2025/10/29

道元(2)

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概要

生没:正治212日(1200119)- 建長5828(1253922)

 

鎌倉時代の禅僧。主著は『正法眼蔵』など。京都の名門貴族久我家の生まれ。幼少期に両親を失い、親戚から養子として引き取る話も出たが、彼は世を儚み仏門に入る事になる。

 

道元は3歳の時に父をなくし、8歳の時に母を失った。母の死は大きなショックを道元に与え、仏門を志すきっかけとなった。

 

13歳の時に比叡山にいる母方の叔父良顕法眼に会い、14歳で当時の天台座主公円立会いの元で出家した。

しかし天台宗の根本聖典『法華経』の注釈書「法華三大部」を学んでいる時に疑問に突き当たった。

 

彼が悩んだのは

「本来本法性、天然自性身」つまり「全てのものには仏性が備わっており、自然の万物は法(ダルマ)の現れである」

という教えである。

もしそうなら、どうして釈迦や各宗派の祖師たちは凄絶な修行をする必要があったのか?

と疑問に思い、公円を含む色んな師僧たちにぶつけるが満足のいく答えは得られなかった。

 

彼は山を下り、三井寺の公胤僧正を訪ね、彼の勧めで日本における臨済宗の開祖栄西のいる建仁寺の門を叩いた。

建仁時は禅だけでなく天台と真言の教えも併学する寺院であり、道元が抱く疑問を解いてくれるかもしれない、と公胤は考えたのだろう。

 

道元の問いに

「三世の諸仏有ることを知らず、狸奴白狐かえって有ることを知る」

と栄西は答えた。

仏陀は知らないが、畜生(動物)はそれを知る、という不可解な言である。

 

これについては

「悟りそのものである仏陀が、さらに悟る事はできない。狸奴白狐(獣として象徴される五感など全て)は、これから悟りを得ることができる」

といった解釈がある。

 

満足し切れなかった道元は、さらなる探求のため中国に渡り、現地の師僧たちに教えを請って回り、曹洞宗の天童如浄禅師と出会う。

 

如浄は妥協なき仏教者であり、名誉や栄華を離れ、座禅中に居眠りするような人間には

「参禅はすべからく身心脱落なり、みだりに打睡してなにをか為さん」

と自分の履いていた靴で打ち据えるという厳格な人物だった。

 

道元は彼に弟子入りし、印可(弟子の境地を保障する師匠による証明書)を頂く。彼のもとで二年間学んだ後、日本に帰国するが、その際に経典や仏像などは何も持ち帰る事がなかった。彼はその必要を感じていなかったのである。

 

帰国した彼は日本における曹洞宗の祖となり、京都を拠点にその教えを広めて回った。そして帰国から16年後、京都を離れ、北陸の山中に禅の道場「大仏寺」を建立した。これが後に永平寺と改名される事になる、日本曹洞宗の総本山である。

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