2025/10/15

メルセン条約

メルセン条約(独: Vertrag von Meerssen、仏: Traité de Meerssen)は、87088日にメルセンにおいて、フランク王国の領土の再画定を定めた条約。中部フランク王国の一部を治めていたロタール2世の死去に伴い、東フランク王国の王ルートヴィヒ2世と西フランク王国の王シャルル2世とが締結した。

 

経緯

843年のヴェルダン条約により、フランク王国は三分割されていた。そのうちの中部フランク王国は、855年のプリュム条約でロタール1世の死に伴い、その3人の息子ロドヴィコ2世(神聖ローマ皇帝 ルートヴィヒ2世)、ロタール2世、シャルル(カール)によってさらに分割され、それぞれイタリア・ロタリンギア・プロヴァンスを治めることとなった。しかし863年にシャルルが死去し、その領地は兄ロドヴィコ2世及びロタール2世の間で分割された。さらに869年にロタール2世が嫡出子を残さずに死去した際、当時ルートヴィヒ2世は病床にあり、ロドヴィコ2世もイスラムとの闘いの真っ只中であったことから、シャルル2世が同年99日にメスでロタリンギア王として戴冠した。これに対し、ルートヴィヒ2世も後にロタリンギアの相続権を主張し、その結果、ルートヴィヒ2世とシャルル2世の間で、ロタール2世の遺領(ロタリンギア)の分割を取り決めたのがメルセン条約である。

 

この結果、ロドヴィコ2世はイタリア王国のみの領有が許され、メッツおよびアーヘンを含むロートリンゲン東部、および上ブルグントの大半は東フランク王国に、ロートリンゲン西部およびプロヴァンスは西フランク王国に組み込まれることとなった。ロートリンゲン西部に関しては、後に880年のリブモン条約において東フランク王国に移譲された。これによって、現在のイタリア・ドイツ・フランスの原型が形作られた。

 

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メルセン条約は、神聖ローマ帝国の前身である中部フランク王国の分割を定めた870年の協定で、帝国の地理的基盤となる東フランク王国の領域が確定する重要な契機となった。

 

帝国の外交

カール大帝(742年頃 - 814年)が築いたカロリング帝国は、800年に神聖ローマ皇帝の冠を受けることでヨーロッパの覇権を握りました。しかし、彼の死後、帝国の継承をめぐって孫たちのあいだで対立が深まり、分裂は避けられない状況に。843年のヴェルダン条約で三つに分割された帝国は、その後も勢力争いを繰り返していきます。

 

そして870年に結ばれたのが、今回のテーマであるメルセン条約。これはフランク王家の内部調整というだけでなく、のちの神聖ローマ帝国とフランスの原型をかたちづくる意味でも、非常に大きな節目となった外交協定です。

 

この条約がどんな場所で締結され、どんな内容が話し合われたのか、そしてそれが中世ヨーロッパの秩序にどのような影響を与えたのか、順番に解説していきます。

 

メルセンの場所

まずは、この条約が結ばれた「メルセン」という地について、簡単に見ておきましょう。

 

現在のベルギー東部

メルセン(MersenまたはMeerssen)は、現在のベルギーとオランダの国境付近に位置する小さな町です。当時はロートリンゲン地方(ロレーヌ)の一部であり、三つに分かれたフランク王国のあいだで交通・政治の要衝として機能していました。

 

ヴェルダン条約の後の再調整の場

843年のヴェルダン条約で一度は国境線が引かれましたが、その後、中部フランク王国を継いだロタール1世の子孫が相次いで亡くなったことで、再分割の必要が生じたのです。メルセンは、この再交渉の場として選ばれました。

 

メルセン条約の内容

では、この条約ではどのような取り決めがなされたのでしょうか。

 

中部フランク王国の分割

メルセン条約では、ロタール1世の子ルートヴィヒ2世が嗣子なく没したことを受け、彼の支配していた中部フランク王国(ロタール領)を、残る二人の王東フランク王ルートヴィヒ2世と西フランク王シャルル2世で分け合うことが決められました。

 

ライン川を境に東西が分割

分割線は、ライン川を基準として引かれました。これにより、アルザス・ロレーヌやブルグント地方といった戦略的にも文化的にも重要な地域が、両王国の支配下にそれぞれ取り込まれていきます。

 

メルセン条約の影響

この条約が後世に与えた影響は、単なる国境線の調整にとどまりません。

 

東西フランクの二極構造が定着

メルセン条約以後、フランク王国の中心は西(後のフランス)と東(後の神聖ローマ帝国)という二極に固定されます。中部フランクの消滅によって“中間王国”が消えたことで、フランスとドイツという分断構造がはっきりと形になり始めたのです。

 

国民国家の原型形成に寄与

条約の結果、両地域では異なる統治体制・言語・文化が発展していき、のちのフランス王国と神聖ローマ帝国へと分かれていく基礎が作られました。つまり、この条約はヨーロッパ中世における国家形成の“分水嶺”でもあったわけです。

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