肯定しているが、『正法眼蔵随聞記』には

「今は云く、この言ふことは、全く非なり。仏法に正像末(しょうぞうまつ)を立つ事、しばらく一途(いっと)の方便なり。真実の教道はしかあらず。依行せん、皆うべきなり。在世の比丘必ずしも皆勝れたるにあらず。不可思議に希有(けう)に浅間しき心根、下根なるもあり。仏、種々の戒法等をわけ給ふ事、皆わるき衆生、下根のためなり。人々皆仏法の器なり。非器なりと思ふ事なかれ、依行せば必ず得べきなり」

と、釈迦時代の弟子衆にもすぐれた人ばかりではなかったことを挙げて、末法は方便説に過ぎないとして、末法を否定した。

 

南宋で師事していた天童如浄が、ある日、坐禅中に居眠りしている僧に向かって

「参禅はすべからく身心脱落(しんじんだつらく)なるべし』

と一喝するのを聞いて大悟した。身心脱落とは、心身が一切の束縛から解き放たれて自在の境地になることである。道元の得法の機縁となった「身心脱落」の語は、曹洞禅の極意をあらわしている。

 

道元は易行道(浄土教教義の一つ)には、否定的な見解を述べている。

道元は『法華経』を特に重視した。『正法眼蔵随聞記』で最も多く引用されている経典は『法華経』である。

 

道元は晩年、不治の病となり、永平寺を出て在家の弟子の住宅に移り、自分の居所を「妙法蓮華経庵」と名付けた。死期をさとった道元は、亡くなる直前、『法華経』のいわゆる「道場観」の経文(『法華経』如来神力品第二十一の中の「若於園中」から「諸仏於此而般涅槃」まで)を低い声で口ずさみながら室内を歩きまわり、柱にその経文を書き付けたあと、「妙法蓮華経庵」と書き添えた。

 

徒(いたずら)に見性を追い求めず、坐禅する姿そのものが「仏」であり、修行そのものが「悟り」であるという禅を伝えた。

2025/10/23

サーマーン朝(2)

滅亡

ナスル2世の没後に王朝の衰退が進み、ヌーフ1世の即位後に地主やグラームの権力闘争が激化する。また、スィル川中流域はサーマーン朝の影響下に置かれていたが、上流域と下流域は依然としてテュルク系遊牧民の支配下に置かれていた。

 

アブド・アル=マリク1世の治世では、グラーム出身の近衛隊長アルプテギーンが宮廷第一の実力者として権勢を誇っていた。文人宰相として有名なアブル=ファズル・バルアミーが、アルプテギーンの推挙によって宰相に起用される。961年(962年)にアブド・アル=マリク1世は、アルプテギーンを中央から遠ざけるためにホラーサーン総督に任命、同年にマリク1世は没する。

 

マリク1世の弟マンスール1世がアミールに即位するが、アルプテギーンはマンスール1世の即位に反対した。アルプテギーンはバルフを経て南部のアフガニスタン方面に移動し、ガズナで自立してガズナ朝を開いた。マンスール1世はガズナに討伐隊を送るが、アルプテギーンを破ることはできなかった。ガズナ朝は名目上はサーマーン朝に臣従していたが、事実上独立しており、ホラーサーン地方の領主も半独立した状態にあった。

 

一方、北方のカラハン朝は南下を開始し、980年にスィル川東岸のサイラムがカラハン朝の手に落ちた。ホラーサーン総督アブル・アリー・シムジェルとヘラート知事ファーイクはカラハン朝と内通し、992年にサマルカンドとブハラがカラハン朝の手に落ちた。カラハン朝の君主アル=ハサンはブハラに入城するが、急病に罹り撤退した。

 

ブハラに帰還したアミール・ヌーフ2世は、ガズナ朝のサブク・ティギーンに援助を求めた。サブク・ティギーンとその子マフムードはヘラート、ニーシャープール、トゥースの反乱を鎮圧し、ファーイクはカラハン朝に亡命した。しかし、ヌーフ2世とサブク・ティギーンの間に不和が生まれ、サブク・ティギーンはカラハン朝と講和を締結し、ファイクをサマルカンドの総督に任命した。

 

997年、マンスール2世が新たなアミールとなる。マー・ワラー・アンナフルはカラハン朝に浸食され、ホラーサーンはガズナ朝の君主となったマフムードに占領された。999年にマンスール2世は臣下のベクトゥズンに暗殺され、幼少のアブド・アル=マリク2世が即位する。カラハン朝のイリク・ハンはマリク2世の保護を名目にサーマーン朝の領土に進軍し、999年にブハラは陥落する。政府は民衆の抵抗運動に期待したが、イスラーム化したカラハン朝の進攻に対して頑強な抗戦は行われなかった。捕らえられたマリク2世は獄中で没し、サーマーン朝はカラハン朝とガズナ朝に挟撃される形で滅亡した。

 

滅亡後

サーマーン朝の王族イスマーイール・エル・ムンタジはイリク・ハンから逃れ、マリク2世の死後も抗戦を続けた。イスマーイールはオグズの支援を受けてカラハン朝に勝利を収め、ガズナ朝に占領されていたニーシャープールの奪回に成功する。1005年、イスマーイールは遊牧民によって殺害される。

 

1007年にはサーマーン朝の残党がアム川南方で再興を図ったが、ガズナ朝によって駆逐された。

 

社会

行政機構

サーマーン朝はサーサーン朝やアッバース朝の司法・行政を見本とし、よく整備された官僚制度と徴税システムを備えていた。また、サーマーン朝の君主はサーサーン朝の貴族の家系に連なることを強調した。

 

王朝の経済力を支えたのは在地のイラン系領主(ディフカーン)であり、トルコ系遊牧民の軍人奴隷(グラーム、マムルーク)が軍事力の基盤となっていた。政府には10の行政部局(ディーワーン)が存在し、ジャイハーニーやバルアミーらの宰相によって行政機構は機能していた。ソグディアナ、フェルガナ、ホラーサーンからの税収が国の収入源となり、税収の約半分は軍隊と官僚機構の維持費に充てられていた。サーマーン朝の時代にディフカーンの衰退が進み、王朝を打倒したカラハン朝の時代にディフカーンの没落は決定的になる。

 

軍人奴隷

戦争捕虜などの形で北方の草原地帯から連行された遊牧民は、タシュケントなどの草原地帯とオアシス地帯の境界に位置する都市の奴隷市場で売買されていた。また、奴隷市場で売買されていたグラームの中には、王朝末期の有力者ファーイクのようなイベリア半島出身者もいた。中央アジアと西アジアの境界であるアムダリヤには関所が設置され、中央アジアから西アジアへのグラームの移動には通行許可証と通行料が要求されていた。

 

系統立てられた教育を受け、さらに君主への忠誠と軍事力を兼ね備えていたグラームは、サーマーン朝の隆盛に大いに貢献した。オアシス都市群の文化・経済力とグラームによる国家の発展は、定住民と遊牧民の協調によって生み出された成果とも言える。独立を企てる地方領主はグラームによって制御されており、グラームの重要性はサーマーン朝の命運を左右するほど大きなものとなった。グラームの導入によって支配者層と被支配者層の乖離が進み、支配者層・グラームと国家の人口の大部分を占める都市・周辺地域の住民との関係は断絶する。

 

サーマーン朝で行われていた軍人奴隷の養成システムは、13世紀にエジプトで成立したマムルーク朝の諸制度、オスマン帝国のカプクル(宮廷奴隷)制度の起源になったと考えられている。

 

宗教

サーマーン朝は、ハナフィー学派の信条を公的な教義としていた。ハナフィー派の神学者ハーキム・サマルカンディーの著書『大衆の書』は、イスマーイール・サーマーニーの公認を受けていた。

 

サマルカンドではハーキム・サマルカンディーのほか、ハナフィー学派から分かれたマートゥリーディー学派の祖アブー・マンスール・マートゥリーディー(873年以前 - 944?)が生まれている。マートゥリーディー学派はアシュアリー学派とともに、スンナ派の正統神学とみなされるようになる。また、ザーヒル・イブン・アフマド、アル=カッファールら法学者たちの活動によって、サーマーン朝統治下のホラーサーン北部とトルキスタンにシャーフィイー学派が広まった。

 

サーマーン朝支配下のトルキスタンの都市には、ゾロアスター教徒の共同体が存在していた。また、マニ教を信仰する人々も生活していた。サーマーン朝では、サマルカンドに住むマニ教徒に対する弾圧が計画されたが、マニ教を信仰するトグズ・オグズの指導者が自分たちの領地内のムスリムに報復を行うと脅迫したため、弾圧は中止された。

2025/10/22

栄西(2)

http://www.ochakaido.com/index.htm

栄西禅師 

 「茶は養生の仙薬なり…」ではじまる『喫茶養生記』を著し、お茶を日本に広めた人、栄西禅師。現代、あらためて健康によいと注目されているお茶の効能を、はじめて日本人に知らせた人物です。日本の茶の歴史は、栄西の伝法とともに始まりました。

 

栄西 宗の国へ行く

 鎌倉時代の禅僧栄西禅師は、日本臨済宗の開祖で千光国師ともいわれます。備中(岡山県)吉備津宮神主賀陽(かや)氏の出身で、誕生は保延7年4月。幼少のころから抜きんでた英才と伝えられており、11歳で安養寺の静心に倶舎婆沙二論を学び、13歳で叡山に登り、14歳で落髪。その後ももとの安養寺で修行し、19歳で再び叡山に登り台密の教えを学びました。

 

 若き栄西は、仏教の源である宗の国へ渡り、大陸の正法を学んでわが国仏教の誤りを正したいという強い願いをもっていたようです。時代は保元の乱が勃発し、源平めまぐるしく変わる混乱の世。栄西が入宗を望んだ時代は、遣唐使などの大陸渡航が絶えて300年の月日が経ち、渡海は決死の覚悟と資財を要する一大事でした。しかし困難にもかかわらず、栄西27歳の仁安3年(1168)4月、播磨の唯雅を伴って博多を出帆、入宗に成功します。あこがれの地で天台山万年寺、阿育王山に詣で禅宗への理解を深め、同年9月、天台の経巻60巻を携えて帰朝しました。帰国後は、その経巻を天台座主明雲に呈し、故郷備中、備前を中心に伝法につとめたといいます。

 

帰国後、栄西は、インドへ渡り釈迦八塔を礼拝したいという願いを抱くようになり、再び渡海を試みます。文治3年(1187)に宗国の首都臨安に到着し、インド行きは治安が悪いため、やむなくあきらめました。しかし帰国のために乗船したところ、逆風で浙江省瑞安に上陸。それを機会に天台山万年寺で虚庵懐敞(きあんえしょう)に出会い、師として学びました。さらに天童山景徳禅寺で臨済禅を学び、4年後の建久2年(1191)宗人の船に便乗して帰国しています。

 

この2回の入宗のうち、いずれの折に茶種を持ち帰ったのかは定かではありません。ただ、はじめて栄西が持ち帰った茶の種を捲いたのが、肥前と筑前の境界の背振山であり、2回目の帰着が肥前平戸島であることから、2回目の帰朝で持ち帰ったと考えられているようです。

 

茶の栽培

栄西は茶の実を持ち帰ると、すぐに捲いたようです。これは茶種の寿命は短く、夏を越すと70~80%は発芽力を失うこと、茶の栽培にどのような土地が適しているのかなどについて、栄西はよく心得ていたのでしょう。茶種を捲いたと伝えられる場所の調査によると、その周辺には大きな寺跡があり、古い茶園も認められるといいます。栄西は布教とともに、茶の栽培も積極的に行っていたことがわかります。栄西が茶栽培を推進した理由は、中国の4年間の生活で茶の養生延齢の効力を認めたからということと同時に、その不眠覚醒作用が禅の修行に必要であり、禅宗の行事に茶礼が欠かせないことも、その普及の動機の多くを占めていました。

 

栄西と明恵上人の出会い

政治と結びつきながら日本流仏教が定着していた鎌倉時代に、宗から帰った栄西は、持ち帰った臨済の布教活動で、さまざまな政治的妨害を受けます。しかし、栄西は禅の教えは国を守っていくものであるとする『興禅護国論』などの書物を著し、鎌倉に下り二代将軍頼家の帰依と庇護を受け、元久2年(1205)京都に最初の禅寺建仁寺を完成し第一世となり、禅宗を広める土台を築きました。その2年後、明恵上人が京都栂尾(とがのお)に華巌宗の興隆を願って高山寺を中興し、たびたび栄西を訪れ問答をしていたといいます。栄西は明恵に茶の薬効を話し、喫茶をすすめ、茶の実を栂尾(とがのお)に送ったのではと考えられます。

 

さらに注目すべきことは、京都の栂尾における茶栽培です。その後2世紀にわたり、栂尾における茶の栽培は盛んで、栂尾の茶を本茶、それ以外のものを非茶と称したほどだといいます。狂言「茶壷」にも、この坊の銘茶穂風のことが演じられるほどで、宇治以前の茶名産地が栂尾であったことがわかります。

 

喫茶養生記

栄西は日本に茶生産を広めるため、またその薬効を知らせるために、承元5年(1211)『喫茶養生記』を著します。この書物は上下二巻からなり、茶の薬効から栽培適地、製法まで、細かく記されています。また、森鹿三氏の解説によると、喫茶養生記には初治本と再治本があり、再治本は、この3年後の建保2年(1214)1月に書写し終ったといいます。

 

お茶の効能について記した最古の記述は、鎌倉時代の記録書として有名な『吾妻鏡』。建保2年2月の条に、将軍実朝が宿酔(二日酔い)の際、栄西禅師から茶とともにこの書を献ぜられ、喫したところたちまち治癒されたと伝えられています。このことによって、上流階級の間で茶がもてはやされたことは言うまでもありません。

 

栄西は、再治本を記した翌年の建保3年(1215)7月、寿福寺にて没しました。

2025/10/18

サーマーン朝(1)

サーマーン朝(سامانيان Sāmāniyān, 873 - 999年)は、中央アジア西南部のマー・ワラー・アンナフルとイラン東部のホラーサーンを支配した、イラン系のイスラーム王朝。

 

首都はブハラ。中央アジア最古のイスラーム王朝の1つに数えられる。ブハラ、サマルカンド、フェルガナ、チャーチュ(タシュケント)といったウズベキスタンに含まれる都市のほか、トルクメニスタンの北東部と南西部、アフガニスタン北部、イラン東部のホラーサーン地方を支配した。

 

サーマーン家の君主は、アッバース朝の権威のもとでの地方太守の格であるアミールの称号を名乗り、アッバース朝のカリフの宗主権のもとで支配を行ったが、イスラーム世界において独立王朝が自立の証とする事業を行い、アッバース朝の東部辺境で勢力を振るった。

 

サーマーン朝の時代に東西トルキスタン、およびこれらの地に居住するトルコ系遊牧民のイスラーム化が進行した。

 

英主イスマーイール・サーマーニーは、ウズベキスタンとタジキスタンで民族の英雄として高い評価が与えられ、タジキスタンの通貨単位であるソモニは、サーマーニーに由来している。このイスマーイールが、事実上の王朝の創始者と見なされている。

 

歴史

成立の背景

サーマーン朝を開いたサーマーン家は、マー・ワラー・アンナフルのイラン系土着領主(ディフカーン)の一族で、家名は8世紀前半にイスラームに改宗したサーマーン・フダーの名に由来する。サーマーン・フダーは、サーサーン朝時代の貴族の末裔であると考えられており、またゾロアスター教の神官の家系の出身とも言われ、ウマイヤ朝のホラーサーン総督アサド・イブン・アブドゥッラーによってイスラームに改宗したと伝えられている。

 

サーマーンの息子アサドは、ホラーサーンから挙兵してアッバース朝のカリフ位を奪取したマアムーンに与し、マアムーンを後援したターヒル朝の始祖で、ホラーサーン総督ターヒル・イブン・フサインによって、マー・ワラー・アンナフルの支配を委任されるようになった。

 

819年ごろ、マアムーンはアサドの4人の息子たちであるヌーフ、アフマド、ヤフヤー、イルヤースのそれぞれにサマルカンド、フェルガナ、チャーチュ、ヘラートの各地域の支配権を正式に委任した。827年には、アッバース朝統治下のアレクサンドリア総督に、サーマーン家の人間が選ばれた。

 

ターヒル朝の創始者であるターヒル・イブン・フサイン(ターヒル1世)がアッバース朝のホラーサーン総督に任命された後、サーマーン家はターヒル1世の地位を承認し、ターヒル朝では副総督の地位を獲得する。ヌーフが子をもうけずに没した後、ターヒル1世はヌーフが有していた支配権をアフマドとヤフヤーに分割し、アフマドの子孫がサーマーン家の本家筋となった。アフマドには7人の子がおり、長子のナスル・イブン=アフマド(ナスル1世)がアフマドの跡を継いだ。

 

サーマーン家の独立

こうしたイスラーム勢力の抗争のもとでサーマーン家は次第に勢力を高め、ターヒル朝が滅亡した873年を契機にナスル1世が自立する。875年にアッバース朝第15代カリフ・ムウタミドから、マー・ワラー・アンナフル全域の支配権を与えられてサーマーン朝を開いた。ナスル1世は8世紀末に建国されたサッファール朝に対抗するため、ホラズム地方に勢力を広げ、サーマーン朝の基盤を築いた。

 

ナスル1世はサマルカンドを本拠に定め、874年末に弟イスマーイール・サーマーニーを混乱状態に陥っていたブハラに総督として派遣した。イスマーイールはブハラの内乱を収め、この地を拠点としてホラーサーンの征服を進めた。ナスルは、ブハラのイスマーイールに対して猜疑心を抱くようになり、885年に側近の進言を受けてイスマーイール討伐の軍を起こした。ホラーサーン総督ラフィの仲裁によってナスルとイスマーイールの間に和平が成立し、イスマーイールは徴税官としてブハラに留まった。

 

886年、イスマーイールの反乱を疑ったナスルはブハラ遠征の準備を進めるが、888年末にイスマーイールはナスルの軍を破り、彼を捕虜とした。イスマーイールは勝者であるにもかかわらずナスルを許し、心を打たれたナスルはイスマーイールを後継者に指名した。ナスルは、ヒジュラ暦279年(892 - 893年)に没するまでサマルカンドで君主として君臨し、イスマイールはブハラに駐屯していた。

 

ナスルの死後、イスマーイールは首都をサマルカンドからブハラに移し、カリフ・ムウタディドからアミールの地位の継承を認められる。

 

最盛期

893年、イスマーイールは北方の草原に興ったテュルク系遊牧民の国家カラハン朝の支配下にあったタラスを征服し、多数の戦利品を獲得する。この時、イスマーイールが捕虜とした人物の中にはカラハン朝の妃が含まれ、町のキリスト教教会がモスクに改築されたと伝えられている。以来サーマーン朝はイスラーム世界東部の防壁として、イスラームに帰依していない遊牧民の進攻を抑え、各地から異教徒との戦闘を使命とする信仰の戦士(ガーズィー)が集まった。

 

他方、ブハラの南方ではサッファール朝が勢力を拡大しており、ムウタディドはサーマーン朝とサッファール朝が互いに争って勢力を弱めるように抗争を扇動していた。900年にイスマーイールは、バルフの戦いでサッファール朝の君主アムル・イブン・アル=ライスに勝利し、王朝は最盛期を迎える。イスマーイールは、捕虜としたアムルをバグダードのムウタディドの元に送り、アムルはバグダードで幽閉された後に処刑される。ムウタディドはサッファール朝の拡大を抑止できる勢力の確立を望んでおり、サッファール朝を破った後にサーマーン朝はカリフからマー・ワラー・アンナフルとホラーサーンの支配を認められる。

 

サーマーン朝は、表面上はアッバース朝に従属の意思を示していたが、実際は独立国家としてイラン・中央アジアを統治していた。946年にブワイフ朝がバグダードに入城するまでの間、慣例としてサーマーン朝の歴代君主はカリフへの貢納と引き換えにアミールの地位の承認を受けていた。

 

王朝はニーシャープールに配置した総督を介して、南東のホラーサーン地方を支配した。北東部では、マー・ワラー・アンナフルの東限のスィル川を境にテュルク系の遊牧民からの防備に努める一方、国境でテュルク系遊牧民の子弟を軍人奴隷(グラーム)として購入していた。サーマーン朝が遊牧民に対して実施した聖戦(ジハード)、草原地帯でのサーマーン朝王族、商人、学者、スーフィーの活動はテュルク系遊牧民のイスラームへの改宗を促した。

 

王朝の最盛期は、イスマーイールから彼の孫のナスル2世の時代まで続いた。ナスル2世の在位中に王権は弱体化し、西側の領土をブワイフ朝に割譲した。910年ごろに、エジプトのシーア派国家ファーティマ朝はホラーサーン地方にダーイー(宣教員)を派遣し、シーア派の勢力はブハラの宮廷にも進出する。高官、ナスル2世の側近、ナスル2世自身がシーア派に改宗するに及んで、ウラマー(神学者)やトルコ系の将校はシーア派の排撃を行い、王子ヌーフは父ナスル2世を監禁した。

2025/10/17

栄西(1)

明菴栄西(みょうあん えいさい/ようさい、永治元年420日(1141527日) - 建保375日(121581日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧。日本における臨済宗の宗祖、建仁寺の開山。天台密教葉上流の流祖。字が明菴、諱が栄西。また、廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えたことでも知られる。

 

経歴

『元亨釈書』によれば、永治元年(1141年)420日、吉備津神社の権禰宜・賀陽貞政の曾孫として生まれたと伝わる(実父は諸説あり不明)。生地は備中国賀陽郡宮内村とされるが、他説として同郡上竹村もある。

 

『紀氏系図』(『続群書類従』本)には、異説として紀季重の子で重源の弟とする説を載せているが、これは重源が吉備津宮の再興に尽くしたことや、重源が務めていた東大寺勧進職を栄西が継いだことから生じた説であり、史実ではないと考えられている。

 

久安4年(1148年)、8歳で『倶舎論』、『婆沙論』を読んだと伝えられる。仁平元年(1151年)、備中の安養寺の静心に師事する。

 

久寿元年(1154年)、14歳で比叡山延暦寺にて出家得度。以後、延暦寺、吉備安養寺、伯耆大山寺などで天台宗の教学と密教を学ぶ。行法に優れ、自分の坊号を冠した葉上流を興す。

 

保元2年(1157年)、静心が遷化して、遺言により法兄の千命に従う。翌年の保元3年(1158年)には千命より虚空蔵求聞持法を受ける。

 

平治元年(1159年)、19歳の時に比叡山の有弁に従って天台宗を学ぶ。

 

仁安2年(1167年)、伯耆(鳥取県)大山寺基好より両部(金剛界・胎蔵界)灌頂を受ける。

 

仁安3年(1168年)4月、形骸化し貴族政争の具と堕落した日本天台宗を立て直すべく、平家の庇護と期待を得て南宋に留学。天台山万年寺などを訪れ、9月に『天台章疎』60巻をもって、重源らと帰国した。当時、南宋では禅宗が繁栄しており、日本仏教の精神の立て直しに活用すべく、禅を用いることを決意し学ぶこととなった。

 

これは、後に著された栄西の主著である『興禅護国論』に禅のことが書かれていることより推察されることである。しかし実際には、第一回の入宋時は栄西が最も熱心に天台密教の著作に没頭した時期であり、禅に対してどの程度関心を持っていたかは明らかでないという推察もある。

 

嘉応1年(1169年)ごろ、備前金山寺を復興し、菓上流の灌頂を行う。安元元年(1175年)、誓願寺落慶供養の阿闇梨となる。また『誓願寺建立縁起』を起草。文治3年(1187年)、再び入宋。仏法辿流のためインド渡航を願い出るが許可されず、天台山万年寺の虚庵懐敞に師事。 文治5年(1189年)、虚庵懐敞に随って天童山景徳寺に移る。そして虚庵懐敞より菩薩戒を受ける。

 

建久2年(1191年)、虚庵懐敞より臨済宗黄龍派の嗣法の印可を受け、「明菴」の号を授かる。同年、帰国。九州の福慧光寺、千光寺などで布教を開始。また、帰国の際に宋で入手した茶の種を持ち帰って肥前霊仙寺にて栽培を始め、日本の貴族だけでなく武士や庶民にも茶を飲む習慣が広まるきっかけを作ったと伝えられる。

 

建久5年(1194年)、禅寺感応寺 (出水市)を建立。大日房能忍の禅宗も盛んになるにつれ、延暦寺や興福寺からの排斥を受け、能忍と栄西に禅宗停止が宣下される。建久6年(1195年)、博多に聖福寺を建立し日本最初の禅道場とする。同寺は、後に後鳥羽天皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を賜る。栄西は自身が真言宗の印信を受けるなど、既存勢力との調和、牽制を図った。

 

建久9年(1198年)、『興禅護国論』執筆。禅が既存宗派を否定するものではなく、仏法復興に重要であることを説く。京都での布教に限界を感じて鎌倉に下向し、幕府の庇護を得ようとした。

 

正治2年(1200年)、頼朝一周忌の導師を務める。北条政子建立の寿福寺の住職に招聘。

 

建仁2年(1202年)、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の外護により京都に建仁寺を建立。建仁寺は禅・天台・真言の三宗兼学の寺であった。以後、幕府や朝廷の庇護を受け、禅宗の振興に努めた。

 

元久元年(1204年)、『日本仏法中興願文』を著す。

 

建永元年(1206年)、重源の後を受けて東大寺勧進職に就任。

 

承元3年(1209年)、京都の法勝寺九重塔再建を命じられる。承元5年(1211年)、『喫茶養生記』を著す。

 

建暦2年(1212年)、法印に叙任。

 

建保元年(1213年)、権僧正に栄進。頼家の子の栄実が、栄西のもとで出家する。

 

建保3年(1215年)、享年75(満74歳没)で入滅。かつては、入滅日(65日・75日)と入滅地(鎌倉・京都)に異説があったが、『大乗院具注歴日記』の裏書きによって、75日京都建仁寺で入滅したことが確定している。

 

他者からの栄西観

日本曹洞宗の宗祖である道元は、入宋前に建仁寺で修行しており、師の明全を通じて栄西とは孫弟子の関係になるが、栄西を非常に尊敬し、説法を集めた『正法眼蔵随聞記』では、「なくなられた僧正様は…」と、彼に関するエピソードを数回だが紹介している。なお、栄西と道元は直接会っていたかという問題について、最新の研究では会っていたとする説が有力である。

 

顕彰

1915年(大正4年)には、茶業組合中央会議所の模範試験園に『栄西禅師肖像建設之碑』が建立されている。茶業組合中央会議所会頭の大谷嘉兵衛らにより建てられたものであり、横溝豊によって刻されている。寿福寺の所蔵する栄西の絵を拡大して彫ったとされている。

 

主な著作

    『誓願寺盂蘭盆縁起』 - 栄西の肉筆文書で国宝。福岡市西区の誓願寺に滞在した折書いたと見られ、現在も同寺が所蔵(九州国立博物館寄託)。

 

    『喫茶養生記』 - 上下2巻からなり、上巻では茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする茶の効用が説かれ、下巻では飲水(現在の糖尿病)、中風、不食、瘡、脚気の五病に対する桑の効用と用法が説かれている。このことから、茶桑経(ちゃそうきょう)という別称もある。書かれた年代ははっきりせず、一般には建保2年(1214年)に源実朝に献上したという「茶徳を誉むる所の書」を完本の成立とするが、定説はない。

 

    『無名集』 - 密教について問答形式で書かれた入門書で、安元3年(1177年)に誓願寺で書かれたもの。治承4年(1180年)に写された写本を名古屋市の大須観音が所蔵している。大須観音は『無名集』のほか『隠語集』など複数の写本に加え、直筆書状15通なども所蔵する。

 

栄西の主な弟子

    退耕行勇 - 高野山金剛三昧院を開山。弟子に大歇了心。他に円爾、心地覚心も弟子。

    釈円栄朝 - 弟子に蔵叟朗誉がいる。他に円爾、心地覚心も弟子。

    天庵源祐 - 弟子に済翁証救がいる。

    明全 - 弟子に共に渡宋した道元がいる。

2025/10/15

メルセン条約

メルセン条約(独: Vertrag von Meerssen、仏: Traité de Meerssen)は、87088日にメルセンにおいて、フランク王国の領土の再画定を定めた条約。中部フランク王国の一部を治めていたロタール2世の死去に伴い、東フランク王国の王ルートヴィヒ2世と西フランク王国の王シャルル2世とが締結した。

 

経緯

843年のヴェルダン条約により、フランク王国は三分割されていた。そのうちの中部フランク王国は、855年のプリュム条約でロタール1世の死に伴い、その3人の息子ロドヴィコ2世(神聖ローマ皇帝 ルートヴィヒ2世)、ロタール2世、シャルル(カール)によってさらに分割され、それぞれイタリア・ロタリンギア・プロヴァンスを治めることとなった。しかし863年にシャルルが死去し、その領地は兄ロドヴィコ2世及びロタール2世の間で分割された。さらに869年にロタール2世が嫡出子を残さずに死去した際、当時ルートヴィヒ2世は病床にあり、ロドヴィコ2世もイスラムとの闘いの真っ只中であったことから、シャルル2世が同年99日にメスでロタリンギア王として戴冠した。これに対し、ルートヴィヒ2世も後にロタリンギアの相続権を主張し、その結果、ルートヴィヒ2世とシャルル2世の間で、ロタール2世の遺領(ロタリンギア)の分割を取り決めたのがメルセン条約である。

 

この結果、ロドヴィコ2世はイタリア王国のみの領有が許され、メッツおよびアーヘンを含むロートリンゲン東部、および上ブルグントの大半は東フランク王国に、ロートリンゲン西部およびプロヴァンスは西フランク王国に組み込まれることとなった。ロートリンゲン西部に関しては、後に880年のリブモン条約において東フランク王国に移譲された。これによって、現在のイタリア・ドイツ・フランスの原型が形作られた。

 

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メルセン条約は、神聖ローマ帝国の前身である中部フランク王国の分割を定めた870年の協定で、帝国の地理的基盤となる東フランク王国の領域が確定する重要な契機となった。

 

帝国の外交

カール大帝(742年頃 - 814年)が築いたカロリング帝国は、800年に神聖ローマ皇帝の冠を受けることでヨーロッパの覇権を握りました。しかし、彼の死後、帝国の継承をめぐって孫たちのあいだで対立が深まり、分裂は避けられない状況に。843年のヴェルダン条約で三つに分割された帝国は、その後も勢力争いを繰り返していきます。

 

そして870年に結ばれたのが、今回のテーマであるメルセン条約。これはフランク王家の内部調整というだけでなく、のちの神聖ローマ帝国とフランスの原型をかたちづくる意味でも、非常に大きな節目となった外交協定です。

 

この条約がどんな場所で締結され、どんな内容が話し合われたのか、そしてそれが中世ヨーロッパの秩序にどのような影響を与えたのか、順番に解説していきます。

 

メルセンの場所

まずは、この条約が結ばれた「メルセン」という地について、簡単に見ておきましょう。

 

現在のベルギー東部

メルセン(MersenまたはMeerssen)は、現在のベルギーとオランダの国境付近に位置する小さな町です。当時はロートリンゲン地方(ロレーヌ)の一部であり、三つに分かれたフランク王国のあいだで交通・政治の要衝として機能していました。

 

ヴェルダン条約の後の再調整の場

843年のヴェルダン条約で一度は国境線が引かれましたが、その後、中部フランク王国を継いだロタール1世の子孫が相次いで亡くなったことで、再分割の必要が生じたのです。メルセンは、この再交渉の場として選ばれました。

 

メルセン条約の内容

では、この条約ではどのような取り決めがなされたのでしょうか。

 

中部フランク王国の分割

メルセン条約では、ロタール1世の子ルートヴィヒ2世が嗣子なく没したことを受け、彼の支配していた中部フランク王国(ロタール領)を、残る二人の王東フランク王ルートヴィヒ2世と西フランク王シャルル2世で分け合うことが決められました。

 

ライン川を境に東西が分割

分割線は、ライン川を基準として引かれました。これにより、アルザス・ロレーヌやブルグント地方といった戦略的にも文化的にも重要な地域が、両王国の支配下にそれぞれ取り込まれていきます。

 

メルセン条約の影響

この条約が後世に与えた影響は、単なる国境線の調整にとどまりません。

 

東西フランクの二極構造が定着

メルセン条約以後、フランク王国の中心は西(後のフランス)と東(後の神聖ローマ帝国)という二極に固定されます。中部フランクの消滅によって“中間王国”が消えたことで、フランスとドイツという分断構造がはっきりと形になり始めたのです。

 

国民国家の原型形成に寄与

条約の結果、両地域では異なる統治体制・言語・文化が発展していき、のちのフランス王国と神聖ローマ帝国へと分かれていく基礎が作られました。つまり、この条約はヨーロッパ中世における国家形成の“分水嶺”でもあったわけです。

2025/10/13

法然(5)

専修念仏の提唱

『選択本願念仏集』で、法然は各章ごとに善導や善導の師である道綽のことばを引用してから、自らの見解を述べている。法然においては、道綽と善導の考えを受けて、浄土に往生するための行を称名念仏を指す「正」と、それ以外の行の「雑」に分けて正行を行うように説いている。著書内で、時(時間)機(能力)に応じて釈尊の説かれた聖教のなかから自らの機根に合うものを選びとり、行じていく事が本義である事を説いた。加えて、仏教を専修念仏を行う浄土門と、それ以外の行を行う聖道門に分け、浄土門を娑婆世界を厭い極楽往生を願って専修念仏を行う門、聖道門を現世で修行を行い悟りを目指す門と規定している。また、称名念仏は末法の世でも有効な行であることを説いている。

 

末法の世に生まれた凡夫にとって、聖道門の修行は堪え難く、浄土門に帰し、念仏行を専らにしてゆく事でしか救われる道は望めない。その根拠としては『仏説無量寿経』にある法蔵菩薩の誓願(四十八願の中でも、特に第十八願)を引用して、称名すると往生がかなうということを示し、またその誓願を果たして仏となった阿弥陀仏を十方の諸仏も讃歎しているとある『仏説阿弥陀経』を示し、他の雑行は不要であるとしている。もっとも、法然が浄土門を勧めたのは、自身を含めた凡夫でも確実に往生できる行であったからであって、聖道門とその行によって悟りを得ること自体は困難ではあるが甚だ深いものであるとし、聖道門を排除・否定することはなかった。

 

また、『無量寿経釈』では、『無量寿経』においては仏土往生のために持戒すべきことが説かれているが、専らに戒行を持していなくても念仏すれば往生が遂げられると主張している。ただし、法然は持戒を排除したのではなく、持戒を実際に行うことは大変難しく、法然自身でもそれを貫くのは困難であると考えていたからこそ、自分も含めた凡夫が往生するためには無理な持戒よりも、一心に念仏を唱えるべきであると唱えたのである。それは『無量寿経釈』においても、分際に従って1つでも2つでも持戒をしている者が一心に念仏すれば、必ず往生できると唱えていることからも分かる。

 

なお、法然自身による自分の持戒は不十分であるとする自覚とは反対に、世間では法然を清浄持戒の人物と評価されていた。九条兼実が娘の任子の受戒のための戒師を決める際に、法然が戒律のことを良く知っている僧侶であるとして彼を招聘している(『玉葉』建久2929日条)。

 

三心の信心

法然の称名念仏の考えにおいて、よくみられるのが「三心」である。これは『仏説観無量寿経』に説かれていて、『選択集』・『黒谷上人語灯録』にもみられる語である。「三心」とは「至誠心」(偽りのない心)・「深心」(深く信ずる心)・「廻向発願心」(願往生心)のことである。

 

至誠(しじょう)心

真実の心のこと。真実というのは、心空しくして外見をとりつくろう心のないこと。

 

深(じん)心

疑いなく深く信じること。何を深く信じるかといえば、もろもろの煩悩にとりかこまれ、たくさんの罪をつくってこれという善根のない凡夫であっても、阿弥陀仏の大悲を仰ぎ、その名号をとなえて思い立ってから臨終のときにいたるまで休みなく、或いは十声一声しかとなえることができなかったとしても、多くとなえても少なくしかとなえることができなかったとしても、弥陀の名号をとなえる人はかならず往生すると信じて、たとえ一度しかとなえなかったとしても、その往生を疑わない心を深心という。

 

廻向(えこう)発願心

自分が修めた行いをひたすら極楽にふりむけて、往生したいと願う心のこと。

三心は念仏者の心得るべき根幹をなすもので、大切なものとされている。三心を身につけることについては、『一枚起請文』にて、「ただし三心四修と申すことの候うは、皆決定(けつじょう)して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候なり」と述べ、専修念仏を行うことで身に備わるものであるとしている。

 

このように法然の教えは三心の信心にもあるとおり、我々人は凡夫であるということをまず認識してその上で、阿弥陀仏の大悲を仰ぎ、称名念仏の行に生涯打ち込むべきだとしている。

 

一方、日本中世の体制仏教を顕密体制ととらえる歴史学の立場から、法然の専修念仏思想は称名念仏を末代の唯一の往生行ととらえ、衆生の平等性を主張し、称名念仏しかできない民衆に威厳を与えるものであったする見解もある。

 

逸話

菩提寺の大イチョウ

法然が9歳の時に、生家のある久米南町から菩提寺(岡山県勝田郡奈義町)へ向かう道中に、ふもとにある阿弥陀堂のイチョウの枝を杖にして登り、この枝を「学成れば根付けよ」と境内に挿したものが、現在の菩提寺の大イチョウになったと言われており、この大イチョウは国の天然記念物に指定されている。

平成25年に、これらの樹木のDNA鑑定を行い同じイチョウであると立証されたが、菩提寺イチョウの方が阿弥陀堂のイチョウより樹齢は古いとされている。

2025/10/10

フランク王国分裂(3)

ドイツ・フランス・イタリア

単独の王となったカール3世であったが、能力が伴わず887年に東フランクのカールマンの庶子アルヌルフによって廃位され、翌年には死去した。彼の退位と死は、カロリング朝の一画期を記すものであった。カール3世の死後、東フランクではアルヌルフによってカロリング家の支配が維持されたが、彼は西フランクの有力者から西フランク王位を薦められた際には、これを拒否した。今や東フランクの王は完全にその地に地盤を張っており、西フランクの王位に興味を示さなかった。

 

この結果、西フランクではノルマン人の侵入を撃退して声望を高めていたロベール家のパリ伯ウードが、888年に王に推戴された。これによって初めて、カロリング家以外から王が誕生することとなった。ウードの家系からは、やがてフランス王位に登るカペー家が登場することになる。イタリアでは、女系でカロリング家と血縁関係を持つフリウーリ公ベレンガーリオ1世(ベレンガル1世)が、諸侯の一部の支持を得てトリエントでイタリア王に選出された。

 

こうして、カロリング家によって建設された帝国と王朝は四分五裂の状態となった。しかし、弱体化しつつも帝国の栄光は残り、正当なカロリング朝の後継者として東フランクのカロリング家の宗主権は、イタリアのスポレート公を除きすべての分国から認められていた。血統的正当性を持たない西フランク王ウードは、東フランク王アルヌルフの宗主権を受け入れざるを得ず、後継者にはカロリング家のかつての王ルイ2世の息子シャルル3世(単純王)を指名しなければならなかった。またイタリア王ベレンガーリオ1世も、軍事的圧力の下、アルヌルフからイタリア王位の承認を得なければならなかった。

 

西フランク(フランス)

ロベール家のウードが王位を得たあとも、正統な王家はカロリング家であるという意識は強力であり、ウードの後継者はシャルル3世(単純王)となった。シャルル3世は、領内に侵入してきていたノルマン人との間にサン=クレール=シュール=エプト条約を結んで情勢を安定させるとともに、911年にロートリンゲン(ロレーヌ)の内紛によって、その王位を獲得した。しかし、ロートリンゲン問題への傾注は貴族層の反発を招き、922年に大規模な反乱を引き起こした。

 

この反乱は鎮圧されたものの、シャルル3世は人望を喪失し、ペロンヌ城にその死まで幽閉されることとなった。この結果、西フランク王位はブルゴーニュのリシャール判官公ラウルに委ねられたが、936年に彼が後継者を遺さず死ぬと、カロリング家の復活が模索され、シャルル3世の息子ルイ4世が擁立された。この後、987年にユーグ・カペーが即位するまで、カロリング家の王による統治が継続された。

 

東フランク(ドイツ)

ドイツ人王と称せられるルートヴィヒ2世の治世(840 - 876年)から、アルヌルフが死ぬ899年までの期間、ごく短期間を除き東フランクではカロリング家の1人の王による統治が持続した。

 

その領域内には多数の部族、民族が居住していたが、王家と親族関係を築いた聖俗の貴族が王家の委託を受けて統治する、複数の分国からなる国家へと成長していた。その領域は後世に「ドイツ」と呼ばれる地域にほぼ合致し、単一の「ドイツ」民族への共属意識もこの時期に芽生えることから、歴史学上この王国は東フランク=初期ドイツ王国と呼ばれる。アルヌルフは教皇庁の強い求めに応じてイタリアへ派兵し、896年にはローマ教皇フォルモススによって皇帝に戴冠された。

 

しかし、その主要な関心は西フランク王位の拒否からもわかる通り、東フランク内の分国に対する統制力の維持にあり、基本方針としてはイタリアに対し不介入で臨んだ。彼は将来に備え、嫡出子優先の継承制度を整えたが、後継者となったルートヴィヒ4世は900年に即位したとき7歳であり、王家の親族による合議で運営されるようになった。911年にこのルートヴィヒ4世が死去すると、カロリング王家の男系が断絶した。西フランク王シャルル3世の擁立を目指す動きも不発に終わり、コンラート家のコンラート1世が国王に推戴された。

 

イタリア

フリウーリ公ベレンガーリオ1世(ベレンガル1世)の王位就任以降を、イタリア史では「独立イタリア王国」の時代と呼ぶ。これはカール3世の死によって、フランク王国からイタリアが独立した888年を始まりとし、オットー1世によって神聖ローマ帝国に取り込まれる962年までを言う。

 

女系でカロリング家と血縁を持ったベレンガーリオ1世に対し、同じく女系でこの王家とつながりを持つスポレート公グイードが挑戦を挑み、勝利を収めた。グイードはパヴィアでイタリア王に即位し、891年にはローマで皇帝戴冠を行った。グイードの皇帝位はその息子ランベルトに継承され、ベレンガーリオ1世とランベルト双方から圧力を受けたローマ教皇フォルモススは、東フランク王アルヌルフに救援を求めた。この結果、896年にアルヌルフはベレンガーリオ1世とランベルトの抵抗を排してローマを占領し、そこで皇帝に戴冠された。これは東フランク王による、イタリア政局介入の端緒となった。

 

アルヌルフとランベルトが相次いで死去すると、ベレンガーリオ1世は899年に改めてイタリア王となった。しかし、ベレンガーリオ1世に反対するイタリアの諸侯の一部は、やはり女系でカロリング家の血を引くプロヴァンス王ルイ3世を担ぎ出して900年にイタリア国王に即位させ、901年には皇帝戴冠が行われた。ベレンガーリオ1世は905年にルイを打ち破り、915年には教皇による皇帝戴冠を行った。イタリア諸侯は、なおも高地ブルグントの王ルドルフ2世を担ぎ出して、ベレンガーリオ1世に対抗した。ベレンガーリオ1世は923年に敗れ去り、翌年家臣によって暗殺された。これによって神聖ローマ帝国に組み込まれるまで、イタリアでは皇帝の称号を持つ人物はいなくなった。

2025/10/09

法然(4)

死後・嘉禄の法難

法然の死後15年目の嘉禄3年(1227年)、天台宗の圧力によって隆寛、幸西、空阿が流罪にされ、僧兵に廟所を破壊される事件が発生した。そのため、信空と覚阿が中心となって蓮生(れんじょう、宇都宮頼綱)、信生、法阿、道弁らと六波羅探題の武士たちが護衛して、法然の遺骸を嵯峨の二尊院に移送した。更に証空によって円空がいた太秦の広隆寺境内の来迎院に、更に西山の粟生にいる幸阿の念仏三昧院に運び込んだ。そして、法然の十七回忌でもある安貞2年(1228年)125日に信空、証空、覚阿、幸阿、円空らが見守る中で火葬して荼毘に付し、遺骨は知恩院などに分骨された。

 

嘉禄の法難(かろくのほうなん)は、法然死後に、天台宗の延暦寺衆徒が浄土宗と専修念仏を弾圧した事件。

 

概要

事件の原因

嘉禄3年(1227年)、法然が死去してから十五年がたっていたが、専修念仏は法然が生きていた時代以上にその広まりを強くしていた。特に東山の法然廟所(現、知恩院の法然上人御廟)では、法然の命日である二十五日になると専修念仏者によって大規模な法要が行われ、法然を顕彰していた。そのため、専修念仏を嫌っている比叡山延暦寺の僧たちは、それを苦々しい思いで眺めていた。

 

しかし6月になり、天台宗の僧定照が法然の弟子である多念義の隆寛に『選択本願念仏集』を批判する内容の『弾選択』を書いて送りつけた。それを受けた隆寛は『弾選択』を徹底的に批判する『顕選択』をもって反論し、これを言い負かした。その結果、延暦寺の衆徒は町で専修念仏者を見かけると黒衣を破くといった行動に出、ついには天台座主が朝廷に多念義の隆寛、一念義の幸西、空阿、証空といった浄土宗の僧たちを流罪に処し、さらに東山にある法然の墓を破壊して法然の遺骸を鴨川に流すように訴えでた。この情報を得た証空は、すぐに弁明書を朝廷に提出したため助かったが、他の三名は流罪に処される事となった。

 

事件の経過

そして、延暦寺の僧兵が動き出した。朝廷の許可など出ていない状態で法然廟所を襲って破壊したのである。 これに驚いた浄土宗の僧たちは、天台宗の僧兵たちが更に法然の遺骸を鴨川に流すつもりでいるのを聞き、信空と覚阿が中心となって機先を制して22日に法然の遺骸を掘りおこし、嵯峨の二尊院に運ぶことにした。事は秘密裏に行われるはずだったが、これを聞いた浄土宗の信者である蓮生(宇都宮頼綱)、信生(塩谷朝業)、法阿(東胤頼)、道弁(渋谷七郎)などの出家者や、六波羅探題の武士団が1000名も集まって遺骸移送の護衛についた。そのため、二尊院に着いた頃には延暦寺側に動きがばれてしまい、今度は証空が中心となって28日に円空がいた太秦の広隆寺境内にある来迎院(現、西光寺)に移し、一旦改葬を行った。 7月に入ると、隆寛は陸奥に、幸西は壱岐に、空阿は薩摩に配流され、10月には延暦寺の僧達が入手した『選択本願念仏集』の版木を延暦寺大講堂の前で焼き捨て、依然として天台宗は浄土宗へ圧力をかけ続けていた。

 

翌安貞2年(1228年)1月、更に法然の遺骸を西山の粟生にいる幸阿の念仏三昧院(現、光明寺)に運び込んだ。すると、そこで幸阿と円空がそろって奇瑞を見たというので、丁度法然の十七回忌でもある25日に信空、証空、覚阿、幸阿、円空らが見守る中で火葬して荼毘に付した。この後、遺骨は念仏三昧院や知恩院など各地に分骨された。

 

教義

一般に、法然は善導の『観経疏』(かんぎょうしょ)によって称名念仏による専修念仏を説いたとされている。ここでは顕密の修行のすべてを難行・雑行としてしりぞけ、阿弥陀仏の本願力を堅く信じて「南無阿弥陀仏」と念仏を唱える易行(いぎょう)のみが正行とされた。

 

法然の教えは都だけではなく、地方の武士や庶民にも広がり、摂関家の九条兼実ら新時代の到来に不安をかかえる中央貴族にも広まった。兼実の求めに応えて、その教義を記した著作が『選択本願念仏集』である。日本仏教史上初めて、一般の女性にひろく布教をおこなったのも法然であり、かれは国家権力との関係を断ちきり、個人の救済に専念する姿勢を示した。

 

自分を含めて万人の救済を追求した法然は「自力」の仏教を離れ「他力」の仏教に行き着いた。それまでの仏教は、万人が「仏」になる方法を示していなかったのであった。ここで言う「仏」とはもちろん死者の意味ではなく、「真理を悟った人」の意味である。仏教の目的は人が「仏」になることにある。

 

「真理を悟った人」とは、すべての存在を「ありのまま」に見る「智慧」を獲得し、あらゆる人に対し平等の「慈悲」を実践できる人ということができる。法然の心をとらえたのは、このような「智慧」や「慈悲」の獲得が、万人に開かれているのかどうか、という問題であった。

 

この問題に答えるために、法然が見いだした人間観こそ「凡夫」に他ならない。「凡夫」とは、「煩悩」にとらわれた存在である。片時も欲望から自由であることができない、欲望をコントロールできない存在である。それが普通の人間である。その普通の人間が欲望を持ったまま「仏」となる道が求められねばならない。「凡夫」が「仏」となる教えも仏教にあるはずだ、と法然は考えた。こうして発見されたのが、「阿弥陀仏の本願力によって救われてゆく称名念仏」であり「浄土宗」なのである。

2025/10/06

フランク王国分裂(2)

中部フランク王国の分解

ヴェルダン条約締結の後、3人の王はそれぞれの領地に戻ったが、必要に応じて協議をするために定期的に参集することが取り決められていた。この体制は「兄弟支配体制」と呼ばれている。

 

844年に最初の会合が持たれ、帝国の一体性が確認され相互の協調が確認されたが、この体制は短期間しか維持されなかった。皇帝ロタール1世は、850年に伝統的な帝国の宮廷であったアーヘンではなくローマで、ローマ教皇に息子であるルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)の皇帝戴冠を執り行わせた。このことは、皇帝戴冠を行う「正しい場所」をめぐる論争を引き起こした。

 

855年、ロタール1世の死に際し、中部フランク王国はその息子たちによってさらに細かく分割された。長男のルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)が皇帝位とイタリアを、次男ロタール2世がフリースラントからジュラ山脈までを(この地方は、のちにこのロタール2世の名にちなんでロタリンギア(ロートリンゲン)と呼ばれるようになる)、三男のシャルルがブルゴーニュ南部とプロヴァンスを相続した。

 

プロヴァンス王となったシャルルは、まだ幼年でありしかも病弱であったため、実権はヴィエンヌ伯ジラール・ド・ルシヨンが掌握した。彼はロタール2世と相談し、もしシャルルが相続人を遺さず死んだときは、シャルルの王国をロタール2世の王国に併合することを構想した。しかし、実際にシャルルが後継者のないまま863年に死亡すると、皇帝兼イタリア王ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)がプロヴァンスの継承権を主張し、結局プロヴァンス王国はロタール2世とルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)の間で分割されることとなった。

 

ロタール2世のロートリンゲン(ロレーヌ)王国でも、相続の問題が発生した。ロタール2世は妻のテウトベルガとの間に後継者が生まれなかったことから、愛人のヴァルトラーダと結婚することで庶子であるユーグを後継者にしようとしたが、この結婚をめぐってローマ教皇庁、東西フランク王国を巻き込む政争が発生した。東フランク王ルートヴィヒ2世と西フランク王シャルル2世はこれに乗じ、共謀してロタール2世の王国を分割することを約した。結局、ロタール2世はヴァルトラーダとの結婚を果たせず、正式の後継者を持てないまま869年に死去した。この時点で、東フランク王ルートヴィヒ2世は重病の床にあり、皇帝ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)はイタリアでイスラーム軍との戦いに忙殺されており、漁夫の利を得た西フランク王シャルル2世がロートリンゲン(ロレーヌ)王国を手中に収めた。

 

最後の統一

東フランク王ルートヴィヒ2世も、865年に自分の死後の分割相続について定めた。彼の王国もまた中部フランク王国と同じように息子たちによって分割相続されることとなり、カールマンにバイエルンとスラブ人やランゴバルド人との境界地に設けられた辺境区が、ルートヴィヒ3世にオストフランケン(東フランキア)、テューリンゲン、ザクセンが、カール3世にアレマンネンとラエティア・クリエンシスが割り当てられた。

 

この東フランク王ルートヴィヒ2世が、その軍事力を背景にロートリンゲンの継承権を主張したため、西フランク王シャルル2世は譲歩し、メルセン条約によってロートリンゲン(ロレーヌ)は両者間で分割された。この条約の結果、中部フランク王国はイタリアを残して消滅し、現代のドイツ、フランス、イタリアの国境の原型が形成された。

 

875年、皇帝兼イタリア王ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)も後継者を遺さず死亡すると、シャルル2世はこの機を逃さず教皇ヨハンネス8世に接近し、イタリア王国の支配と皇帝の地位を手中に収めた。続けて東フランクでルートヴィヒ2世が死去(876年)すると、西フランク王シャルル2世はフランク王国の再度の統一を実現しようと東フランクへ軍を進めた。しかし、ルートヴィヒ2世の息子、ルートヴィヒ3世は残り2人の兄弟とともに連合軍を組織し、アンデルナハの戦いで西フランク軍を壊滅させた。統一の試みは失敗し、翌年シャルル2世はサヴォワで病没した。

 

その後、東フランクでは主導権を握っていたルートヴィヒ3世とカールマンが相次いで死去し、残っていたカール3世(肥満王)が予想外の幸運により東フランク全体の王となった。カール3世はさらに、皇帝の地位とイタリア王位も手にした。さらなる幸運が、カール3世に西フランク王位をもたらした。西フランク王国でシャルル2世の王位を継いだのは短命のルイ2世(ルートヴィヒ2世)であり、その息子であるルイ3世(ルートヴィヒ3世)とカルロマン2世(カールマン2世)も短期間に事故死した。短期間に王が何人も交代する不安定な状況の中、実権を握った修道院長ゴズラン(Gozlan)は、西フランク王位をカール3世に委ねた。名目的かつ一時的ではあったものの、これによってカール3世はフランク王国にただ一人の王として君臨する最後の人物となった。

2025/10/04

法然(3)

転機

建永元年(1206年)12月頃、後鳥羽上皇の熊野御幸の間に、安楽房遵西と住蓮が鹿ヶ谷で開いた別時念仏会に院の女房らが参加した。『愚管抄』によれば、彼女たちは安楽房の説法を聞くために彼らを上皇不在の御所に招き入れ、夜遅くなったからとしてそのまま御所に泊めたとされている。彼女らの中に出家をする者があった。

 

なお、出家したのは松虫(松虫姫)と鈴虫(鈴虫姫)という名前の女性だったという説がある。この二名の名前は、『安楽寺略縁起』や『住連山安楽寺鹿ケ谷因縁団』等にみられる記述である。この説に対し仏教史家の今井雅晴は、『安楽寺略縁起』は江戸時代末期の成立、『住蓮山安楽寺鹿ケ谷因縁団』は1899年(明治32年)に刊行されており、この時代以前の資料に記述が見られない事から、江戸時代以降の創作である可能性が高いとしている。

 

法難

女房の一部が出家したことに加えて、男性を自分の不在中に御所内に泊めたことを知った後鳥羽上皇は憤怒し、建永2年(1207年)2月、専修念仏の停止を決定。住蓮房・安楽房に死罪を言い渡し、安楽房は六條河原において、住蓮房は近江国馬渕にて処される。その他に、西意善綽房・性願房の2名も死罪に処される。

 

同月28日、怒りの治まらない上皇は、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子を流罪に処した。法然は、土佐国番田(現、高知県)へ、親鸞は越後国国府(現、新潟県)へ配流される。 この時、法然・親鸞は僧籍を剥奪される。法然は「藤井元彦」の俗名を与えられ、親鸞は「藤井善信」(ふじいよしざね)を与えられる。

 

しかし法然は土佐まで赴くことはなく、円証(九条兼実)の庇護により、九条家領地の讃岐国(現、香川県)に配流地が変更され、讃岐で10ヶ月ほど布教する。

 

その後、法然に対し赦免の宣旨が下った。しかし入洛は許されなかったため、摂津の勝尾寺(大阪府)で滞在する。ようやく建暦元年(1211年)11月、法然に入洛の許可が下り、帰京できたものの、2ヵ月後の建暦2年(1212年)125日、死去する。

 

建暦元年(1211年)11月、親鸞に対しても赦免の宣旨が下る。親鸞は、法然との再会を願うものの、時期的に豪雪地帯の越後から京都へ戻ることが出来なかった。雪解けを待つ内に法然は亡くなり、師との再会は叶わないものと知る。親鸞は、子供が幼かったこともあり越後に留まることを決め、後に東国の布教に注力することになる。

 

親鸞の「承元の法難」に対する怒りと後鳥羽上皇批判

この時、処断された者の一人である親鸞は著作『顕浄土真実教行証文類』の中で、「後鳥羽上皇とその臣下が、法を無視し義に反する行いをした」と批判している。これについて、今井雅晴は、親鸞の批判の背景として、次のように考えている。

 

後鳥羽上皇が、女官に出家を決意させた安楽等の専修念仏者に怒りを募らせ恨むあまり、公卿を集めた会議や儒学者への法的見解の諮問といった、当時の一般的な刑罰決定の手順を一切省略し「法に背き義に反する」院宣を下した事。

 

“死刑が決定した場合、死刑囚に対し死刑宣告のみを行い実際には死刑を執行しない”という、当時の朝廷が受け継いでいた伝統的な慣例を独断で破り、実際に死刑を執行してしまった事。

等の後鳥羽上皇の行いに対し、公的に用いるべき権力を私的に利用したとして、反感を募らせていたとみられる。親鸞の批判は、法律や慣習を無視し、権力を傘に超法規的な手段で私怨を晴らそうとした後鳥羽上皇の人間性や、それに伴う処断の違法性を糾弾する内容であり、朝廷が念仏弾圧を行ったから等という類の批判ではない。以上が今井雅晴の説である。

 

承元の法難に対する異説

中世日本史を専門とする歴史学者の本郷和人は、従来の歴史観による「承元の法難」理解は、『「南無阿弥陀仏を認めるか認めないか」という純粋な宗教的対立がきっかけとなり、宗教が元で人が死ぬまでに至った事件として認知されている』出来事であると定義している。

 

その上で、本郷は「この事件は、法然の門弟たちが後鳥羽上皇の寵愛する女官たちと密通したうえ、上皇の留守中に彼女たちが出家してしまったため、後鳥羽上皇の逆鱗に触れたという話で、密通事件さえ起きなければ宗教がもとで人が死ぬことは無かったと言える」との見解を示している。

 

讃岐配流と晩年

讃岐国滞在は10ヶ月と短いものであったが、九条家領地の塩飽諸島本島や西念寺(現・香川県仲多度郡まんのう町)を拠点に、75歳の高齢にもかかわらず讃岐国中に布教の足跡を残し、空海の建てた由緒ある善通寺にも参詣している。法然を偲ぶ法然寺も高松市に所在する。

 

承元元年(1207年)12月に赦免されて讃岐国から戻った法然が、摂津国豊島郡(現・箕面市)の勝尾寺に承元4年(1210年)321日まで滞在していた記録が残っている。翌年の建暦元年(1211年)には京に帰り、吉水草庵に入ろうとしたが荒れ果てていたため、近くにある大谷禅房(現・知恩院勢至堂)に入っている。

 

建暦2年(1212年)125日、大谷禅房にて死去。享年80(満78歳没)。なお、死の直前の123日には弟子の源智の願いに応じて、遺言書『一枚起請文』を記している。廟所は大谷禅房の隣(現・知恩院法然上人御廟)に建てられた。

 

法然の門下には、弁長・源智・信空・隆寛・証空・聖覚・湛空・長西・幸西・道弁・親鸞・蓮生(れんせい、熊谷直実)らがいる。また俗人の帰依者・庇護者としては、公家の式子内親王・九条兼実、関東武士の津戸(つのと)三郎為守・大胡(おおご)四郎隆義・大胡太郎実秀父子・宇都宮頼綱などがいる。

2025/10/02

フランク王国分裂(1)

帝国の分割

カール1世のカロリング帝国は、その領内の諸民族がひとつのキリスト教世界を構成し、宗教や文化において一体であるとする共属意識をもたらしたが、最終的にはカール1世の強烈な個性と政治力によって維持されたのであり、個々人の関係を中心とする属人性を越えた一体的な法規や、制度に基づく統治機構を備えるわけではなかった。統治機構においては、国家と同一的な存在となった教会組織網が重大な役割を果たしたが、教会組織も聖職者たちの人的結合に、いまだその基礎をおいていた。カール1世もまた、フランクの伝統的な分割相続に備え、自分の息子たちを各地に配置した。

 

806年の王国分割令によって、すでにイタリア(ランゴバルド)分王国の王となっていたピピンと、アキテーヌの分国王となっていたルートヴィヒ1世(ルイ)の支配を確認するとともに、長男小カールにはアーヘンの王宮を含むフランキアの相続を保証することとし、それぞれの境界を定めた。これは兄弟間での協力による王国の統一というフランク王国の伝統的原理を踏襲したもので、嫡男としての小カールの優越を保証するものではなかった。

 

しかし実際には、810年にイタリア王ピピンが、811年に小カールが相次いで歿したため、814年にカール1世が死去した時には、ルートヴィヒ1世(ルイ敬虔帝)が唯一の後継者となった。ルートヴィヒ1世の綽名「敬虔な(Pius)」は、彼の宗教生活への傾斜から来ている。彼は宮廷から華美を一掃した。評判の悪い姉妹たちを追放し、アーヘンから品行の悪い男女を締め出すことまでしている。また、父カール1世に仕えていた宮廷人に変えて、アキテーヌ時代からの側近を登用した。さらにアニアーヌ修道院の院長で、厳格な戒律の適用による修道生活の改革運動をしていたアニアーヌのベネディクトを政治顧問とした。

 

ルートヴィヒ1世は、814年に宮廷の木造アーチの一部が崩れ、それに巻き込まれて負傷するという事故が起きたとき、これを自己の生命が近いうちに終わるという不吉な予兆と見て、同年のうちに帝国の相続を定めて布告することを決定した。これによって発せられたのが、帝国整序令(帝国分割令)と呼ばれる有名な布告であり、この布告によって長子ロタール1世(ロータル1世)はただちに共治帝となり、次男ピピン1世はアキテーヌ王、末子ルートヴィヒ2世はバイエルンを相続することとなった。ルートヴィヒ1世の死後は、兄弟たちは長男ロタール1世に服属すべきことも定められた。イタリア王ピピンの庶子ベルンハルトはこの決定に不満を持ち、818年に反旗を翻したが鎮圧され、イタリアはロタール1世の直轄地となった。

 

こうして早期に継承に関する取り決めがなされたが、バイエルンの名門ヴェルフェン家の出身でルートヴィヒ1世の王妃の1人であったユーディト・フォン・アルトドルフがシャルル2世(カール2世)を生むと、彼女は自分の息子にも領土の分配を要求した。これは、統一帝国の理念の下、ロタール1世の単独支配を主張する帝国貴族団と、ヴェルフェン家の対立を誘発した。また、ロタール1世の独裁を警戒するピピンとルートヴィヒ2世の思惑も絡み、複雑な権力闘争が繰り広げられることとなった。

 

緊迫した状況の中で、長兄のロタール1世が最初の動きを起こした。ロタール1世は830年、ブルターニュ遠征の失敗による混乱に乗じて父ルートヴィヒ1世を追放し、帝位を奪った。しかし、ピピンとルートヴィヒ2世はこれに反対して、ルートヴィヒ1世を復帰させた。さらに833年にも同様の試みが行われ、834年にまたもルートヴィヒ1世が復位するなど、ロタール1世と兄弟たちとの争いは一種の膠着状態となった。

 

この争いのさなか、シャルル2世の成人(15歳)が近づきつつあった。母親のユーディトはロタール1世と結び、837年にフリーセン地方からミューズ川までの地域と、ブルグンディア(ブルゴーニュ)をシャルル2世に相続させることをルートヴィヒ1世に認めさせた。翌年にはアキテーヌのピピンが死亡し、その息子であるアキテーヌのピピン2世の相続権は無視されるかと思われたが、現地のアキテーヌ人たちはアキテーヌのピピン2世を支持した。

 

バイエルンを拠点に勢力を拡大したルートヴィヒ2世は、ルートヴィヒ1世がシャルル2世に約束した地域のうち、ライン川右岸のほぼ全域の支配権を主張して譲らず、840年に反乱を起こした。この反乱を鎮圧に向かったルートヴィヒ1世は、フランクフルト近郊で急死した。

 

ヴェルダン条約

ルートヴィヒ1世の死を受けて、イタリアを支配していたロタール1世は、ローマ教皇グレゴリウス4世やアキテーヌ王ピピン2世と結ぶ一方、ルートヴィヒ2世とシャルル2世が同盟を組んでこれに対応した。841年、同時代の記録においてフランク王国史上最大の戦いとされるフォントノワの戦いで、ルートヴィヒ2世とシャルル2世が勝利し、ロタール1世は逃亡した。

 

ルートヴィヒ2世とシャルル2世はロタール1世を追撃する中、ストラスブールで互いの言語でロタール1世との個別取引を行わないとする宣誓を互いの家臣団の前で行った(ストラスブールの誓い)。この宣誓の言葉は、シャルル2世の家臣ニタルト(ニタール)の残した書物に記されて現存しており、ルートヴィヒ2世によるシャルル2世の家臣団への宣誓の呼びかけは、フランス語(古期ロマンス語)が文字記録として残された最古の例である。敗走するロタール1世は、弟たちに対抗するためにヴァイキングやザクセン人、異教徒であるスラブ人との同盟も厭わなかった。

 

争いの激化が互いの利益を損なうことを懸念した三者は、842年、ブルゴーニュのマコンで会談し、和平を結んだ。この和平の席で、帝国の分割が改めて合意され、3人の王が40名ずつ有力な家臣を出して、新たな分割線を決定するための委員会が設けられた。この結果、843年にヴェルダン条約が締結され、分割線が最終承認された。

 

ヴェルダン条約の結果、帝国の東部をルートヴィヒ2世(東フランク王国)、西部をシャルル2世(西フランク王国)、両王国の中間部分とイタリアを皇帝たるロタール1世(中部フランク王国)が、それぞれ領有することが決定し、国王宮廷がそれぞれに割り振られた。この分割は「妥当な分割」を目指して司教管区、修道院、伯領、国家領、国王宮廷、封臣に与えられている封地、所領の数などを考慮して決定された。しかしその結果、各分王国の所領は(特にロタール1世の中部フランク王国について)きわめて人工的な、まとまりのない地域の寄せ集めとなり、統治は困難を極めた。

2025/10/01

法然(2)

延暦寺奏状・興福寺奏状と承元の法難

元久元年(1204年)、比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので、法然は『七箇条制誡』を草して門弟190名の署名を添えて延暦寺に送った。しかし、元久2年(1205年)の興福寺奏状の提出が原因のひとつとなって承元元年(1207年)、後鳥羽上皇により念仏停止の断が下された。

 

念仏停止の断のより直接のきっかけは、奏状の出された年に起こった後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に、院の女房たちが法然門下で唱導を能くする遵西・住蓮のひらいた東山鹿ヶ谷草庵(京都市左京区)での念仏法会に参加し、さらに出家して尼僧となったという事件であった。 この事件に関連して、女房たちは遵西・住蓮と密通したという噂が流れ、それが上皇の大きな怒りを買ったのである。

 

法然は還俗させられ、「藤井元彦」を名前として土佐国に流される予定だったが配流途中、九条兼実の庇護により讃岐国への流罪に変更された。なお、親鸞はこのとき越後国に配流とされた。

 

承元の法難(じょうげんのほうなん)とは、1207年(建永二年、承元元年)後鳥羽上皇によって法然の門弟4人が死罪とされ、法然及び親鸞ら門弟7人が流罪とされた事件。建永の法難(けんえいのほうなん)とも。

 

宣旨自体は1207227日に土御門天皇の命で出されているが、当時13歳であった土御門天皇の意志とは考えられておらず、院政を敷いていた後鳥羽上皇の意志による処断であると一般に認知されている。

 

従来、その処断理由について、法然や親鸞などによる念仏宗が国家体制を揺るがしかねないとして、朝廷及び朝廷と結びつきの強い旧仏教教団による念仏宗の弾圧であると解釈されてきた。

 

法然の伝記『法然上人行状絵図 四十八巻伝」(国宝)』によると、120612月、後鳥羽上皇の熊野詣の折、法然門下の住蓮と安楽が東山鹿ケ谷で催した念仏集会へ宮中の女官数名が密かに参加した。この内数名の女官が感銘を受けそのまま出家、帰京しこの事を知った後鳥羽上皇が激怒し住蓮と安楽を逮捕した、と記されている。

 

当時の時代的背景として、藤原氏の氏寺である興福寺から念仏宗を非難する訴えを受けた事から、朝廷とて無視する事はできず、かといって積極的に念仏宗の弾圧を行う状況にも無い中、朝廷は念仏宗への対応を保留としていた。

 

そのような時勢の中で起きた上記の事件をきっかけに、後鳥羽上皇は密通等不義の行いを大義名分として、主催の4人を死罪、関係未詳の親鸞を含む7人及びその師である法然の計8名を流刑とするなど、次々に念仏宗一派を処断した。

 

蓮如は「歎異抄」の自筆写本の奥書において、この時処分された人々を「興福寺の僧が敵意を持って後鳥羽上皇に讒言した上、法然の弟子に風紀を乱す行いをする者がいるという無実の噂により処断された人」であるとした。

 

概要

延暦寺からの批判

元久元年(1204年)10月、延暦寺の衆徒は、専修念仏の停止(ちょうじ)を訴える決議を行う(「延暦寺奏状」)。彼らは、当時の天台座主真性に対して訴えを起こした。

 

「延暦寺奏状」

延暦寺三千大衆 法師等 誠惶誠恐謹言

天裁を蒙り一向専修の濫行を停止せられることを請う子細の状

一、弥陀念仏を以て別に宗を建てるべからずの事

一、一向専修の党類、神明に向背す不当の事

一、一向専修、倭漢の礼に快からざる事

一、諸教修行を捨てて専念弥陀仏が廣行流布す時節の未だ至らざる事

一、一向専修の輩、経に背き師に逆う事

一、一向専修の濫悪を停止して護国の諸宗を興隆せらるべき事

 

興福寺からの批判

元久2年(1205年)9月、興福寺の僧徒から朝廷へ法然に対する提訴が行われ、翌月には改めて法然に対する九箇条の過失(「興福寺奏状」)を挙げ、朝廷に専修念仏の停止を訴える。

 

「興福寺奏状」

興福寺僧網大法師等 誠惶誠恐謹言

殊に天裁を蒙り、永く沙門源空勧むるところの専修念仏の宗義を糺改せられんことを請ふの状右、謹んで案内を考ふるに一の沙門あり、世に法然と号す。念仏の宗を立てて、専修の行を勧む。その詞古師に似たりと雖もその心、多く本説に乖けり。ほぼその過を勘ふるに、略して九ヶ条あり。

 

九箇条の失の事

第一 新宗を立つる失

第二 新像を図する失

第三 釋尊を軽んずる失

第四 不善を妨ぐる失

第五 霊神に背く失

第六 浄土に暗き失

第七 念仏を誤る失

第八 釋衆を損ずる失

第九 国土を乱る失

 

法然の対応

元久元年(1204年)11月、法然は、自戒の決意を示すべく記した「七箇条制誡」に門弟ら190名の署名を添えて延暦寺に送った。しかし、『一念往生義』を説く法本房行空や、『六時礼讃』に節をつけて勤める法会で人気を博していた安楽房遵西が非難の的にされた。法然は行空を破門したものの、事態は収まらなかった。

 

朝廷の対応

朝廷は、朝廷内部にも信者がいることもあり「法然の門弟の一部には不良行為を行う者もいるだろう」と比較的静観し、興福寺に対しては元久21219日に法然の「門弟の浅智」を非難して、師匠である法然を宥免する宣旨が出された。これに納得しない興福寺の衆徒は翌元久32月に五師三綱の高僧を上洛させ、摂関家に対して法然らの処罰を働きかけた。その結果、330日に遵西と行空を処罰することを確約した宣旨を出したところ、同日に法然が行空を破門にしたことから、興福寺側も一旦これを受け入れたため、その他の僧侶に対しては厳罰は処さずにいた。

 

ところが、5月に入ると再び興福寺側から強い処分を望む意見が届けられ、朝廷では連日協議が続けられた。ところが興福寺奏状には「八宗同心の訴訟」であると高らかに謳っていたにもかかわらず、先に訴えを起こした延暦寺でさえ共同行動の動きは見られず、当事者である興福寺側の意見が必ずしも一致していないことが明らかとなったために、朝廷の協議もうやむやのうちに終わった。

 

朝廷が危惧した春日神木を伴う強訴もなく、6月には摂政に就任した近衛家実を祝するために興福寺別当らが上洛するなど、興福寺側も朝廷の回答遅延に反発するような動きは見られず、このまま事態は収拾されるかと思われた。そして、実際に法然らの流罪までに延暦寺や興福寺が何らかの具体的な行動を起こしたことを示す記録は残されていない。