2025/11/26

遣唐使(2)

遣唐使の歴史にとって大きな画期になるのは、大宝2年(702年)に派遣された第8次遣唐使である。日本側では、遣使に文武天皇が初めて節刀を与えて国交正常化を目指し(一時期、有力視された石母田正の「大宝律令を唐側に披露した」という説は、唐王朝は律令が天下に君臨する皇帝の定める帝国法だと、周辺諸国の律令導入と編纂を認めなかったとする説が有力となったことから、成立困難となっている)。

 

当時、則天武后の末期にあたり、唐(当時は「周」)の外交が不振な時期であったため、積極的な歓迎を受けた。粟田真人大使により日本の国号変更が報告され、中国皇帝は東アジアでの国号調整権を持ち、則天武后が承認したのもこの時である(『新唐書』「東夷伝」日本条)。記録の不備、あるいは政治的事情からか遣唐使が唐側を納得させる説明が出来ず、後の『旧唐書』に「日本伝」と「倭国伝」が並立する遠因になったという説がある。

 

8世紀になると東アジアの情勢も安定し、文化使節としての性格を強めていく。9世紀前半に日本側も朝貢を前提とし「201貢」を原則としていたが、日本側は天皇の代替わりなどを口実にそれよりも短期間での派遣を行った。また、宝亀6年(775年)の遣唐使の際には、唐の粛宗の意向で帰国する遣唐使に随行する形で、唐側からの使者が派遣されている(ただし、大使の趙宝英は船の難破によって水死し、判官が代行の形で光仁天皇と会見している)。その一方で、正史や現行の律令など唐王朝にとって重要な書籍・法令などは持ち出しが禁じられており、また遣唐使を含む外国使節の行動の自由は制約されていた。

 

9世紀に入ると、遣唐使を取り巻く情勢が大きく変わってくる。まず、唐では安史の乱以後、商業課税を導入した結果、国家の統制下とは言え民間の海外渡航・貿易が許されるようになったことである(これは新羅に関しても同様で、9世紀前半の張保皐の活動は、その代表的な存在である)。また、安史の乱以後の唐の国内情勢の不安定が外国使節の待遇にも影響を与え、延暦23年(804年)の遣唐使の時には唐側から厚く待遇されて帰国を先延ばしにすることを勧められる程(『日本後紀』延暦246月乙巳条)であったが、やがて冷遇されていく。

 

一方、日本側の事情としては、遣唐使以外の海外渡航を禁止していた「渡海制」の存在も影響し、遣使間隔が空くことによって渡海に必要な航海技術・造船技術の低下をもたらし、海難の多発やそれに伴う遣使意欲の低下をもたらした。結果的には「最後の遣唐使」となった承和5年(835年)の遣唐使は出発に2度失敗し、その間に大使藤原常嗣と副使小野篁が対立して篁が乗船を拒否して隠岐へ配流されるが、根底に遣唐使の意義に疑問があったとされる。さらに、帰国時にもその航路を巡って常嗣と判官長岑高名が対立するなど、諸問題が一気に露呈した。

 

承和5年(835年)の遣唐使の時には、留学生・請益生(短期留学生)を巡る環境の悪化も問題として浮上していた。元来、留学生は次の遣使(日本であれば、次の遣唐使が派遣される20-30年後)まで唐に滞在し、費用の不足があれば唐側の官費支給が行われていたが、留学生に対しても留学期間の制限を通告される(円仁『入唐求法巡礼行記』(唐)開成422427日条)などの冷遇を受けた。承和の留学生であった円載は、官費支給は5年間と制約され、以後日本の朝廷などの支援を受けて留学を続けた(なお、円載の留学は40年に及んだが、帰国時に遭難して水死する)。

 

また、留学して現地で長期間生活する上で必要な漢語(中国語)の習得に苦労する者も多かった。承和の遣唐使の天台宗を日本に伝えた最澄は漢語が出来ず、弟子の義真が訳語(通訳)を務め、橘逸勢は留学の打ち切りを奏請する文書の中において、唐側の官費支給が乏しく次の遣唐使が来るであろう20年後まで持たないことと並んで、漢語が出来ずに現地の学校に入れないことが挙げられており(『性霊集』巻5「為橘学生与本国使啓」)、最終的に2年間で帰国が認められている。

 

唐の衰退による政治的意義の低下、唐・新羅の商船による文物請来、留学環境の悪化など、日本国内の造船・航海技術の低下など、承和の遣唐使とそれに相前後する状況の変化は遣唐使を派遣する意義を失わせるものであり、寛平6年(894年)の遣唐使の延期とその長期化、ひいては唐の滅亡による停止(実質上の廃止)に至る背景が延暦・承和の派遣の段階で揃いつつあったと言える。

 

遣唐使の航路

遣唐使船は、大阪住吉の住吉大社で海上安全の祈願を行い、海の神の「住吉大神」を船の舳先に祀り、住吉津(大阪市住吉区)から出発し、住吉の細江(現・細江川 通称・細井川)から大阪湾に出、難波津(大阪市中央区)に立ち寄り、瀬戸内海を経て、那大津(福岡県福岡市博多区)に至り大海を渡る最後の準備をし出帆。その後は、以下のルートを取ったと推定されている。

 

北路

北九州(対馬を経由する場合もある)より朝鮮半島西海岸沿いを経て、遼東半島南海岸から山東半島の登州へ至るルート。

630年から665年までの航路だったが、朝鮮半島情勢の変化により使用しなくなった。

 

南路

五島列島から東シナ海を横断するルート。日本近海で対馬海流を横断して西進する。

702年から838年までの航路。

 

南島路

薩摩の坊津(鹿児島県南さつま市)より出帆し、南西諸島経由して東シナ海を横断するルート。

日本古代海運史の研究者杉山宏の検討により、存在が証明できないことが判明している。気象条件により、南路から外れた場合にやむを得ずとった航路と考えられ、南路を取って漂流した結果に過ぎず採用の事実はないとする説もある。

 

663年の白村江の戦いで日本は朝鮮半島での足場が無くなり、676年の唐・新羅戦争で新羅が半島から唐軍を追い出して統一を成したため唐と新羅の関係が悪化し、日本は北路での遣唐使派遣が出来なくなり、新たな航路の開拓が必要になった。なお、665年の遣唐使は、白村江の戦いの後に唐から日本に来た使節が、唐に帰る際の送唐客使である。

 

839年の帰路は、山東半島南海岸から黄海を横断して朝鮮半島南海岸を経て、北九州に至るルートがとられたようである。

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