2025/11/20

親鸞(4)

入滅

弘長2年(1262年)1128日 (グレゴリオ暦換算 1263116日)、押小路南 万里小路東にある実弟の尋有が院主である「善法院」にて、行年90(満89歳)をもって入滅する。臨終は、親鸞の弟の尋有や末娘の覚信尼らが看取った。遺骨は、鳥部野北辺の「大谷」に納められた。流罪より生涯に渡り、非僧非俗の立場を貫いた。

 

荼毘の地は、親鸞の曽孫で本願寺第三世の覚如の『御伝鈔』に「鳥部野(とりべの)の南の辺、延仁寺に葬したてまつる」と記されている。

 

頂骨と遺品の多くは弟子の善性らによって東国に運ばれ、東国布教の聖地である「稲田の草庵」に納められたとも伝えられる。

 

入滅後

報恩講

親鸞の祥月命日には、宗祖に対する報恩感謝のため「報恩講」と呼ばれる法要が営まれている。

 

浄土真宗各派本山の成立

この節の加筆が望まれています。 (201410月)

大師号追贈

明治9年(1876年)1128日、明治天皇より「見真大師|」(見眞大師、けんしんだいし)の諡号を追贈された。西本願寺・東本願寺・専修寺の御影堂の親鸞の木像の前にある額の「見真」(見眞)は、この諡号に基づく。

 

浄土真宗本願寺派は、「本願寺派宗制」を20071128日改正・全文変更(200841日施行)し、宗門成立の歴史とは直接関係ないなどの理由により親鸞聖人の前に冠されていた「見真大師」の大師号を削除した。2008415日には、同派における規範のひとつで、親鸞聖人の流れをくむものとして心に銘ずべき内容を定めた「浄土真宗の教章」(1967年制定)も改正され、大師号が削除された。

 

真宗大谷派は、1981年に「宗憲」を改正し「見真大師」の語を削除した。また御影堂に対して用いられていた「大師堂」の別称を本来の「御影堂」に復した。

 

現代における受容・評価

高校で使われる倫理の教科書では、かつて親鸞が法然の教えを「徹底」または「発展」させたという記述が多かったが、優劣をつけない表現へ修正されつつある。

 

親鸞非実在論

明治29年(1896年)、村田勤は『史的批評・親鸞真伝』「第十二章 系圖上の大疑問」において、在世当時の朝廷や公家の記録にその名が記されていなかったこと、親鸞が自らについての記録を残さなかったことなどから、親鸞の存在を疑問視し、架空の人物とする説を提唱した。続いて東京帝国大学教授の田中義成と國學院大学教授の八代国治が「親鸞抹殺論」の談話を発表した。

 

しかし、大正10年(1921年)に鷲尾教導の調査によって、西本願寺の宝物庫から越後に住む親鸞の妻である恵信尼から、京都で親鸞の身の回りの世話をした末娘の覚信尼に宛てた書状(「恵信尼消息」)10通が発見される。その内容と親鸞の動向が合致したため、親鸞が実在したことが証明されている。

 

根本経典

親鸞は、「浄土三部経」と総称される『佛説無量寿経』、『佛説観無量寿経』、『佛説阿弥陀経』を、拠り所の経典とする。

特に『佛説無量寿経』を『大無量寿経』(『大経』)と呼び、教えの中心となる経典として最重要視する。

 

教義

概要

親鸞が著した浄土真宗の根本聖典である『教行信証』の冒頭に釈尊の出世本懐の経である『大無量寿経』が「真実の教」であるとし、阿弥陀如来(以降「如来」)の本願(四十八願)と、本願によって与えられる名号「南無阿弥陀佛」(なむあみだぶつ、なもあみだぶつ〈本願寺派〉)を浄土門の真実の教え「浄土真宗」であると示した。

 

親鸞は名号を「疑いなく(至心)我をたのみ(信楽)我が国に生まれんと思え(欲生)」という阿弥陀仏からの呼びかけ(本願招喚の勅命)と理解し、この呼びかけを聞いて信じ順う心が発った時に往生が定まると説いた。そして往生が定まった後の称名念仏は、「我が名を称えよ」という阿弥陀仏の願い(第十八願)、「阿弥陀仏の名を称えて往生せよ」という諸仏の願い(第十七願)に応じ、願いに報いる「報恩の行」であると説く。そのことを「信心正因 称名報恩」という。念仏を、極楽浄土へ往生するための因(修行・善行)としては捉えない。

 

如来の本願によって与えられた名号「南無阿弥陀仏」をそのまま信受することによって、臨終をまたずにただちに浄土へ往生することが決定し、その後は報恩感謝の念仏の生活を営むものとする。このことは、名号となってはたらく「如来の本願力」(他力)によるものであり、我々凡夫のはからい(自力)によるものではないとし、絶対他力を強調する。なお、親鸞の著作において『絶対他力』という用語は一度も用いられていない。

 

教えに対する解釈は真宗大谷派、 浄土真宗本願寺派、本願寺派から分派したとされる浄土真宗親鸞会などで、それぞれ差異がある。

 

以上のような親鸞の教学は、あくまでも自身の生涯の師(本師)である法然の専修念仏の教学を基礎としたもので、親鸞自身は新しい教えや宗派の創設を意図していなかった。しかし、自らも含めた人間の欲望や弱さなどに、ありのまま向き合う中で到達した阿弥陀の本願に関する親鸞の解釈には、阿弥陀からの呼びかけを信じ順う心が発った時点で、念仏さえ要せずに極楽往生が定まる(その後の念仏は、自然(じねん)の報恩である)など他力思想の徹底。その表裏として、修行や善行といった自力で涅槃に至ることができるという自称善人のおごり・はからいを戒め、むしろ、万人が等しく凡夫・悪人として救済されることこそ阿弥陀の本願であるとの世界観・人間観など、独自の特色があり、ここに浄土真宗が独立宗派として成立する思想的基盤があった。

 

また、このような親鸞の思想は、仏陀自身が説いた初期仏教とは様相の異なるもので、他力思想の徹底という意味では、初期仏教の限界を乗り越えようとする営みの連続であった大乗仏教の中でも殊に特徴的であり、仏教というよりも人間の原罪とキリストによる救済という構図を有するキリスト教に近いとの指摘が、かねてからされている。一方で、親鸞の思想を狭い意味での仏教の中だけで理解しようとすることを戒め、仏教伝来前から現代に至るまで通底する日本の精神的土壌が仏教を通して顕現したものであるとして、積極的に評価する意見もある。

 

一方、日本中世の体制仏教を顕密体制ととらえる歴史学の立場から、親鸞の専修念仏思想は、称名念仏を末代における唯一の仏法ととらえ、当時の階層的宗教秩序を否定するものであったとする見解もある。

 

教義・教学の用語

    称名念仏

    他力本願

    往還二回向往相回向・還相回向

    悪人正機

    現生正定聚

 

子孫

 

    善鸞 - 毫摂寺第二代/證誠寺第二世。親鸞の帰洛後の東国では、門徒の法義理解の混乱や対立が発生する。それを正すため善鸞と、その実子如信を派遣するも収束できなかった。善鸞は異義異端事件を起し義絶される。続柄については諸説あり、親鸞の長男もしくは二男。

    覚信尼 - 親鸞の墓所である「大谷廟堂」を建立し、初代留守職となる。親鸞の娘。

    覚如 - 本願寺第三代。本願寺の実質的な開祖。親鸞の曽孫。

    存覚 - 常楽寺 (下京区)初代。錦織寺四代。佛光寺七代/興正寺七世の了源の師。親鸞の玄孫。

    蓮如 - 本願寺第八代。本願寺中興の祖。親鸞からみて直系9親等(「雲孫の子」)にあたる。

    顕如 - 本願寺第十一代。戦国時代に顕如を法主とする本願寺は、織田信長と敵対する。(石山合戦・信長包囲網)。親鸞からみて直系13親等にあたる。

    教如 - 東本願寺第十二代。顕如の長男。顕如の示寂にともない本願寺を継承し本願寺第十二代となるも、豊臣秀吉により退隠を命ぜられる。秀吉の歿後、後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康より京都七条烏丸に寺領が寄進され、本願寺(東本願寺)を分立する。親鸞からみて直系14親等にあたる。

    准如 - 西本願寺第十二代。顕如の三男。顕如の示寂後に秀吉の命により本願寺第十二代となる。

    大谷家 - 明治時代に名字必称となると、浄土真宗本願寺派や真宗大谷派など本願寺教団の法主(門主・門首)、およびその一族が姓を「大谷」とした。本願寺派第25代大谷光淳は親鸞からみて26親等にあたる。真宗大谷派第二十五代門首の大谷暢顯は親鸞からみて25親等にあたり、20144月に門首後継者に選定された大谷暢裕も親鸞からみて25親等にあたる。浄土真宗東本願寺派第二十五代門主の大谷光紹は、親鸞からみて直系25親等にあたる。

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