滅亡
ナスル2世の没後に王朝の衰退が進み、ヌーフ1世の即位後に地主やグラームの権力闘争が激化する。また、スィル川中流域はサーマーン朝の影響下に置かれていたが、上流域と下流域は依然としてテュルク系遊牧民の支配下に置かれていた。
アブド・アル=マリク1世の治世では、グラーム出身の近衛隊長アルプテギーンが宮廷第一の実力者として権勢を誇っていた。文人宰相として有名なアブル=ファズル・バルアミーが、アルプテギーンの推挙によって宰相に起用される。961年(962年)にアブド・アル=マリク1世は、アルプテギーンを中央から遠ざけるためにホラーサーン総督に任命、同年にマリク1世は没する。
マリク1世の弟マンスール1世がアミールに即位するが、アルプテギーンはマンスール1世の即位に反対した。アルプテギーンはバルフを経て南部のアフガニスタン方面に移動し、ガズナで自立してガズナ朝を開いた。マンスール1世はガズナに討伐隊を送るが、アルプテギーンを破ることはできなかった。ガズナ朝は名目上はサーマーン朝に臣従していたが、事実上独立しており、ホラーサーン地方の領主も半独立した状態にあった。
一方、北方のカラハン朝は南下を開始し、980年にスィル川東岸のサイラムがカラハン朝の手に落ちた。ホラーサーン総督アブル・アリー・シムジェルとヘラート知事ファーイクはカラハン朝と内通し、992年にサマルカンドとブハラがカラハン朝の手に落ちた。カラハン朝の君主アル=ハサンはブハラに入城するが、急病に罹り撤退した。
ブハラに帰還したアミール・ヌーフ2世は、ガズナ朝のサブク・ティギーンに援助を求めた。サブク・ティギーンとその子マフムードはヘラート、ニーシャープール、トゥースの反乱を鎮圧し、ファーイクはカラハン朝に亡命した。しかし、ヌーフ2世とサブク・ティギーンの間に不和が生まれ、サブク・ティギーンはカラハン朝と講和を締結し、ファイクをサマルカンドの総督に任命した。
997年、マンスール2世が新たなアミールとなる。マー・ワラー・アンナフルはカラハン朝に浸食され、ホラーサーンはガズナ朝の君主となったマフムードに占領された。999年にマンスール2世は臣下のベクトゥズンに暗殺され、幼少のアブド・アル=マリク2世が即位する。カラハン朝のイリク・ハンはマリク2世の保護を名目にサーマーン朝の領土に進軍し、999年にブハラは陥落する。政府は民衆の抵抗運動に期待したが、イスラーム化したカラハン朝の進攻に対して頑強な抗戦は行われなかった。捕らえられたマリク2世は獄中で没し、サーマーン朝はカラハン朝とガズナ朝に挟撃される形で滅亡した。
滅亡後
サーマーン朝の王族イスマーイール・エル・ムンタジはイリク・ハンから逃れ、マリク2世の死後も抗戦を続けた。イスマーイールはオグズの支援を受けてカラハン朝に勝利を収め、ガズナ朝に占領されていたニーシャープールの奪回に成功する。1005年、イスマーイールは遊牧民によって殺害される。
1007年にはサーマーン朝の残党がアム川南方で再興を図ったが、ガズナ朝によって駆逐された。
社会
行政機構
サーマーン朝はサーサーン朝やアッバース朝の司法・行政を見本とし、よく整備された官僚制度と徴税システムを備えていた。また、サーマーン朝の君主はサーサーン朝の貴族の家系に連なることを強調した。
王朝の経済力を支えたのは在地のイラン系領主(ディフカーン)であり、トルコ系遊牧民の軍人奴隷(グラーム、マムルーク)が軍事力の基盤となっていた。政府には10の行政部局(ディーワーン)が存在し、ジャイハーニーやバルアミーらの宰相によって行政機構は機能していた。ソグディアナ、フェルガナ、ホラーサーンからの税収が国の収入源となり、税収の約半分は軍隊と官僚機構の維持費に充てられていた。サーマーン朝の時代にディフカーンの衰退が進み、王朝を打倒したカラハン朝の時代にディフカーンの没落は決定的になる。
軍人奴隷
戦争捕虜などの形で北方の草原地帯から連行された遊牧民は、タシュケントなどの草原地帯とオアシス地帯の境界に位置する都市の奴隷市場で売買されていた。また、奴隷市場で売買されていたグラームの中には、王朝末期の有力者ファーイクのようなイベリア半島出身者もいた。中央アジアと西アジアの境界であるアムダリヤには関所が設置され、中央アジアから西アジアへのグラームの移動には通行許可証と通行料が要求されていた。
系統立てられた教育を受け、さらに君主への忠誠と軍事力を兼ね備えていたグラームは、サーマーン朝の隆盛に大いに貢献した。オアシス都市群の文化・経済力とグラームによる国家の発展は、定住民と遊牧民の協調によって生み出された成果とも言える。独立を企てる地方領主はグラームによって制御されており、グラームの重要性はサーマーン朝の命運を左右するほど大きなものとなった。グラームの導入によって支配者層と被支配者層の乖離が進み、支配者層・グラームと国家の人口の大部分を占める都市・周辺地域の住民との関係は断絶する。
サーマーン朝で行われていた軍人奴隷の養成システムは、13世紀にエジプトで成立したマムルーク朝の諸制度、オスマン帝国のカプクル(宮廷奴隷)制度の起源になったと考えられている。
宗教
サーマーン朝は、ハナフィー学派の信条を公的な教義としていた。ハナフィー派の神学者ハーキム・サマルカンディーの著書『大衆の書』は、イスマーイール・サーマーニーの公認を受けていた。
サマルカンドではハーキム・サマルカンディーのほか、ハナフィー学派から分かれたマートゥリーディー学派の祖アブー・マンスール・マートゥリーディー(873年以前 - 944年?)が生まれている。マートゥリーディー学派はアシュアリー学派とともに、スンナ派の正統神学とみなされるようになる。また、ザーヒル・イブン・アフマド、アル=カッファールら法学者たちの活動によって、サーマーン朝統治下のホラーサーン北部とトルキスタンにシャーフィイー学派が広まった。
サーマーン朝支配下のトルキスタンの都市には、ゾロアスター教徒の共同体が存在していた。また、マニ教を信仰する人々も生活していた。サーマーン朝では、サマルカンドに住むマニ教徒に対する弾圧が計画されたが、マニ教を信仰するトグズ・オグズの指導者が自分たちの領地内のムスリムに報復を行うと脅迫したため、弾圧は中止された。
0 件のコメント:
コメントを投稿