転機
建永元年(1206年)12月頃、後鳥羽上皇の熊野御幸の間に、安楽房遵西と住蓮が鹿ヶ谷で開いた別時念仏会に院の女房らが参加した。『愚管抄』によれば、彼女たちは安楽房の説法を聞くために彼らを上皇不在の御所に招き入れ、夜遅くなったからとしてそのまま御所に泊めたとされている。彼女らの中に出家をする者があった。
なお、出家したのは松虫(松虫姫)と鈴虫(鈴虫姫)という名前の女性だったという説がある。この二名の名前は、『安楽寺略縁起』や『住連山安楽寺鹿ケ谷因縁団』等にみられる記述である。この説に対し仏教史家の今井雅晴は、『安楽寺略縁起』は江戸時代末期の成立、『住蓮山安楽寺鹿ケ谷因縁団』は1899年(明治32年)に刊行されており、この時代以前の資料に記述が見られない事から、江戸時代以降の創作である可能性が高いとしている。
法難
女房の一部が出家したことに加えて、男性を自分の不在中に御所内に泊めたことを知った後鳥羽上皇は憤怒し、建永2年(1207年)2月、専修念仏の停止を決定。住蓮房・安楽房に死罪を言い渡し、安楽房は六條河原において、住蓮房は近江国馬渕にて処される。その他に、西意善綽房・性願房の2名も死罪に処される。
同月28日、怒りの治まらない上皇は、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子を流罪に処した。法然は、土佐国番田(現、高知県)へ、親鸞は越後国国府(現、新潟県)へ配流される。 この時、法然・親鸞は僧籍を剥奪される。法然は「藤井元彦」の俗名を与えられ、親鸞は「藤井善信」(ふじいよしざね)を与えられる。
しかし法然は土佐まで赴くことはなく、円証(九条兼実)の庇護により、九条家領地の讃岐国(現、香川県)に配流地が変更され、讃岐で10ヶ月ほど布教する。
その後、法然に対し赦免の宣旨が下った。しかし入洛は許されなかったため、摂津の勝尾寺(大阪府)で滞在する。ようやく建暦元年(1211年)11月、法然に入洛の許可が下り、帰京できたものの、2ヵ月後の建暦2年(1212年)1月25日、死去する。
建暦元年(1211年)11月、親鸞に対しても赦免の宣旨が下る。親鸞は、法然との再会を願うものの、時期的に豪雪地帯の越後から京都へ戻ることが出来なかった。雪解けを待つ内に法然は亡くなり、師との再会は叶わないものと知る。親鸞は、子供が幼かったこともあり越後に留まることを決め、後に東国の布教に注力することになる。
親鸞の「承元の法難」に対する怒りと後鳥羽上皇批判
この時、処断された者の一人である親鸞は著作『顕浄土真実教行証文類』の中で、「後鳥羽上皇とその臣下が、法を無視し義に反する行いをした」と批判している。これについて、今井雅晴は、親鸞の批判の背景として、次のように考えている。
後鳥羽上皇が、女官に出家を決意させた安楽等の専修念仏者に怒りを募らせ恨むあまり、公卿を集めた会議や儒学者への法的見解の諮問といった、当時の一般的な刑罰決定の手順を一切省略し「法に背き義に反する」院宣を下した事。
“死刑が決定した場合、死刑囚に対し死刑宣告のみを行い実際には死刑を執行しない”という、当時の朝廷が受け継いでいた伝統的な慣例を独断で破り、実際に死刑を執行してしまった事。
等の後鳥羽上皇の行いに対し、公的に用いるべき権力を私的に利用したとして、反感を募らせていたとみられる。親鸞の批判は、法律や慣習を無視し、権力を傘に超法規的な手段で私怨を晴らそうとした後鳥羽上皇の人間性や、それに伴う処断の違法性を糾弾する内容であり、朝廷が念仏弾圧を行ったから等という類の批判ではない。以上が今井雅晴の説である。
承元の法難に対する異説
中世日本史を専門とする歴史学者の本郷和人は、従来の歴史観による「承元の法難」理解は、『「南無阿弥陀仏を認めるか認めないか」という純粋な宗教的対立がきっかけとなり、宗教が元で人が死ぬまでに至った事件として認知されている』出来事であると定義している。
その上で、本郷は「この事件は、法然の門弟たちが後鳥羽上皇の寵愛する女官たちと密通したうえ、上皇の留守中に彼女たちが出家してしまったため、後鳥羽上皇の逆鱗に触れたという話で、密通事件さえ起きなければ宗教がもとで人が死ぬことは無かったと言える」との見解を示している。
讃岐配流と晩年
讃岐国滞在は10ヶ月と短いものであったが、九条家領地の塩飽諸島本島や西念寺(現・香川県仲多度郡まんのう町)を拠点に、75歳の高齢にもかかわらず讃岐国中に布教の足跡を残し、空海の建てた由緒ある善通寺にも参詣している。法然を偲ぶ法然寺も高松市に所在する。
承元元年(1207年)12月に赦免されて讃岐国から戻った法然が、摂津国豊島郡(現・箕面市)の勝尾寺に承元4年(1210年)3月21日まで滞在していた記録が残っている。翌年の建暦元年(1211年)には京に帰り、吉水草庵に入ろうとしたが荒れ果てていたため、近くにある大谷禅房(現・知恩院勢至堂)に入っている。
建暦2年(1212年)1月25日、大谷禅房にて死去。享年80(満78歳没)。なお、死の直前の1月23日には弟子の源智の願いに応じて、遺言書『一枚起請文』を記している。廟所は大谷禅房の隣(現・知恩院法然上人御廟)に建てられた。
法然の門下には、弁長・源智・信空・隆寛・証空・聖覚・湛空・長西・幸西・道弁・親鸞・蓮生(れんせい、熊谷直実)らがいる。また俗人の帰依者・庇護者としては、公家の式子内親王・九条兼実、関東武士の津戸(つのと)三郎為守・大胡(おおご)四郎隆義・大胡太郎実秀父子・宇都宮頼綱などがいる。
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