2025/10/27

サーマーン朝(3)

経済

9世紀末から、イスマーイール・サーマーニーが行った北方の草原地帯への遠征によって、交易路が確立される。また、西方においても、ブルガール、ハザールとの間で交易がおこなわれていた。王朝が鋳造した独自の貨幣は、交易路を介して南ロシア、バルト海沿岸部や北欧に広まり、それらの地では貨幣が出土している。さらに、交易に携わる商人を介して、交易路上のテュルク系遊牧民の間にイスラームが広まった。サーマーン朝は遊牧民から馬や肉、皮革を輸入し、綿織物、毛織物、絹織物を輸出していた。

 

また、国内の安定化は農業の発達に繋がったが、農村に利益は還元されなかった。農村部の利益は都市部の支配者層や商人の元に吸い上げられ、彼らの活動が都市の経済を活性化させた。

 

産業

前述のグラームの輸出が、サーマーン朝の主要産業となっていた。市場で購入された奴隷は5年の間訓練を受け、中でも優秀な人物は君主の側近として登用され、部下と官職を与えられた。彼らはブハラ、サマルカンドといったサーマーン朝の中心都市からアッバース朝中央に至るまで西アジア全域に供給され、イスラーム世界の軍事力がマムルーク中心となる端緒をつくった。

 

西アジア世界では、グラームの購入によって多量のディルハム銀貨が東方イスラーム世界に流出したため、鋳造される銀貨の質が低下した。

 

サーマーン朝の元では、製陶をはじめとする手工業が発達を見せた。サーマーン朝を代表する工業製品として、ザンダニージュ織、サマルカンド紙が挙げられる。これらの製品は、西方のイスラーム文化と中央アジア文化の調和によって生まれたとも言える。

 

文化

サーマーン朝はイスラーム化前のイラン文化の復興を推進し、支配下のオアシス都市では伝統的なイラン文化と外来のイスラーム文化が結びついたイラン・イスラーム文化が発達した。サーマーン朝で、民族的な文化復興が進められた理由については諸説あり、サーマーン朝の支配領域が当時のアラビア語イスラーム文化の中心地であるバグダードから遠く離れていた地理的理由、イランの名門貴族の出身であるサーマーン家が創始した王朝の性格などが挙げられている。そして、アラブ文化の影響をあまり受けず、伝統的な民族文化の保持に努めてきたイラン土着のディフカーン層が、サーマーン家による文化復興において協力的な役割を果たした。

 

宰相のジャイハーニーとバルアミーに補佐された国王ナスル2世は、ペルシア文化の保護と奨励に意を注ぎ、王朝の文化的・政治的発展は最盛期を迎える。11世紀に活躍した学者のサアーリビーは、多くの大学者が集うサーマーン朝時代のブハラの様子を記し、サーマーン朝で活躍した知識人は行政に携わる書記、宗教学者、文学者、詩人の4つの階層で構成されていた。首都ブハラは学問の中心となり、ブハーリー、イブン・スィーナー(アウィケンナ、アヴィセンナ)などの当時のイスラム世界を代表する知識人があらわれた。サーマーン朝統治下の中央アジアでは、知識人を養成するための神学校(マドラサ)が設立され、国からの補助が与えられたマドラサと、異端に属する学派が運営する私立のマドラサが存在していた。

 

サーマーン朝の治下では、アラブ人の征服以来沈滞していたイラン文化がイスラームと結びついて再興し、アラビア語の語彙が取り入れられたアラビア文字で表記する近世ペルシア語が発展した。サーマーン朝では、ホラーサーン様式(サブケ・ホラーサーニー)と呼ばれるペルシア語詩の文体が使用され、ルーダキー、ダキーキーらの詩人を輩出した。ダキーキーに触発された詩人フェルドウスィーは『シャー・ナーメ(王書)』の作詩に着手するが、完成の前にサーマーン朝は滅亡し、完成した『シャー・ナーメ』をガズナ朝の宮廷に献呈した。ほか、教訓詩の草分けであるアブー・シャクール、最初に十二イマームを称賛したメルヴのキサーイー、ペルシア文学最初の女性詩人ラービア・クズダーリーらが、サーマーン朝時代のイランで活躍した。

 

国王や貴族が熱心な詩人の保護者となったために詩人の数は非常に多く、サーマーン朝時代は名実ともにペルシア宮廷詩人が最も厚遇されていた時代といえる。ペルシア語詩人の活動地域は、マー・ワラー・アンナフルやホラーサーンといったペルシア東北部に限定され、ペルシア語での詩作と共に中央アジア各地の方言を用いた詩作を試みる動きも見られた。詩作以外の活動の1つとしては、バルアミーによる歴史家タバリーの著書のペルシア語訳が挙げられる。このペルシア語の復権には、土着の言語に対する愛国的尊厳と政治的意図が複雑に絡み合っていた。

 

一方ではアラビア語による作詩や著述活動も続けられており、サーマーン朝は2つの言語が併用された状態にあった。文章語としては依然としてアラビア語が多く使われており、後世のイラン、トルキスタンでは、アラビア語は神学の分野でなおも存続した。

 

また、サーマーン朝では数学、天文学などの自然科学も発達した。サーマーン朝末期には、イブン・スィーナー、ビールーニーというイスラム科学を代表する2人の学者が誕生した。

 

サーマーン朝期のブハラの建造物の多くは、イスマーイール・サーマーニーの治世に建てられた。ブハラにある、イスマーイール・サーマーニー廟の通称で知られるサーマーン家の廟は、中央アジア最古のイスラーム建築物と考えられている。また、イスマーイールの治世には、遊牧民の襲来に備えて中央アジアのオアシス都市を囲んでいた土塁の建設と保持が中止された。

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