親鸞聖人三御影
「鏡御影」「安城御影」「熊皮御影」は親鸞の絵像の代表作であり、「親鸞聖人三御影」と総称される。教科書など、親鸞の人物像として取り上げられることも多い。いずれも「帽子(もうす)」を首に巻き、数珠を持つ老僧という親鸞描写の典型である。
「鏡御影」
黒い墨の線のみで描かれた立ち絵。三御影のうち唯一カラーでない。
「安城御影」
帽子の色は茶色。畳に敷かれた狸皮の上に座す。畳の手前に火桶と草履と杖がある。
「熊皮御影」
帽子の色は白色。畳に敷かれた熊皮の上に座す。畳の縁に杖が置かれている。鼻毛が出ている。
禿御影
親鸞は「非僧非俗」の己の有り様をさして「禿(かむろ)」と呼び、この呼称を冠した「禿御影」と呼ばれる作例が、いくつか残されている。黒々とした丸刈りの髪型の青年期から壮年期にかけての姿。
流罪勅免御満悦御真影
40才の時の姿。僧籍を剥奪され、35際で流罪に処せられてから5年間僧衣を着る事も許されていなかった。5年後にそれが放免され、その時の姿を親鸞自身が描いたとされるものが上野山国府光源寺(新潟県上越市国府)に伝わっている。衣類は、流罪の時に来ていた服を僧衣に仕立て直したものとされ、薄い灰色をしている(あさぎ色の流罪着が色あせた様子を表現したものか)。左手が上にあがっており「左上御影」とも呼ばれる。この構図の親鸞像は、光源寺所蔵以外にも数点残っている。
家族関係
妻
親鸞には、生涯において複数の妻がいたという説がある。挙げられるのは、恵信尼、玉日姫、「壬生の女房」の三人である。
恵信尼
恵信尼は、大正10年(1921年)に西本願寺の宝物庫から発見された手紙『恵信尼消息』によって実在が証明されており、全ての真宗教団で実在が支持される人物である。
「壬生の女房」
「壬生の女房」は、後述の善鸞に関する「善鸞義絶状」と『恵信尼消息』に記された人物で、善鸞の母とも解釈される事も。
玉日姫
親鸞やその関係者による記述には名が見えず、室町時代(早くても鎌倉時代後期)成立の『親鸞聖人御因縁』から言及され始める。法然の浄土宗の信徒となった公卿藤原兼実(九条兼実)の娘とされる。が、彼の日記『玉葉』や彼に連なる九条家の家系図にも、その名は見られない。『玉葉』などの記録に見られる娘は任子だけであるが、彼女が親鸞と結婚したともされていない。
貴族は貴族でも没落貴族である親鸞と、関白等の重要役職を勤めたトップ貴族の長女(一人娘)は、どうあがいても釣り合わない。現に史実の兼光は、彼女を後鳥羽天皇の后にしようと奮闘していた。そのためか玉日を兼光の七女とする文献もある。
『御因縁』の時点で「七番目の娘」という記述はあるが、この本では父とされるのは「月輪法皇」という名前になっている。兼光の別名が「月輪殿」なので明確に彼がモデルなのだが、当然兼光は法皇ではないし、同名の法皇も存在しない。さすがに後世の文献では「法皇」記述はされなくなった。
親鸞伝において、親鸞と玉日との出会いは六角堂の夢告と絡め、僧侶の妻帯のテーマと結びついた運命的で鮮烈なエピソードとして綴られており、後続の文献では彼女を観音の化身と明記される形でも整合させられている。
歴史記録的には難があるが玉日の物語は印象的で、彼女が登場する親鸞伝は後世においても複数点編まれ、信心の対象としての玉日姫の像が建立されたり、親鸞と並んで描かれた絵も多数制作された。
近世まではその存在が疑われる事はほぼ無かったが、近代に突入し、各門派が歴史学指向を強めるにつれ、玉日姫への崇敬も下火になっていった。
2012年に玉日姫のものとされる遺骨が発掘された際も、本願寺側は上述の史料の問題を挙げて静観の構えを見せている。
玉日姫への崇敬じたいは現存しており、そのほか恵信尼と同一人物とする解釈がされているのも見受けられる。
子
4男3女がいる。『本願寺系図』では、全員が恵信尼との子とされる。
印信(範意)
『本願寺系図』や『日野一流系図』では長男。園城寺の阿闍梨だったという。異伝では玉日姫との子ともされる。
小黒女房
昌姫とも。詳細な情報は残っていない。京都か越後の出身だという。小黒(現:新潟県上越市安塚区小黒)の地に住む男性の妻となったので、この呼称があるともいう。当地の伝承によると比較的若い年齢で亡くなり、彼女の息子と娘を恵信尼が世話したという。
善鸞
次男または長男とも。父親鸞との教義の解釈の違いにより擬似絶縁された。「善鸞義絶状」で善鸞は恵信尼を「継母」と呼んでいる。親鸞が自身を異端者と疑っているのを、恵信尼に対して「継母の尼僧が嘘を吹き込んだんだ」と言う文脈であり、実母への批難を込めて言っているという解釈もある。
「本当の母ではない」的な文面ならまだしも……という不自然さはあり、彼を親鸞の前妻の子とする説の根拠とされる。
真宗系の秘密教団「秘事法門」では、親鸞から秘密の教えをひそかに授けられた「第二祖」的ポジションとして扱う。袖の下越しに伝授されたという『御袖下の御書』は、明治時代の真宗教団VS秘事法門の信者争奪戦の折に内容が暴露され、現在は著作権切れでネット公開されている。
明信〈栗沢信蓮房〉
『本願寺系図』では四番目の子とする。『恵信尼消息』では「信蓮房」と呼ばれる。栗沢(現:新潟県上越市板倉区栗沢)に住んでいた。
「のづみ」の山中(現・新潟県上越市の山寺薬師)で不断念仏(絶えず念仏を唱える)を行い、親鸞のために何か本を書かなくてはならないと漏らしていたという。栗沢の丈六山の「聖の窟(ひじりのいわや)」でも修行していたと伝わる。山寺薬師には後に、恵信尼の父・三善為教の子孫・三善讃阿が薬師如来・釈迦如来・阿弥陀如来の像を寄進している。
有房〈益方大夫入道〉
『日野一流系図』では五番目の子とする。益方(現:新潟県上越市板倉区の下関田益方)に住んでいた。従五位下の位を与えられ、複数の子供がいた。浄土真宗誠照寺派における第2世であり、彼の子で『勧化章(かんけしょう)』著者の如信は第3世と位置づけられる。
高野禅尼
嵯峨とも。「高野」とは現在の新潟県長岡市の「高野山(たかのやま)」に住んでいたことによる名。
覚信尼
末の娘。晩年まで親鸞と行動を共にし、彼の没後は他の弟子たちと共に宗祖の墓廟「大谷廟堂」を建立、信徒集団のとりまとめ役となり、本願寺教団の基礎を築いた。
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